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Takumar三兄弟

なんと、Takumarレンズが3本に増えてしまいました。

  • Super-Multi-Coated TAKUMAR 1:3.5/28 (42mm)
  • Super-Multi-Coated TAKUMAR 1:3.5/35 (52.5mm)
  • Super-Takumar 1:2/55 (82.5mm)

括弧内は、α-7 DIGITALに装着した時の35mm換算焦点距離です。 最初に55mmを手に入れて、その描写に惚れ込んだものの、普段使いには画角が狭過ぎました。 そこで、28mmも手に入れたわけですが、風景を撮るには良さそうですが、スナップにはちょっと画角が広過ぎるかな。 というわけで、35mmまで手に入れて、やっとラインナップが完成したというわけです。

Super-Takumarはシングルコーティングなので、逆光に弱い!ということで、あれこれフードも手に入れて試してみました。 すると、55mmには135mm用、35mmには100mm用、28mmには50mm用のフードがちょうど良いことがわかりました。 画角ギリギリなので、ちょっとでも指がかかるとケラレてしまいますが、遮光性能は申し分ありません。

どのレンズも、実にキレが良く、色味も品が良く、ピントも合わせやすく、大変気に入っています。 うちのマウントアダプターはピン押しタイプではないので、絞りのAuto/Manual切り替えレバーで、絞り開放と実絞りを素早く切り替えることができます。 とてもコンパクトなので、3本を持ち歩いても、さほど苦になりません。 もう、言うことなしですね。

これからは、Takumarで撮りまくってやるぞ!

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論理の使い方

論理の使い方には、ふたつあります。

ひとつは、答らしきものを論理によって構築する方法。 科学の実験みたいなもので、何らかの現象に対して、観察して、仮説を立てて、実験して、考察して、再び観察して、新たな仮説を作っていって、ぐるぐる回りながら、より確からしい答を求めていきます。 その過程のどこかに間違いがあっても、このサイクルが守られている限り、より正しい答に近づくことができます。

もうひとつは、すでにある答を論理によって擁護する方法。 試験に出てくる数学の証明問題みたいなもので、「これはこうである。なぜそうなのかを証明しなさい」という問題から全てが始まります。 それはもう、絶対的に正しいんだから、どんなこじつけであろうと、もっともらしい理由をつけなきゃ、試験は通らないぞ。 というわけで、荒唐無稽な珍説を、大真面目で解答してしまいます。

科学の場合は、研究成果を論文にして学会に発表することで、他の学者達の判断を仰ぎます。 ある学者は、同じ実験を試すことによって、その実験結果が正しいかどうかを検証します。 またある学者は、実験によって得られたデータを詳細に検討することで、その仮説が正しいかどうかを検証します。 そうして、多くの学者達によって認められたものが、科学的事実として承認されます。

数学の証明問題も、正しい論理の組み立て方をしなければ、点をもらうことはできません。 場合によっては、証明は不可能という結論に至るかもしれません。 でも、受験の場合は、間違っているとしても、何か書いて埋めなければ、安心することはできません。 同じように、頭からそれが正しいと思い込んでしまうと、どんなに無茶な論理でも、筋が通ったように見えてしまうことがあります。

残念ながら、世の中には、そういった無茶な論理が飛び交っています。 じゃあ、偽物の論理を見抜くためには、どうすれば良いのでしょうか。 それは、自分の経験と照らし合わせてみることです。 経験というのは、その人の人生の中で積み上げられてきた、もっともらしい答の集合体です。 もちろん、発展途上のものなので、間違った答もあるでしょうが、それはいずれ淘汰されていくことでしょう。

もし、論理を論理で対抗しようとすると、白熱した議論になるかもしれませんが、結局は水掛け論になってしまって、何も答を得ることはできません。 議論によって、何らかの答を得ることができることもありますが、得られた答が擁護すべき絶対的な答になってしまって、さらに無茶な論理を生み出すことになってしまいます。 どこかで、論理を抜け出して、現実に目を向けなければなりません。

結局のところ、論理というものは、論理だけで成り立つものではないんですよね。

PhotoMaster 3 a8 公開

お待たせしました。PhotoMaster 3 a8を公開します。

使用期限は、2009年7月31日までです。

PhotoMaster 3 a8 ( 2009/07/03 )

機能の追加

  • 撮影日時の修正
  • このアプリケーションで開く

動作の改善

  • なし

不具合の修正

  • Windowsで、タスクバーから「デスクトップを表示」実行後に、復帰できなくなる問題を修正

今回の目玉は、外部アプリケーションの起動です。 PhotoMaster 2では、良く使うアプリケーションを、あらかじめ環境設定で登録しておく必要があったのですが、PhotoMaster 3では、ファイルの拡張子に対応したアプリケーションを自動的にリストアップするようにしています。 Macでの実装はすんなりといったのですが、Windowsではレジストリの扱いに慣れていないせいもあって、予想外に時間がかかってしまいました。 でも、苦労した甲斐があって、格段に使いやすくなっています。

今後とも、PhotoMasterをよろしくお願いします!

飛ばないトンボ

飛べるのに、飛びたくない時だって、あるよね。

アートの定義

アートって、結局のところ、「何かを感じる心」なんですよね。

辞書的な意味では、「一定の材料・技術・様式を駆使して、美的価値を創造・表現しようとする人間の活動およびその所産(広辞苑第五版より)」となっています。 でも、誰かがアート作品を作ったとして、それに誰も美的価値を感じなかったとしたら、アートとは言えないんじゃないの? 逆に、アート作品でないものに、誰かが美的価値を感じたとしたら、それもアートになるんじゃないの?

実際、アート作品と言われているものの中には、美しさよりも醜さを感じさせるものがありますし、何が何だかさっぱりわからないものもあります。 一方、きらめく木漏れ日や、木々のざわめき、川のせせらぎや、小鳥のさえずりなど、自然の中に美を感じることは、良くあることです。 また、街灯の明かりや、金属の鈍い輝き、都会の喧噪や、古びた町並みなどに、美しさを感じることもあります。

美的価値を作り出すことがアートだということに異論はありませんが、特別な創作活動をしなくても、美的価値を認めることができるのなら、それもアートに含めても良いように思います。 確かに、美的価値を猛烈に感じても、それを全く表現せずに、無言で突っ立ていては、他人にそのことを知らせることはできません。 でも、そこに、何らかの態度の変化があり、何らかの言葉を発したとしたら、それはもう、立派なアートのはずです。

今まで、アートについて、ずっと考えてきましたが、なかなか理解できませんでした。 その理解を妨げてきたのは、アートという言葉の意味するところが、あまりに広くて、つかみ所がなかったからです。 ある人は、アートという言葉を古典芸術として使い、またある人は前衛芸術として、さらに別の人は、ポップアートとして語っていたり。 そして、それぞれが、お互いに正統派アートの椅子を巡って、激しく言い争っています。 これじゃあ、アートがわからなくなるわけです。

以前、アートマーケットを見に行ったとき、果たしてこれがアートなのかと、疑問に思いました。 少なくとも、私の求めるアートは、そこにはありませんでした。 でも、そこには、確かに彼らにとってのアートがあったわけで、そこから美的価値を感じた人も、少なからずいたはずです。 あの時は、初めてのアートマーケットということで、私に少なからぬ気負いがありましたが、今なら、もっと素直に、彼らのアートを楽しめるような気がします。

狭い視野で見るよりも、広い視野で見た方が、ずっと世界が広がりますよね!

アートの技術

アートの心を持った人が何かを表現すれば、それはアート作品になります。

アートを「何かを感じる心」だと自分なりに定義はしたものの、だからといって、アーティストが好き放題に表現すれば良い、というものではありません。 そもそも、アーティストは、何のために、アート作品を作るのでしょうか。 それは、「何かを感じたこと」を、形にして記録するため。 そして、それを誰かに伝えるためです。 中には、表現そのものに快感を求める人も、いるかもしれません。

たとえば、夕焼けを見て感動したとします。ああ、綺麗だなぁ。 ある人は、そのことを日記に書きました。 またある人は、それを絵に描きました。 カメラを持っていれば、写真に撮ったかもしれません。 そして、いつの日か、その記録を見返した時に、その時の夕焼けを思い出せるようにしておくわけです。 自分のための記録であれば、わずかなきっかけさえあれば、後は記憶が補ってくれます。

次の日、友人に、夕焼けのことを話しました。 友人は、興味を持って聞きました。「へぇ、どんな夕焼けだったの?」。 夕焼けを思い出しながら、心を込めて「あれは綺麗だったなぁ」と言いました。 どうやら、よっぽど感動したらしい、ということはわかりました。 でも、具体的にどんな夕焼けだったのかは、さっぱりわかりません。 「ふうん。で、どんな夕焼けだったの?」

「真っ赤な夕焼けだったよ」夕焼けが赤いのは、当たり前です。 でも、その赤さが印象的だったことはわかります。 描いた絵を見せてもらいましたが、実に頼りない素人画です。 でも、何やら絵に勢いがあるのはわかります。 撮った写真も見せてもらいましたが、言うほど印象的な赤には見えません。 でも、その場面の大まかな様子はわかります。 結局、今までに見た綺麗で真っ赤な印象的な夕焼けを思い出して、それらを補います。 「そういう夕焼けって、素敵だよね」。

もし、文学的な表現ができれば、多少なりとも絵心があれば、写真の腕があれば、より正確に、その夕焼けを記録することができたでしょう。 より正確に、友人に夕焼けの魅力を伝えることができたでしょう。 もし、タイムマシンで友人を連れ出して、同じ夕焼けを見たら、完璧にその状況を再現することができます。 でも、全く同じ体験をしたからといって、必ずしも同じ感じ方をするとは限りません。 その感覚を共有するためには、外部の状況だけでなく、内部の状況も説明する必要があるのです。

夕焼けの赤に、充実した一日の終わりを感じるのか。 それとも、無情にも終わり行く虚しさを感じるのか。 それは、直前に体験したことの影響を受けるのか。 それとも、赤という色彩の微妙な変化が影響するのか。 あるいは、その両方かもしれないし、また別の要素があるのかもしれない。 そうした影響を正確に認識して、正確に再現することができれば、その感動をより正確に伝えられる可能性が高くなります。 もしかしたら、全く未経験の感動まで、与えられるかもしれません。

結局、何を感じたのかを伝えるということは、その時の状況を、外部と内部の両面を認識して、それを再現することなんですよね。 だから、認識の仕方が甘ければ、当然伝わり方も甘くなります。 再現の仕方が甘ければ、伝わり方も甘くなります。 残念ながら、どれだけ正確に表現しても、相手の認識能力が追いつかなければ、正確に伝えることはできません。 それでも、伝えたいという気持ちがあるから、少しでも伝わるように、表現技術を磨いていきます。

つまり、表現には、認識能力と、表現技術という、ふたつの大きな要素があって、これらを磨くことで、より適切な表現ができるようになるわけですね。 認識能力が甘ければ、それがどうした?となるし、表現技術が甘ければ、見ていられなくなります。 認識能力に頼り過ぎても、何が言いたいのかわからなくなるし、表現技術に頼り過ぎても、空っぽで虚しいものになります。 自分の表現力を過信したり、相手を過小評価してしまうと、表現が偉そうで嫌らしくなってしまいます。

人は、表現から逃れられない以上、表現には気を遣っていきたいものですね。

梅雨の晴れ間

暑い夏が、近づいてきています。

日陰

日陰が、涼しいね。

若入道

まだまだ、これから。

サンダーバード?

空を飛ぶのか、地面を潜るのか?

鑑賞の技術

アートに技術が求められるなら、鑑賞者にもそれは当てはまります。

一番簡単な鑑賞方法は、その作品を好みで判断する方法です。 その作品が、好きか、嫌いか。 第一印象だけで、何も考えずに、ただ感じるままに、時間をかけず、直感に任せてしまいます。 そのアーティストが誰かとか、どんな意味が込められてるかとか、社会的にどんな価値があるかとか、一切関係なしに、純粋に個人の興味で決めてしまいます。 だいたい3秒を目安にして、鑑賞にかかる労力を節約します。

目にとまる作品があったら、その魅力を味わいながら、魅力の元を探っていきます。 自分の中で起きている反応を冷静に観察しながら、その反応を引き起こしている要因を、作品の中から見つけ出します。 そうして、自分の中に生まれた興味を、少しずつ作品の方へと触手を伸ばしていきます。 少しずつ、神経を作品の中へと延長させていきます。 この過程が、鑑賞の最も楽しい時間です。

作品の魅力を存分に味わったら、その背後にある作者の意図へと伸びていきます。 この人は、一体どうやって、この素晴らしい作品を作り上げたんだろう。 ある作品を好きになると、もっともっと、その作品のことが知りたくなります。 その作品を作った人のこと、その人の感じ方や考え方、その生い立ちや時代背景、などなど。 そして、共感する部分を、どんどん自分の中へと取り込んでいきます。

こうして、順を追ってみてみると、鑑賞者の個人的な興味から始まり、作品の魅力を通して、最終的には制作者へと興味が移行していることがわかります。 つまり、アート作品というのは、鑑賞者と制作者の間を橋渡しする境界面、インターフェイスの役割を担っているんですね。 優れたアート作品というのは、うまく相手の興味を引きだし、その魅力を伝えながら、制作者と鑑賞者の対話を取り持っているわけです。

もし、鑑賞者が第一印象だけで作品を見ることをやめてしまったら、妄想を膨らませて、不適切な評価をしてしまうことになります。 自分の興味の方向を、作品の中に見出すことができなければ、その魅力を引き出すことはできません。 作品それ自体の価値にしか興味が持てなかったとしたら、そこから何か新しいことを学ぶことはできないでしょう。 結局、アートも人間活動のひとつであり、その意味するところは、日常の人付き合いと同じなんですよね。

でも、それだけに、アートはやっぱり、単純でいて、難しいわけです。

空を、触ってみたい。

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K-Hyodo

本名:兵頭 薫
鹿児島の30代男性
ソフトウェア作家を目指す

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