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素直になろう

自分が素直でいられるというのは、とても心地良いものです。

でも、素直というのは、自分一人だけでなれるものではありません。自分だけに正直になったところで、それは素直ではなく、ただ利己的なだけです。素直であるためには、あるがままの自分を認めるだけではなく、あるがままの相手をも認める必要があるのです。なぜなら、自分一人だけでは、今の自分が本当に正しいのかどうか判断がつかないし、相手のことを否定することしかできないからです。

たとえば、自分のお腹が減っているとします。もちろん、お腹が減っていれば、何かを食べたくなります。目の前には、美味しそうな食べ物がたくさん置いてあるお店があります。でも、手元には食べ物を買うお金がありません。もし、自分の食欲に従って、お店の食べ物を盗んで食べたとしたら、それは素直ではなく犯罪です。この場合、素直なのは、そのお店で食べ物を買うのを諦めることです。

自分は、お腹が減っている。目の前には、食べ物の売っているお店がある。自分には、食べ物を買うお金がない。お金を持っていない空腹な自分と、お金をもらって食べ物を売っているお店という現実を正しく認識して、その現実に従うことが、素直ということなんですね。素直になるということは、お店という社会的な存在を正しく理解することでもあります。決して、個人的に閉じた世界のことではありません。

ただ、食べ物を買うのを諦めることだけが素直というわけではありません。家に帰って財布を取りに行ったり、銀行でお金を下ろせば、ちゃんと食べ物を買うことができます。全くお金がなかったとしても、働くことでお金を稼いで、食べ物を買うことができます。お店の人に事情を話して、余った食べ物を無料で分けてもらうことだってできるかもしれません。素直な解決策というのは、決してひとつだけじゃないんですよね。

つまり、素直になればなるほど、自分を取り巻く現状を正しく認識できて、その現実を受け入れながら、より適切な問題の解決方法が見つかるというわけです。もし、自分の欲望に固執してしまうと、現状を正しく認識できなくなって、現実を受け入れられなくなってしまいます。自分が生きるのに必要な欲求と、自己満足のための欲望を正しく区別することも、素直には欠かせない要素ですね。

本当に素直になろうとすると、自分の知られたくない恥ずかしい部分も認めなければならなくなります。素直になってそれを認めてしまえば楽になれるのに、素直になることで今の関係が崩れてしまうことを恐れてしまうこともあります。自分をさらけ出すことで、相手に嫌われてしまったらどうしよう。自分を否定されたり、みんなに馬鹿にされたらどうしよう。そうした不安が、素直になろうとする気持ちを押さえ込んでしまいます。

そういう時は、そういう不安も一緒に、素直に認めてしまうことです。そういう不安を感じることを情けなく感じるのなら、それも素直に認めてしまいましょう。そうやって、自分の中のあらゆるものを認めてしまえば、自然と心も落ち着くはずです。そして、本当に自分が必要としていたことに気づくでしょう。なぜなら、偏った自分という存在をまるごと認めることで、その全体像と方向性が見えてくるからです。

どんどん素直になって、どんどん自分を活かしていきたいですね。
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心の波

人の心は、浮いたり沈んだりして、忙しい。

何かが発展している時には、常に新しい刺激があって新鮮さを保つことができる。扱う情報量も少ないので、ひとつひとつの情報がとても貴重となる。バラバラの情報が互いに結びついて大きな固まりになると、最初の爆発的な発展は終わりを告げる。

大きく膨らんだ体験は、やがて急速に凝縮されていく。期待によって膨張した部分から次第にガスが抜けていき、確からしいものの小さな塊だけが残っていく。かつての熱気はなくなり、やがて冷えて固まっていく。残された塊は、いつしか魂となって息づき始める。

魂に火がともるには、塊が十分に強固になっていなければならない。そのためには、塊を十分に冷却することが必要だ。ただし、この冷却をうまく行わないと、途中で塊にひびが入って割れてしまう。良い魂を得るためには、無理せず自然に放熱させるのが良いのか。それとも、叩きつけてガス抜きをして氷水に浸ければ良いのか。

もしかしたら、魂は意外と頑丈で、付加をかければかけるほど強くなるのかもしれない。日本刀のように、激しく鍛えられることによって、切れ味が増していくのかもしれない。何もせずに放っておいては、すぐに錆びついてボロボロになってしまうのかもしれない。

流れの滞った水は腐りやすい。生きていくということは、自ら流れを作っていくことなのかもしれない。その流れが発展の力を生み、魂を生み出すのだろう。今の自分には、魂があるだろうか。借り物でない自分自身の魂があるだろうか。そして、その魂に火はともっているだろうか。

全ては、良い魂を得るための試練なんだろうな。

明るい未来

人はそれぞれ、さまざまな過去を背負って生きている。

そうした過去が、現在の自分を作り、未来を見せてくれる。今の自分があるのは、過去の自分があるからだ。その過去がどれだけ幸せで、どれだけ切なくても、それが現在に繋がっていなければ、悲しいけれど、それはただの過去でしかない。その過去を分解して、消化して、吸収すれば、それだけ現在の栄養になるし、未来の活力になる。過去を手放せずにいると、便秘になって、食欲がなくなって、体調不良になってしまう。

過去の過ちに対して、自分を責めることは簡単だ。あの時こうしていれば、自分がもっとこうだったら、今もうまくいっていたかもしれないのに!でも、当時の自分には、それができなかったわけだし、そういう人間じゃなかったわけだから、そういう現実を認めるしかない。同様に、全てを相手のせいにしたとしても、当時の相手には、それが精一杯だったわけだから、それを認めないわけにはいかない。結局は、お互いに未熟だったことを認めるしかない。

人はいつだって未熟な存在だし、常に成長していく生き物だ。それさえわかっていれば、何も恐れることはない。過去の失敗を悔やめば悔やむほど、未来への力になっていく。人によっては、ひとつの失敗を深く悔やんだり、たくさんの失敗を少しずつ悔やんだりする。いずれにせよ、そうした失敗がきっかけとなって、悔やむ気持ちが原動力になって、少しずつ成長していく。そうして、少しずつ成功していく。

責めることと、悔やむことは、似ているようで、全然違う。責めることは、失敗した責任を明確にすること。悔やむことは、失敗した原因を明確にすること。誰かに責任を押しつけてしまえば、他の人は気が楽になるが、それでは何も解決しない。失敗した原因を突き止めれば、その失敗を認めざるを得なくなる代わりに、そこから新しい解決策を導き出すことができる。その解決策を見つけた時、なぜそれに気づかなかったのかを悔やむが、それは次の教訓となって活かされる。

それさえわかっていれば、いつだって未来は明るいんだぜ。

おかしな環境保護

環境保護って、どこかちょっとずれてると思う。

10年ちょっと前、家電製品の主電源を切って、待機電力を節約しようというのがブームになった。ほんの数ワットの消費電力でも、みんなが力を合わせれば、膨大な量の節約ができるというわけ。スイッチつきの延長コードが増えたのも、ちょうどこの時期だったような。一見、もっともそうな主張だけど、その構造はネズミ講やネットワークビジネスと一緒で、労力の割には得られるものはごくわずかだ。

待機電力が仮に3Wだとすると、24時間の消費電力は72Wになる。一方、エアコンの定格の消費電力は約1,000Wなので、たったの4分ほどで72Wを消費してしまう。待機電力を節約するためには、いちいち背面の主電源を切らなければならないが、エアコンの消費電力を節約するのは、ただ何もしなければ良いだけ。小さな消費電力を細かく削るよりも、大きな消費電力を細かく削ったほうが、ずっと効果は大きい。

実に単純な計算問題なのに、なぜ人は惑わされてしまうのだろう。それは、「全世界の人が力を合わせれば」という魅力的で非現実的な数字と、「主電源を切るだけで」というお手軽そうな暗示によるものだ。みんなと協力しなければ達成できないとなると、仲間意識が芽生えるし、結束も強くなる。子を増やせば増やすほど収入が増えますよ、セミナーで習った宣伝文句を繰り返すだけで簡単に売れますよ、というわけ。

もちろん、携帯電話やノートパソコンのように、バッテリーの持続時間を延ばすために、あらゆる電子部品の消費電力を極限まで切り詰める必要な場合もある。将来的には、数ワットの待機電力も無駄にできないほどの電力危機に直面することがあるかもしれない。CO2削減の大号令で、今がまさにその時なのかもしれないけど、その前にもっとするべきことがあるんじゃないかな。より効率的な方法が、他にもあるんじゃないかな。

エアコンの冷気に震え、乾燥した空気に喉を痛めながら、そんなことを考えたよ。

木と森と自分

「木を見て森を見ず」というのは、もう古い。

「木を見て森を見ず」が徹底した個人主義なら、「森を見て木を見ず」というのは、ガチガチの社会主義になるわけで、どっちにしたってバランスが悪い。いつだって最初は一本の木から始まるわけだし、木の本数が増えていけば、次第に林になって、いつかは森になる。でも、森が森だけで存在してるわけじゃなくて、山があったり、川が流れてたり、海に面していたりする。いたるところにいろんな人が住んでるし、いろんな動物が住んでるし、いろんな植物が生えてる。

そういうのを全部ひっくるめて、環境なんだと思う。それらのひとつひとつが生きて活動する中で、互いに少しずつ影響し合って、全体を作っていく。すると、逆に全体が個々の生物に影響を与えたりして、さらに個々が全体に影響を与えたりする。そうして影響を与え合っているうちに、次第に関係が落ち着いてきて、新しいシステムが出来上がる。でも、すぐにその裏をかく奴が現れて、また新たな波が広がっていく。そうやって、環境は常に変化しながら進化していく。

人間は、環境に大きな影響を与えるまでに進化したけど、環境内の他の要素だって負けてはいない。もちろん、人間自身だって、それを意識しないわけにはいかない。環境問題を考えることは、それらの関係性を見極めることであって、特定の誰かの肩を持つことじゃない。ただ、人間が人間優先に考えるのは当然だし、人間が人間だけで存在できないことを知ってさえいれば、人間優先に環境を守ることだって不可能じゃない。
そういう意味では、環境問題は難しいようで、案外簡単だ。

ただ、地球レベルの環境問題を語るのは、とても難しい。なぜなら、一人の人間が、地球全体を把握することは不可能だから。たくさんの人間が集まっても、それでも難しい。「地球をひとつの村に!」なんていう人がいるけど、それはまさしく誇大妄想。隣の町内のことだってろくに知らないのに、どうして地球全体を知ることができるの?地球にたくさんの国があって、たくさんの州や県があって、たくさんの町があるのも、進化によって作られた意味のある単位なんだよね。

だから、自分の手の届く範囲で、それぞれが自分にできることをしていけば、それでいい。中には、そうした小さな単位から上がってきた報告を読んで、全体像を把握できる人がいるかもしれないけど、そういうことは、そういう人に任せればいい。もし、どこかに足りない部分が見つかって、自分にそれができそうなら、自分がそれをすればいい。誰かが面白いことを始めたと思ったら、それを真似してもいいし、それに対抗したっていい。とにかく、行動さえしていれば、必ず結果は手に入る。それが望んだ結果かどうかは知らないけどね。

木を木と見て、森を森と見て、木と森の関係を見て、自分の行動をとろう。

大阪デート

今からデートです。
場所は、天王寺動物園。
11日の朝に帰ってきますね。
では、行ってきま~す!

リクライニングのゲーム理論

ただ今、大阪行きのバスの車内です。

このバスは、いわゆる夜間高速バスというもので、寝てる間に長距離を移動できるのが特徴です。そのため、シートはゆったりとした三列シートになっていて、ぐっすり眠れるように毛布と深く倒れるリクライニングがついています。これをいっぱいに倒すと、180度に近い角度になるので、慣れればなかなか快適に眠ることができます。

ただ、当然その分後ろの席を圧迫することになるので、倒すときには注意が必要です。みんなが起きている時は、後ろの人に許可を取ってから、半分ほどの角度に押さえるのがマナーです。でも、消灯時間になって就寝タイムになったら話は別です。誰もが快適に眠れるように、みんながいっぱいまでリクライニングするのがマナーとなります。

確かに、夜間高速バスに慣れていないと、めいいっぱいにリクライニングするのはためらいがちです。でも、みんながめいいっぱいリクライニングすれば、すべてのシートが平行して倒れるので、スペースはさほど狭くはなりません。誰かが遠慮してリクライニングをしなかったとしたら、その前の人にしわ寄せがくることになるので、多くの人が寝苦しい夜を過ごすことになってしまいます。

直角の椅子で寝ることを好む人よりも、できるだけ水平に近い体勢で寝ることを好む人の方が、圧倒的に多いことは明白です。つまり、就寝時間に最も多くの乗客の満足を得るためには、みんながめいいっぱいリクライニングするのが最も効率が良いわけです。

ところが、一般的な意味で「深くリクライニングをするのはマナー違反だ」というマナーにとらわれてしまうと、夜間高速バスでは逆にマナー違反になってしまいます。もちろん、何らかの理由で深くリクライニングできないこともあるでしょう。そういう時は、「申し訳ありませんが…」と前の席の人に理由を説明してお願いすれば済む話です。

実は、今回の後ろの席の人が、夜間高速バスに慣れてない人だったんです。乗り込んですぐにリクライニングした時は、「倒してもいいですか?」「いいですよ」と気持ち良くリクライニングできたわけですが、消灯後にめいいっぱいリクライニングすると、たしなめるように「ちょっとこれはあんまりでしょう」と言われてしまいました。

その人の好みもあるので、嫌と言われれば私が我慢するしかありません。「あ、どうも済みません。これくらいならいいですか?」と言ったものの返事はなし。どうやら、マナーの悪い人として嫌われてしまったようです。夜間高速バスは何度も利用してきましたが、こういう形で苦情を言われたのは初めてですし、そういう場面に出くわしたのも初めてです。

夜間高速バスというちょっと特殊な世界の一場面。あなたはどう思います?

天王寺で待ち合わせ

天王寺の歩道橋の片隅で
手作りパンを食べながら
彼女の到着を待つ。

会うのは三回目。
デートは二回目。

この一回を、噛み締めよう。

天王寺動物園

動物園デートは、とっても楽しかったよ。

新世界

これから、二人の新世界が広がっていくんだよ。

天神橋筋商店街

どこまでも、一緒に歩いていきたいな。

表情写真を撮る

今回の大阪デートでは、彼女の写真ばかり撮ってました。

α7D、A1、W53CAと、3台のカメラを持っていって、その総撮影枚数は418枚。 そのうち、彼女の写真がなんと383枚。 それ以外の写真は、たったの35枚しか撮りませんでした。 前回の奈良デートでは、288枚中140枚が彼女の写真だったんですが、その写真を彼女が気に入ってくれて、もっと撮って欲しいということだったので、今回は彼女の写真を中心に撮ることにしたんです。 前から、じっくりと人物写真を撮ってみたいと思っていたので、これはちょうど良い機会です。

彼女の写真を撮ってみて気がついたのが、実に表情が豊かだということです。 これは、彼女の個人的な特徴もありますが、顔の微妙な表情の変化で、ずいぶん印象が変わってくることを実感しました。 気恥ずかしい照れ笑いに、カメラを意識した作り笑顔、優しい微笑みに、豪快な笑い顔。 笑顔だけでも、実に様々な笑顔があります。 そして、その表情が、その一瞬一瞬でめまぐるしく変わっていくんです。 撮れた写真をじっくり見れば見るほど、その表情の魅力に惹かれていきます。

前回の奈良デートでは、ほんの一部の表情しか撮れませんでしたが、今回の大阪デートでは、様々な表情を撮ることができました。 それでも、目で見ていながら写真に撮れていない表情が、まだまだたくさんあります。 これから先、もっともっといろんな表情を撮っていきたいですね。 そして、そうした表情を撮り続けることで、彼女のことをより深く知っていきたいですね。 その表情の変化から、彼女との関係の変化が読み取れて、それがまた嬉しかったりします。

今回は、彼女の希望もあって、思い切ってヌード写真にも挑戦してみました。 ヌードだからといって特別なことをするわけではなくて、今の二人の関係をそのまま撮っただけなんですが、たくさんの発見がありました。 中でも一番の発見は、顔だけじゃなく、体にも表情があるということです。 全身で演技するというのとは違って、自然に体が見せる表情というのが、確かにあるんですよね。 それが、意図したものではなく、自然であればあるほど、とても美しく見えるんです。

写真をお見せすることができないのが残念ですが、とても良い経験になりました。

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