拙者、接写リングでござる!

ついに、デジタル接写リングセットを買いましたよ。

接写リングというのは、レンズとカメラの間に挟み込むことによって、最短合焦距離を短くしてしまう、忍術のような道具なのでござるよ。ニンニン。 早い話が、手持ちのレンズで、もっと被写体に寄れるようになるわけですね。 一応、24-85mm Newにも簡易マクロ機能がついてるんですが、D7UGのマクロと比べてしまうと、どうしても見劣りしてしまってたんですよね。


DiMAGE 7UG
200mm MACRO 0.25m

α-7 DIGITAL 24-85mm New
85mm MACRO 0.5m

せっかくの一眼レフなんだから、評判の良いミノルタ純正のマクロレンズを買うという選択肢もあったわけですが、50mm MACROの中古でも1万5千円以上するので、ちょっと手が出なかったんですよね。 それに、今のカメラバッグは、標準ズームと望遠ズームを入れたらもういっぱいで、マクロレンズは入りそうにありません。 でも、接写リングだったら、バッグのポケットに楽々入ります。 AFもAEもズームもそのまま使えるので、リバースアダプタのような面倒もありません。


接写リング 12mm ∞

接写リング 12mm 0.5m

というわけで、早速撮り比べてみました。 接写リングセットということで、12mm、20mm、36mmという、長さの異なる3つのリングがセットになっています。 なぜ真ん中が24mmじゃなくて20mmなのかは謎ですが、この長さが長くなるほど、近くまで寄れるようになります。 その代わり、長くなればなるほど離れることができなくなるので、被写体の大きさに応じて使い分ける必要があります。


接写リング 20mm ∞

接写リング 20mm 0.5m

12mmでは、24-85mm Newの最短距離よりも離れた位置から撮影でき、D7に迫るところまで近寄ることができます。 ちょっと接写な気分♪という時は、これをつけっぱなしにしておくと良さそうです。 気に入った被写体に迫ってみたくなったら、20mmに切り替えれば、一歩踏み込んだ撮影ができるようになります。 接写ならではの非日常世界に入り込んでみたければ、36mmが威力を発揮するでしょう。 D7よりも大きく撮ることができますよ。


接写リング 36mm ∞

接写リング 36mm 0.5m

というわけで、これからは花マクロもバシバシ撮っていくぞ!

痒い季節

いよいよ、蚊の食う季節になりました。

本との間合い

ただ本を読むだけのことに、何を大騒ぎしてるんでしょうね。まったく。

子供の頃は、退屈な本はあっても、拒絶反応が起きる本なんてありませんでした。 大学院を休学・中退してからは、市立図書館でたくさんの本を借りて読むようになりましたが、拒絶反応を起こすようになったのは、ここ数年の話です。 最初に違和感を感じたのは、ヤマギシズム農法の本を読んだ時です。 農法としては面白そうだけど、この鼻を突く嫌らしさは何だろう? この手放しの自画自賛ぶりは、一体どういうことだ?

これがきっかけとなって、カルト集団や新興宗教、そしてネットワークビジネスなどについて調べるようになり、人間の弱さや、社会の負の部分を知りました。 ブログを始めてからは、スピリチュアルと出会い、自分とは正反対の、さっぱり理解することのできない世界があることを知りました。 また、写真を撮り続けていく中で、芸術という存在を無視できなくなり、猛反発することになりました。 どうやら世の中には、どうにも受け入れられない世界というのがあるようです。

優等生的に、なんとかそういう世界を理解して、認められるようになろうと努力はしてみたものの、全く効果はありませんでした。 むしろ、知れば知るほど反発は強まるばかりで、却って逆効果でした。 世の中にそういう世界が存在しているということは、そういう世界を必要としている人達がいるというわけですから、その存在を否定することはできません。 受け入れられない場合は、関わらないようにするのが一番ですが、避けて通れない時には、一体どうすれば良いのでしょうか。

理想としては、お互いの世界に留まって、棲み分けを図るのが一番です。 でも実際には、その境界面では猛烈な勢力争いが行われていて、それにうっかり巻き込まれてしまうことだってあるのです。 しかも、本の場合は、書いた時点で時間が固定されてしまうので、本の中ではいつまでも争いが続けられることになります。 もし、別の時代の本で両者が和解していたとしても、その本に出会わなければ、自分で解決しない限り、いつまでも争いに巻き込まれたままになってしまいます。

結局、自分の頭が固くなってきて、新しい考え方を受け入れられなくなってしまったのか。 それとも、自分の経験の積み重ねによって、本の善し悪しがわかるようになったのか。 もしかしたら、本の魔力に取り憑かれて、正常な判断ができなくなってしまったのかも。 いやいや、本の魔力のせいなんかじゃなくて、やっぱり自分の問題です。 今回は、久々の読書だったので、本との間合いを短く取り過ぎたのが敗因だったんじゃないかと思っています。

もっと楽しく本を読めるようになりたいなぁ。

言葉は悪くない

結局のところ、言葉に罪はないんですよね。

言葉というと、文系の専門分野と思われがちですが、実際は理系だって言葉を使います。 むしろ、文系よりも理系の方が、より厳密に言葉を使います。 文系は、言葉を慎重に組み合わせることで、その言葉以上の意味を作り上げます。 理系は、言葉を厳密に定義し、慎重に組み立てることで、確実に意味の通じる文章を作り上げます。 同じ言葉でも、その使い方はずいぶん異なります。

文系の言葉の使い方は、一種の賭けのようなものです。 書き手と読み手の息が合った時には、狙い通りの効果が得られますが、合わなければ、さっぱり意味が伝わらなくなります。 個性的な表現を意図すればするほど、その意味は伝わりにくくなります。 本来は、言葉以上の意味を伝えるための技術のはずなのに、その技術に溺れてしまうと、わざと難解にして自分の個性を主張することに喜びを感じて、目的がすり替わってしまいます。

理系の言葉の使い方は、一種の保険のようなものです。 誰が読んでも意味が通じるように、なるべく無駄を省いて、単純な文章にします。 誤解される恐れのある言葉は、あらかじめ注釈を入れておき、誤解のないようにしっかりと定義しておきます。 本来は、確実に情報を伝えるための技術のはずなのに、その技術に溺れてしまうと、言葉の整合性ばかりに気を取られて、本来伝えるべきはずの意味を見失ってしまいます。

文系にとって言葉とは、自分自身を伝えるための道具であり、理系にとっては、相手に正確に意味を伝えるための道具なんです。 文系は、自分を伝えたいがために、時には自分に溺れ、理系は、正確に意味を伝えたいがために、時には自分を見失います。 文系にとって理系の文章は、自分を脅かす脅威であり、理系にとって文系の文章は、正確さを脅かす脅威となります。 文系は理系の言葉を怖れ、理系は文系の言葉を怖れます。 そして、それを言葉のせいにしようとします。

文系は、相手を自分と同等の存在であるという前提で、言葉を使います。 理系は、相手を不特定多数の匿名の存在という前提で、言葉を使います。 今では、文系でも匿名性を導入することが、もてはやされています。 理系でも、自分と相手の共通点を探ることが、もてはやされています。 どうやら、対立の時期は終わり、融合が始まっているようですね。

文系は、自分の中の世界を広げていきます。 理系は、自分の外の世界を広げていきます。 自分の中ばかり広げてしまうと、外の世界との関わりが希薄になってしまいます。 自分の外ばかり広げてしまうと、中の世界はどんどん空っぽになってしまいます。 中の世界だけで生きられるものではないし、外の世界だけで生きられるものでもありません。 中も外も、文系も理系も、どちらも同じように大切なんです。

そして、これらを繋ぎ合わせるのは、やっぱり言葉なんですよね。

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