マクロ写真について考える

今日は写真を撮らなかったので、水滴写真を集めてみました。

プアマンズ・ストロボを使ったマクロ写真。 しかも、接写リングを使った高倍率。 さらに、綺麗な水滴写真です。 本当に綺麗ですよね。 本当に綺麗だなぁと思うんですが、残念ながら、この手の写真というのは、撮るのも観るのも、すぐに疲れちゃうんですよね。 もしかしたら、もうお腹いっぱいと思ってる人もいるかもしれません。

撮る方としては、まず人の目線が気になります。 カメラで撮るだけでも人目につくのに、妙な装置をつけて撮ってるわけですから、なおさらですね。 次に、マクロ撮影は被写体深度が浅いので、ピント合わせに神経を使います。 当然、目も疲れます。 ファインダーには、普段見慣れない世界が広がっているので、何をどう撮るかで悩んでしまいます。

観る方としては、何といっても、そのコントラストの高さで、目が疲れます。 これは、クッキングシートを貼り付けた改良版で、ある程度は改善されるはずですが、基本的な特性は変わることはないでしょう。 また、非日常的な世界ということ自体が、大きな魅力でもあり、大きな障害でもあります。 普段の常識が通用しない世界なので、知らず知らずのうちに、ストレスが溜まっていきます。

この辺りのバランスを取ることが、今後の課題ですね。

マクロで立体写真だよ

マクロ撮影の新境地を開くべく、久々に立体写真を撮ってみました。

私のプアマンズ・ストロボは、アルミホイルに布テープを重ね貼りして作ってあるんですが、さらにクッキングシートを貼り付けて、柔らかな光になるように改良してみました。 接写リングは36mmのみ、レンズはAF 35-70mm F4で、倍率はちょっと低めにしています。 裸眼立体視は、交差法で見てくださいね。

まずは、SONYのヘッドホンMDR-EX85を撮ってみます。 カナルタイプのヘッドホンなんですが、少し斜めになっているのが特徴です。 この独特の形状を立体視したら面白そうだなと思ったんですが、ステレオベースを少なく取ったせいか、意外と普通でした。 でも、表面のテカリが生々しく写るのは、立体写真ならではですね。

次は、以前NORIさんからもらった、スーパーカブのカムシャフトです。 吸気と排気の弁を開け閉めするための出っ張りが、ちゃんと立体になってくれるかな? うん、今度は良い感じです。 しかも、長年の摩擦による金属の艶が、とても良く出ています。 真ん中よりも、下の出っ張りの方が、立体写真としての味わいがありますね。

続けて、カムシャフトのベアリング部分です。 ほとんど平面に近い部分ですが、ステレオベースを広めに取ることで、ボール・ベアリングの立体感が出ています。 意外だったのは、中央の3つの穴の深さが、しっかり感じられることです。 両側の小さな穴は浅く、中央の大きな穴からは、底なしの恐怖すら感じます。 あ、これはコーヒーのせいじゃないですからね。

今度は、カムシャフトとピストン・ヘッドを一緒に撮ってみました。 立体感は控え目ながら、ひっくり返したピストン・ヘッドのゆったりとした広がりを感じます。 ヘッド内にある小さなシャフトについた傷が、とても生々しいです。 立体視した方が、暗部が明るく見えるという不思議も、味わうことができます。

最後は、DiMAGE 7の左側面です。 ガンダムっぽいゴチャゴチャとしたデザインと批判されることが多かったD7ですが、そのゴチャゴチャぶりがとても良くわかりますね。 フラッシュ光の反射がハレーションを起こしていて、ロゴを浮き立たせています。 私は、このMINOLTAの不必要なほどのゴチャゴチャ感が好きなので、今のSONYのαは、ちょっとさっぱりし過ぎてるように感じます。

明日は、草花の立体写真を撮ってみようかな。

カフェイン中毒にご用心!

最近、どうも変だ。もしかして、俺は気が狂ってしまったのか?

神経がピリピリして、胸がムカムカして、冷や汗をタラタラかいて、なかなか寝付けなくて、なぜか不安でハラハラしっぱなし。 そのくせ、一人でじっとしていられなくて、ブログの記事を書きまくったり、普段は利用しない2ちゃんねるに妙な書き込みをして粘着したり。 自分の様子がおかしいのはわかってるけど、それにどう対処して良いかわからず、ただオロオロするばかり。 何かやらなきゃ、何でもいいから、何かやらないと。 このまま放っておくと、とんでもない事件を起こしてしまうかもしれないぞ。

とりあえず、このままではヤバイ、というわけで、朝の5時に自転車に乗って、裏山を走り回ります。 シャワーで汗を流して、疲労に任せて眠りにつくと、目覚めた時にはずいぶん楽になっていました。 落ち着いて考えてみると、前にも似たような状態になったことを思い出しました。 そう、コーヒーです。 私は玄米茶を愛飲しているんですが、最近になってコーヒーを飲むようになってたんですよ。

いつもなら、ちょっと飲み過ぎかな、と思った時点で玄米茶に切り替えるんですが、入れ直すのも面倒なので、そのままコーヒーをガブガブ飲んでいたんです。 1回に、500mlの急須になみなみと入れて、それを朝昼晩と3回作ります。 つまり、1日に1500mlもコーヒーを飲んでたわけです。 コーヒーに含まれているカフェインの含有量は、0.06%。 電卓片手に計算すると、1500mlに含まれるカフェインの量は、0.9ml ≒ 900mgとなります。 成人のカフェイン摂取量の適量は300mgということなので、明らかに飲み過ぎですね。

ここまで大量にカフェインを摂取してしまうと、カフェイン中毒にもなるわけです。 カフェイン中毒になると、パニック発作に似た症状になり、強い不安感や、手足の発汗・痺れ、死ぬような恐怖感などが起きるようです。 これは、まさに私が体験した症状と同じですね。 幸い、カフェイン中毒は3日もすれば、禁断症状も治まって元に戻るみたいなので、ひとまず安心ですね。 これからは、コーヒーを飲む時は、急須1回分でやめておくことにします。

それにしても、偶然とはいえ、パニック障害の発作を疑似体験できたのは、とても良い経験になりました。 最近は、何かと凶悪な犯罪や、不可解な自殺が増えていますが、そうしたくなる気持ちが実感できたわけですからね。 もう、それまでの自分の意志とは無関係に、半分ほど自分のコントロールを失ってしまい、それをどうにもできないわけですから、責任能力に疑問が持たれるのも頷けます。 少なくとも、健康な時の精神状態とは明らかに違うことは確かですね。

世の中には、まだまだ知らない世界があるんだなぁと、つくづく思いましたよ。

ダンゴムシのダンゴ

今はちょっとこんな感じ。でも逃げ足は速いぞ!

電卓の裏技を大公開!

皆さん、電卓、使ってますか。

最近は、100円ショップで電卓が安くで手に入る代わりに、ちゃんとした説明書がついてこなかったりします。 電卓の説明書なんて読んだことない、という人も多いかもしれませんね。 高校生の時、1,000円で買ったシャープ製の電卓の説明書を熟読したことがあります。 カシオ製の電卓は微妙に操作が違ったりするんですが、これまでに買った100円ショップの電卓は、どれもシャープ製と同じ技が使えたので、他のも恐らく大丈夫でしょう。

似たような計算を繰り返すには

「1+2=3」ですが、続けて「2=」と入力すると「4」になります。 さらに続けて「3=」とすると、今度は「5」になります。 それでは、この後に「4=」と入力すると答は何でしょう?そう、答は「6」ですね。 つまり、「1+2=3」の「1」の部分が、後に入力した数字と入れ替わって計算されるんですね。 これは、足し算だけじゃなくて、引き算や割り算でも同じです。 ただし、掛け算だけは、後ろの数字が入れ替わります。 単価×個数の計算をする時には、この方が便利ですからね。

また、何も数字を入力しないで「=」ボタンを押すと、計算結果に対して同じ計算が繰り返されます。 「1+2=3=5=7」「1-2=-1=-3=-5」「8÷2=4=2=1」「2×1=2=4=8」などなど。 ただし、この場合は、さっきと計算の順番が入れ替わるので注意が必要です。 足し算、引き算、割り算では後ろの数字、掛け算では前の数字で、繰り返し計算されます。

パーセントを使いこなそう

10は50の何パーセントかを計算するには、普通なら「10÷50×100=」と入力します。 でも、「%」ボタンのついた電卓なら、「10÷50%」と入力するだけで「20」という答が出てきます。 逆に、50の20%を知りたい時には、「50×20%」と入力すれば「10」という答が出てきます。 さらに、50の20%増しは「198+5%」、50円の20%引きは「50-20%」で計算できます。 この技を使えば、面倒な消費税の計算も、ややこしいポイントの計算も、簡単にできちゃいますね。

メモリーを使いこなそう

電卓についている「MR」「MC」「M+」「M-」という謎のボタン。 これは、計算結果を一時的にメモリーに記憶させる時に使います。 「M+」を押すと、現在のメモリーの値に、現在表示されている数字が加算されます。 「M-」を押すと、同様に減算されます。 「MR」を押すと、メモリーの内容を表示して、「MC」を押すと、メモリーの内容をクリアします。 「MR」と「MC」が一緒になって「MRC」となっている場合は、一度押すとMR、もう一度押すとMCの働きをします。

メモリーは、総和を計算したり、括弧の計算をする時に使います。 単価×個数という計算を、商品ごとに繰り返しながら、その総和を求めるには、「198×4M+224×3M+MR」というように入力します。 「3÷(4+5)」という計算をするには、先に括弧内の計算を済ませてメモリーに記憶させてから、残りの割り算を計算します。つまり、「4+5M+3÷MR=」と入力するわけですが、これはちょっとわかりにくいかもしれませんね。

個人的には、単価×個数の個数を変化させたり、パーセントの四則演算は重宝しています。 正直なところ、メモリーは滅多に使わないんですが、総和を知りたい時にはやっぱり便利ですね。 前に書いた「C」と「CE」の使い分けも、慣れると便利ですよ。 これらの技は、パソコンに付属の電卓ソフトでは使えなかったり、別の動作をしたりするので、パソコンの近くに電卓を置いておくことをお薦めします。

電卓マスター目指して、百均で電卓ゲットだぜ!

今時の電卓はスゴイ!

今日は、100円ショップで電卓を買いました。

今まで使ってたのも100円のだったんですが、とうの昔に電池は切れて、頼りの綱のソーラーパワーもついに息切れ。 最初は勢い良く「0」が表示されるんですが、「=」を押す頃には液晶画面がどんどん薄くなって、まともに使えなくなってしまったんです。 まるっこいデザインも好きだったし、大きめのボタンも押しやすくて使いやすかったのになぁ。 100円でも、長く使っていると愛着が出てきますよね。

いくらお気に入りでも、使えなければ仕方ありません。 散歩がてら、近所の100円ショップに行ってみると、あったあった、3種類ほどの電卓が置いてありましたよ。 薄型のカードタイプ、横長、そして縦長。 薄型はボタンが押しにくいので即却下。 横長はちょっと新鮮でいいかも。 縦長はボタンが大きくて使いやすそうだな。 ん、この見慣れない「→」ボタンはなんだろう?

横長の電卓にだけ備わっていた「→」ボタン。 実はこれ、右端の数字をひとつだけ削除するボタンだったんです。 おお、これは便利だ!というわけで、これに決定。 電卓にありそうでなかった、電卓が備えるべき「→」ボタン。 それがついに100円電卓に搭載されたとは、凄い時代になったものです。 さらに、表示桁数が8桁から12桁に増えたことを受けて、「00」ボタンも備えています。

一般的に、電卓で数値を打ち間違えたときは、「CE」ボタンを使います。 すると、直前に入力された数値がクリアされて、表示が「0」に戻ります。 でも、それ以前の計算内容は記憶されたままなので、続けて正しい数値を入力して「=」ボタンを押せば、ちゃんと計算されます。 「CE」ボタンを2回続けて押すと、計算途中の内容も全てクリアされるんですが、表示自体は「0」のままなので、とてもわかりにくいんです。

まあ、一般的な電卓なら「C」ボタン一発で全てクリアできるわけですが、前の電卓には「CE」ボタンしかなかったんですよね。 なので、新しく計算を始める時には、「CE」ボタンを連打したり、一度電源を切ったりという、面倒な操作をしていました。 でも、新しい電卓には、ちゃんと「C」ボタンがついているので、安心してクリアできます。 入力を間違えた時は、「→」ボタンで数字をひとつずつ訂正できるので、いきなり「0」になる「CE」ボタンと違って、こちらも安心して操作できます。

たかが電卓、されど電卓。こういう操作性の改善は大歓迎です。買って良かった!

ダンゴムシ

ダンゴになってないけど、ダンゴムシ。

ピーマン、ピーマン、ピーマン!

トマトに続いて、ピーマンも撮ってみましたよ。

トマトと同じく、ピーマンもあまり買わない野菜です。 トマトと違って安いんですが、味が苦いし、種を取るのも面倒だし、野菜炒めにしか使えないし、ということで、ついつい敬遠してたんですよね。 たまたま、一袋70円ちょっとで売っていたので、二袋購入。 これも、水洗いした後に、生のままかぶりついてやろう、というわけです。

まん丸のトマトとは打って変わって、ピーマンは実に複雑な形状をしています。 じっと眺めていると、何だか色っぽく思えてきます。お尻?胸の谷間? トマトは、お外で遊ぶのが大好きな少女のイメージでしたが、ピーマンは、体は立派に成長したけど子供っぽさの残る女子大生のイメージでしょうか。 女子高生ほど子供っぽくなくて、かといって大人の女性というにはまだ早い、みたいな感じですね。

そんな女子大生、いやピーマンにかぶりついてみると、ん、意外と苦くない? むしろ、適度な苦みが爽やかです。 しかも、驚くほどにジューシーです。 野菜炒めでシナシナになったピーマンとは大違いです。 サラダに申し訳程度についてくる薄切りにされたピーマンでは、このフレッシュさは味わえないでしょうね。 かぶりつき万歳!

ただし、ピーマンは種というやっかいなものを抱えています。 そのまま食べてしまうにはちょっと固いし、取り除こうとすると、手にくっついたり、あちこちに散らばったりします。 なるべく刺激しないように、注意しながら食べていっても、唇がちょっと触れただけでくっついてしまいます。 そんな厄介な種も、こうしてじっくり眺めてみると、なかなか可愛いものですね。

ピーマンは、中身がスカスカでちょっと損した気分になりますが、その断面を見ると組織もスカスカなのがわかります。 でも、このスカスカのお陰で、ピーマンならではのシャキシャキとした歯ごたえが楽しめるんですよね。 あ、別に女子大生の中身がスカスカだといってるわけじゃありませんので、お間違えのないように。 いやいや、今回の撮影で、ピーマンをすっかり見直してしまいましたよ。

皆さんも、ぜひ新鮮な生ピーマンにかぶりついてみてくださいね!

マクロの国のトマト姫

接写リングとプアマンズ・ストロボの組み合わせで、トマトを撮ってみました。

トマトは、野菜の中でも一際色鮮やかな存在ですが、他の野菜と比べて割高なイメージがあります。 タマネギなら1ネット100円前後で買えますが、大きなトマトだと1個で100円です。 小振りのトマトでも4個で200円なので、よっぽどのことがない限り、自分ではトマトは買いません。 でも、良く冷えたトマトは美味しいし、トマトジュースも大好きです。

今日は撮影用という名目で、思い切ってトマトを買っちゃうぞ。 というわけで、4個200円のトマトを買ってきました。 小振りだからか、それとも安物だからか、ヘタが萎びて元気がありません。 でも、本体の方は、ツヤツヤのピチピチです。 まずは、ザルに入れてから、しっかり水洗いします。 う〜ん、美味しそう。 さて、これをどうやって食べようかな。 もちろん、そのまま丸かじりだ!

がぶっとかぶりついてみると、甘さと酸味は控え目ながら、とってもジューシーです。 撮影用に綺麗にカットしようかとも思ったんですが、何だかありきたりだし、どこか他人行儀だし、第一切るのが面倒臭いです。 これは、トマトの丸かじりのドキュメンタリーなのだ! というわけで、一口かじる度に、その切り口を撮影していきます。

そんなものぐさ撮影でしたが、結果的には、なかなか面白い写真が撮れました。 綺麗にカットしてしまうと、どうしても鋭利な切断面や規則的な繰り返しになって退屈してしまいますが、かぶりつきの場合は、どんな切り口になるのか予測がつかないので、飽きることがありません。 トマトの内部は複雑な形状をしているので、とっても刺激的です。

トマトは、血のように赤い色をしているので、もしかしたらグロテスクな写真になるんじゃないかと不安だったんですが、ご覧の通り、とっても爽やかな写真になりました。 白いボールの中に入れて撮影したので、プアマンズ・ストロボ特有の黒い背景にならなかったのも良かったですね。 濃い赤もあれば、薄い朱色もあって、ヘタの近くは緑が差していたりして、とっても面白かったですよ。

これからは、もっとトマトを買って食べようと思います。

俺はナナフシ

俺を見つけるとは、フシアナじゃなさそうだな。

接写リング&プアマンズ・ストロボ

接写リングとプアマンズ・ストロボを組み合わせてみました。

プアマンズ・ストロボの写真は、以前D7の写真を載せたことがありますが、7Dで撮影するのは初めてです。 せっかくなので、接写リングを総動員して、12+20+36=68mmでの超近接撮影に挑戦してみました。 レンズはAF 35-70mm F4で、70mm MACRO 1mに設定。 フラッシュの調光モードはP-TTLで、露出は1/125 f22。 もちろんマニュアルフォーカスで、カメラを前後させながらピントを合わせます。

プアマンズ・ストロボは、アルミホイルに布テープを貼り、それを丸めて内蔵ストロボに差し込むだけなので、5分もあればすぐに作れます。 明るさは、フラッシュの調光補正を使います。 布テープ製なので、形状を変えて光量を微調整するのも簡単です。 ピント合わせは相当シビアですが、最小絞りまで絞り込んでいるので、被写界深度は意外と深いです。

撮影範囲の横幅は、ちょうど±7mmでした。 ほんの14mmの範囲を切り取るわけで、7Dのセンサーの横幅は23.5mmなので、その倍率は1.68倍となります。 あの小さなツユクサも、こんなに大きく撮れました。 ドクダミの花なんて、すっかりはみ出しちゃってます。 アジサイの花びらは広々としていて、オドリコソウはまるで恐竜のようです。

プアマンズ・ストロボを使わなかったとしたら、シャッター速度は遅くなり、絞りも開放にしなければならなくなって、ブレブレのボケボケになっていたでしょう。 背景は闇に閉ざされて、被写体だけがクッキリと浮かび上がるのが特徴なんですが、倍率が高過ぎて背景がほとんど見えなかったりします。 ほとんどの花は、その一部しか写せないので、構図の取り方が難しいですね。

久々のプアマンズ・ストロボ撮影でしたが、やっぱり面白いですね。 そして何より、撮れる写真がとっても綺麗! 考案者のなぽちゃんデジタル写真館長さんには、本当に感謝ですね。 ただ、プアマンズ・ストロボの世界は、開拓の余地がまだまだたくさんあるような気がします。 花マクロだけじゃなくて、もっといろんな写真を撮ってみたいですね。

皆さんも、プアマンズ・ストロボで、新しい写真の世界を楽しんでみてくださいね。

2008年ローマ字の旅

iKeyboard 3のローマ字表が、やっと完成しました。

一週間前に紹介した時から、それぞれの表の連携を強化しました。 前回の状態でも、それなりに使える状態ではあったんですが、対話型のローマ字表としては、まだまだやれることがあるはず。 要素としては、かな表示にスペル表、メインのローマ字表と派生表記、子音の種類の切り替えボタンという5つがあるわけですが、これらを完全に連携させてやろうじゃないか、というわけです。

最初は、メインのローマ字表しか表示していないんですが、ここで「し」をクリックすると、かな表示に「し」、スペル表に「SI」「SHI」「CI」が表示されます。 さらに、派生表記のローマ字表には「さ行」の派生表記が全て表示され、自動的に「し」「SI」の部分が選択されます。

へぇ、「し」は「CI」でも入力できるのか。 というわけで、スペル表の「CI」をクリックすると、メインのローマ字表が「その他」「標準」に切り替わり、「た行」の派生表記が表示され、どちらも「し」「CI」の部分が選択されます。 なるほど、子音「C」は、「かしくせこ」という、か行とさ行を混ぜ合わせた変化をする上に、派生表記では「た行」になるのか。

派生表記を眺めていると、「どぁ」という見慣れないかなを発見しました。 「DW」という子音で、「どぁどぃどぅどぇどぉ」と変化するのか。知らなかったなぁ。 そこで、「どぁ」をクリックすると、メインのローマ字表が「濁音」「拗音 W」に切り替わりました。 そして、「DW」以外にも「GW」という子音があり、「ぐぁぐぃぐぅぐぇぐぉ」と変化することがわかりました。 そうか、子音に「W」がつくと、かなに「ぁぃぅぇぉ」がつくのか。

子音の切り替えボタンを見ると、拗音の子音には「W」以外に「H」もあるようです。 そこで、「拗音 H」のボタンを押すと、メインのローマ字表が切り替わり、「DH」行だけが表示されました。 かなの表示は、「どぁ」から「でゃ」に変わっています。 どうやら、「W」と「H」では、ベースとなる母音が変わるようです。 なるほど、確かに「DWA」は「どぁ」っぽいし、「DHA」は「でゃ」っぽいよな。


というわけで、一連の動作を順に見ていったわけですが、なかなか面白そうでしょ。 実はこのローマ字表、2003年3月31日に公開したiKeyboard 評価版5で、すでに実現していた機能なんですよ。 ただ、例題表示として使うには操作が複雑過ぎるという理由で、没になったんです。 スクリーンショットを見ても、ごちゃごちゃしていてわかりにくいでしょ。 でも、機能としては素晴らしいものだったので、いつか復活させたいと思っていたんですよね。

これでもう、思い残すことは何もないので、iKeyboard 3の開発はこれにて終了。 今度こそ、本当に公開準備に入ります。 ヘルプにローマ字表の部分を追加して、Webページを書き直したら、いよいよ公開です。 ベクターのライブラリ登録には二週間ほどがかかるので、一足先にWebページ上で公開するかも。 それにしても、ここまでやり尽くした感があるのは初めてです。 いつも、8割ほどの完成度でいっぱいいっぱいだったので、これはとても新鮮な体験ですね。

目標は、6月1日公開です。よし、頑張るぞ!

写真のうまさ

一眼レフを手に入れてから、ブログの読者層が微妙に変わったような気がします。

ブログのリンクやブックマークをリセットして以来、ブックマークは「コメント」と「履歴」のふたつのフォルダに分けて整理しています。 「コメント」には、それ以降、一度でもコメントしてくれた人のブログが入っています。 「履歴」には、三度以上、訪問者リストに履歴が残っていたブログが入っています。 この「履歴」には、様々なジャンルのブログがあるわけですが、毎日のように見に来てくれている写真ブログが5つほどあって、そのブログの写真が、実にうまいんですよ。

正直なところ、どのブログの写真も、あまり私好みではなかったんですが、更新があるごとに見続けることで、その良さが少しずつわかってきました。 今でも、それほど熱心に見たいという気にはならないんですが、その技術力の高さと感性の鋭さには驚くばかりです。 中には、一分の隙もないような、鬼気迫るほどの写真を撮る人もいます。 自分の好みではなくても、そのうまさははっきりわかります。 本能的に両手を上げて降参してしまうほどの、レベルの違いを感じます。

これまで、うちのブログに来てくれる人達というのは、写真に関しては素人な人達ばかりでした。 写真に興味があって、写真を撮るのが好きな人は多いんですが、写真そのものよりも、写真に添えられた日記の部分に、より魅力を感じていました。 でも、それらの写真ブログは、文章よりも写真の方に、ずっと存在感があるんですよ。 失礼な話ですが、文章には全く共感しなかったとしても、写真の中にはどこか無視できない部分があるんです。

そういう目で自分の写真を見てみると、これがもう嫌になるくらいに普通の写真なんですよね。 確かに、自分好みの写真ではあるんですが、写真にうまさを感じるかというと、全く感じないんです。 自分のことは自分じゃわからないのかもしれませんが、少なくとも、自分で思ってるほどうまくないんじゃないかなぁ。 まあ、私にとっては、うまい写真を撮ることよりも、自分好みの写真を撮ることの方が重要なんで、関係ないといえば関係ないんですが、ちょっと悔しいなぁ、なんて思ってしまいました。

そんなわけで、履歴を残してくれている人も、そうでない人も、これからもよろしくお願いします。

写真のニュアンス

くぅさんの記事を読んで、私も花を撮り比べてみることにしました。

花マクロって綺麗だけど、誰が撮ってもあんまり違いがないような気がします。 でも、全く違いがないかというと、そんなことはなくて、やっぱり微妙に印象が違ってきます。 とりあえず、公園をずっと歩いてみたんですが、こういう時に限って、なぜか花が見当たらない! あちこち歩き回ってようやく見つけたものの、小学校の真ん前なので、どうにも落ち着きません。 今日はついてないなぁ。

くぅさんの記事のコメントには、どう撮りたいかが大切だ、なんて偉そうに書いたわけですが、実際に撮ってる時というのは、思っていた以上に何も考えてないということに驚きました。 同じ被写体をしつこく撮ってみようという目標がなければ、アッと思った時にパッと撮って、それでおしまいですね。 想像力をかき立てる被写体の場合は、その世界を追求してみようという気持ちになりますが、そんな被写体には滅多に出会わないので、仕方がありません。

とりあえず、あれこれ条件を変えて撮ってみたんですが、やっぱり最初に撮ったものが一番良いようです。 一枚目がいまいち気に入らなくて、不満を解消した二枚目を撮ったとしても、見比べてみると、不思議と一枚目の方が収まりがいいんですよね。 二枚目の方も良い感じに撮れることもありますが、その時は、もはや別の写真になってることが多いように思います。

写真に構図の力学があることは確かですが、写真を撮るという行為全体を通して考えると、そんなに構図にこだわらなくてもいいんじゃないかな、と思います。 アッと思ったものがちゃんと写っていれば、写真としては満足なわけだし、一枚一枚にダラダラ・クドクドと時間をかけていても楽しくありません。 自分の気持ちに素直になって、サラッと撮ったり、ググッと撮ったり、それでいいんじゃないかな。

ちなみに、私の好みとしては、一段目から順に、左、左、左、左、左です。 もう、見事に左ばっかりですね。 左側の写真は、どれも迷いがないので、安心して観ることができます。 ケチをつけようと思えば、いくらでもつけられるわけですが、その結果が右の写真であり、どこか収まりが悪かったり、物足りなかったり。 どうやら、写真を撮影することと、写真を解釈することは、全く異なるもののようです。

撮影というのは、まさに直観の成せる技なんですね。

接写リングとAF 35-70mm F4

接写リングとAF 35-70mm F4は、相性抜群でした。

実は、このAF 35-70mm F4、AF 24-85mm Newを手にしてから、全然使ってなかったんですよ。 焦点距離が完全に重なっている上に、最短合焦距離が1mと長く、広角になるほど銅鏡が伸びていくので、どうも扱いづらかったんですよね。 一応、マクロモードに切り替えれば、30cmまで寄れるようになるんですが、今度はAFが使えなくなってしまうんですよ。 ん、待てよ。それじゃあAF 35-70mm F4に接写リングをつければいいんじゃない?


70mm MACRO

70mm 1m + 接写リング 12mm

というわけで、早速試してみました。 すると、標準のマクロモードと、70mm&接写リング12mmが、ほぼ互角の倍率になることがわかりました。 この程度の倍率だと、それほど被写界深度が浅くなるわけじゃないので、AFも普通に使えました。 合焦範囲も広く、適度に距離を空けることができるので、とても便利です。 しかも、AF 35-70mm F4は、70mmで銅鏡が最短になるので、持ち運びの時も邪魔になりません。


35mm 1m + 接写リング 12mm

70mm MACRO + 接写リング 12mm

接写リングを使うと、焦点距離が短くなればなるほど、近くに寄れるようになります。 寄れば寄るほど倍率も高くなるわけですが、近づき過ぎるとレンズの影が入ってしまいます。 AF 35-70mm F4でも、35mmでギリギリまで近づくと、レンズの影が入ってしまいました。 そこで、ふと思いついて、70mmのマクロモードで撮ってみると、より離れた位置からより大きく撮ることができました。


70mm ∞ + 接写リング 20mm

70mm MACRO + 接写リング 20mm

接写リングを20mmに付け替えると、さらに倍率が上がります。 D7のマクロでは、横幅は±25mmなので、それ以上のマクロ性能が得られることがわかります。 35mmでは完全にレンズの影に隠れて真っ暗になってしまいましたが、70mmのマクロモードでは、影が映り込むことはありませんでした。 普段は70mmで使って、必要に応じてマクロモードに切り替えるという使い方が良さそうですね。


70mm ∞ + 接写リング 36mm

70mm MACRO + 接写リング 36mm

接写リング36mmでは、もっとも離れた状態でも、D7のマクロを越えています。 マクロモードに切り替えると、横幅は±12mmとなり、D7の倍の倍率となりますが、さすがに近過ぎてレンズの影が入ってしまいました。 35mmと70mmのマクロモードは、ほぼ同じ画角になるんですが、絞りを開放にしていても、35mmではわずかに絞り込まれることに気がつきました。 このレンズは円形絞りじゃないので、35mmのボケがわずかに角張っているのがわかります。


35mm 1m + 接写リング 36mm

70mm MACRO + 接写リング 36mm

明日は、AF 35-70mm F4と接写リングの組み合わせで、撮りまくってやるぜ!

ひび割れ

ツヤツヤと、ボロボロの、活断層。痛いよ〜。

拙者、接写リングでござる!

ついに、デジタル接写リングセットを買いましたよ。

接写リングというのは、レンズとカメラの間に挟み込むことによって、最短合焦距離を短くしてしまう、忍術のような道具なのでござるよ。ニンニン。 早い話が、手持ちのレンズで、もっと被写体に寄れるようになるわけですね。 一応、24-85mm Newにも簡易マクロ機能がついてるんですが、D7UGのマクロと比べてしまうと、どうしても見劣りしてしまってたんですよね。


DiMAGE 7UG
200mm MACRO 0.25m

α-7 DIGITAL 24-85mm New
85mm MACRO 0.5m

せっかくの一眼レフなんだから、評判の良いミノルタ純正のマクロレンズを買うという選択肢もあったわけですが、50mm MACROの中古でも1万5千円以上するので、ちょっと手が出なかったんですよね。 それに、今のカメラバッグは、標準ズームと望遠ズームを入れたらもういっぱいで、マクロレンズは入りそうにありません。 でも、接写リングだったら、バッグのポケットに楽々入ります。 AFもAEもズームもそのまま使えるので、リバースアダプタのような面倒もありません。


接写リング 12mm ∞

接写リング 12mm 0.5m

というわけで、早速撮り比べてみました。 接写リングセットということで、12mm、20mm、36mmという、長さの異なる3つのリングがセットになっています。 なぜ真ん中が24mmじゃなくて20mmなのかは謎ですが、この長さが長くなるほど、近くまで寄れるようになります。 その代わり、長くなればなるほど離れることができなくなるので、被写体の大きさに応じて使い分ける必要があります。


接写リング 20mm ∞

接写リング 20mm 0.5m

12mmでは、24-85mm Newの最短距離よりも離れた位置から撮影でき、D7に迫るところまで近寄ることができます。 ちょっと接写な気分♪という時は、これをつけっぱなしにしておくと良さそうです。 気に入った被写体に迫ってみたくなったら、20mmに切り替えれば、一歩踏み込んだ撮影ができるようになります。 接写ならではの非日常世界に入り込んでみたければ、36mmが威力を発揮するでしょう。 D7よりも大きく撮ることができますよ。


接写リング 36mm ∞

接写リング 36mm 0.5m

というわけで、これからは花マクロもバシバシ撮っていくぞ!

痒い季節

いよいよ、蚊の食う季節になりました。

本との間合い

ただ本を読むだけのことに、何を大騒ぎしてるんでしょうね。まったく。

子供の頃は、退屈な本はあっても、拒絶反応が起きる本なんてありませんでした。 大学院を休学・中退してからは、市立図書館でたくさんの本を借りて読むようになりましたが、拒絶反応を起こすようになったのは、ここ数年の話です。 最初に違和感を感じたのは、ヤマギシズム農法の本を読んだ時です。 農法としては面白そうだけど、この鼻を突く嫌らしさは何だろう? この手放しの自画自賛ぶりは、一体どういうことだ?

これがきっかけとなって、カルト集団や新興宗教、そしてネットワークビジネスなどについて調べるようになり、人間の弱さや、社会の負の部分を知りました。 ブログを始めてからは、スピリチュアルと出会い、自分とは正反対の、さっぱり理解することのできない世界があることを知りました。 また、写真を撮り続けていく中で、芸術という存在を無視できなくなり、猛反発することになりました。 どうやら世の中には、どうにも受け入れられない世界というのがあるようです。

優等生的に、なんとかそういう世界を理解して、認められるようになろうと努力はしてみたものの、全く効果はありませんでした。 むしろ、知れば知るほど反発は強まるばかりで、却って逆効果でした。 世の中にそういう世界が存在しているということは、そういう世界を必要としている人達がいるというわけですから、その存在を否定することはできません。 受け入れられない場合は、関わらないようにするのが一番ですが、避けて通れない時には、一体どうすれば良いのでしょうか。

理想としては、お互いの世界に留まって、棲み分けを図るのが一番です。 でも実際には、その境界面では猛烈な勢力争いが行われていて、それにうっかり巻き込まれてしまうことだってあるのです。 しかも、本の場合は、書いた時点で時間が固定されてしまうので、本の中ではいつまでも争いが続けられることになります。 もし、別の時代の本で両者が和解していたとしても、その本に出会わなければ、自分で解決しない限り、いつまでも争いに巻き込まれたままになってしまいます。

結局、自分の頭が固くなってきて、新しい考え方を受け入れられなくなってしまったのか。 それとも、自分の経験の積み重ねによって、本の善し悪しがわかるようになったのか。 もしかしたら、本の魔力に取り憑かれて、正常な判断ができなくなってしまったのかも。 いやいや、本の魔力のせいなんかじゃなくて、やっぱり自分の問題です。 今回は、久々の読書だったので、本との間合いを短く取り過ぎたのが敗因だったんじゃないかと思っています。

もっと楽しく本を読めるようになりたいなぁ。

言葉は悪くない

結局のところ、言葉に罪はないんですよね。

言葉というと、文系の専門分野と思われがちですが、実際は理系だって言葉を使います。 むしろ、文系よりも理系の方が、より厳密に言葉を使います。 文系は、言葉を慎重に組み合わせることで、その言葉以上の意味を作り上げます。 理系は、言葉を厳密に定義し、慎重に組み立てることで、確実に意味の通じる文章を作り上げます。 同じ言葉でも、その使い方はずいぶん異なります。

文系の言葉の使い方は、一種の賭けのようなものです。 書き手と読み手の息が合った時には、狙い通りの効果が得られますが、合わなければ、さっぱり意味が伝わらなくなります。 個性的な表現を意図すればするほど、その意味は伝わりにくくなります。 本来は、言葉以上の意味を伝えるための技術のはずなのに、その技術に溺れてしまうと、わざと難解にして自分の個性を主張することに喜びを感じて、目的がすり替わってしまいます。

理系の言葉の使い方は、一種の保険のようなものです。 誰が読んでも意味が通じるように、なるべく無駄を省いて、単純な文章にします。 誤解される恐れのある言葉は、あらかじめ注釈を入れておき、誤解のないようにしっかりと定義しておきます。 本来は、確実に情報を伝えるための技術のはずなのに、その技術に溺れてしまうと、言葉の整合性ばかりに気を取られて、本来伝えるべきはずの意味を見失ってしまいます。

文系にとって言葉とは、自分自身を伝えるための道具であり、理系にとっては、相手に正確に意味を伝えるための道具なんです。 文系は、自分を伝えたいがために、時には自分に溺れ、理系は、正確に意味を伝えたいがために、時には自分を見失います。 文系にとって理系の文章は、自分を脅かす脅威であり、理系にとって文系の文章は、正確さを脅かす脅威となります。 文系は理系の言葉を怖れ、理系は文系の言葉を怖れます。 そして、それを言葉のせいにしようとします。

文系は、相手を自分と同等の存在であるという前提で、言葉を使います。 理系は、相手を不特定多数の匿名の存在という前提で、言葉を使います。 今では、文系でも匿名性を導入することが、もてはやされています。 理系でも、自分と相手の共通点を探ることが、もてはやされています。 どうやら、対立の時期は終わり、融合が始まっているようですね。

文系は、自分の中の世界を広げていきます。 理系は、自分の外の世界を広げていきます。 自分の中ばかり広げてしまうと、外の世界との関わりが希薄になってしまいます。 自分の外ばかり広げてしまうと、中の世界はどんどん空っぽになってしまいます。 中の世界だけで生きられるものではないし、外の世界だけで生きられるものでもありません。 中も外も、文系も理系も、どちらも同じように大切なんです。

そして、これらを繋ぎ合わせるのは、やっぱり言葉なんですよね。

芸術アレルギー

要するに、私は芸術が嫌いなんです。

ついでにいうと、アートはもっと嫌いです。 芸術を語る人も嫌いだし、アートを気取る人も嫌いです。 見栄っ張りで、目立ちたがりで、独りよがりで、わからず屋な芸術家なんて、大嫌いです。 夢想家で、自信家で、狂信的で、高圧的なアーティストなんて、もう存在自体が嫌で仕方ありません。 それが偏見であることはわかってるし、それが個人的な体験によるものだということもわかっています。 でも、原因なんてわかったところで何の解決にもならず、嫌いなものはどうしようもなく嫌いなんです。

では、芸術の、どこが嫌いなのか。 それは、芸術が自由を奪うものだから。 今まで、自分のやりたいようにやってきたし、これからも、自分のやりたいようにやっていく。 だから、俺にいちいち指図するな! えっ、違う?芸術は人間を自由にするものなの?嘘だぁ。 だって、やたら自己主張が強かったり、妙に堅苦しかったりして、全然楽しくないよ。 楽しんでるのは、やってる本人だけでしょ。 ん、だったら一緒にやればいいって? だから何でそんな恥ずかしいことを強要するわけ?

まさに、有難迷惑。 想像力?世界を広げる? そんな飲み会の一発芸みたいなのや、青臭い屁理屈みたいなので、世界が広がるわけ? そもそも、世界って何? 想像力って言えば聞こえは良いけど、どうしてあんたの妄想につきあってあげないといけないわけ? 価値観を破壊する?へぇ、人の価値観ぶち壊して楽しいの? ただ馬鹿騒ぎしたいだけじゃないの? やりたいんならやればいいけど、他に人のいないとこで、仲間内だけでやってくれる?

芸術に対する理解がなさ過ぎ?迷惑なものを迷惑だと言って何が悪い? それ、芸術がどんなものなのか、本当にわかって言ってるの? 芸術だアートだって大げさに言ってるけど、普通の人だって、普通に人生楽しんでるでしょ? どうして普通にやってちゃ駄目なの? 普通に普通じゃないことやってる人だって、たくさんいるよ? どうして、芸術と芸術以外のものに分けないといけないわけ? 芸術の押し売りなんて、絶対に嫌だからね!

言葉が単なる記号でしかないのなら、概念だって単なる思考のパターンでしかないよね。

理系と文系

理系か文系かで、文章ってずいぶん変わってきますよね。

理系の文章は、理路整然としている代わりに無味乾燥で、下手をすると理屈っぽくて難解になってしまいます。 文系の文章は、読み応えがある代わりに回りくどくて、下手をすると抽象的過ぎて難解になってしまいます。 私は、理系になりきれない、文系よりの理系なので、本物の理系の素っ気なさにも馴染めないし、文系の独りよがりにも馴染めないんですよね。

理系の人は、文系の文章を理解できなくて、言葉の装飾の過剰さと、論理の飛躍ぶりにうんざりします。 一方、文系の人も、理系の文章を理解できなくて、言葉の融通のなさと、論理の強固さにうんざりします。 理系の人は、物質世界の普遍的な法則に憧れ、文系の人は、精神世界の無限の可能性に憧れます。 理系の人と文系の人とは、ことごとく反発し合っていて、お互いに理解し合うことなど、とてもできそうにありません。

ただ、こうした異質な存在同士の対立というのは、意外と多いんですよね。 男と女、大人と子供、個人と社会、肉体と精神、科学と宗教、などなど。 かつては曖昧で未分化だった両者は、やがて差別化が進み、激しい対立の後に、融合していきます。 一度違いが生まれれば、より違いが大きい方が、競争に勝つことができます。 しかし、大き過ぎる利点は、その代償として、それ以外の部分に欠点をもたらします。 最終的には、バランス良く美味しいとこ取りをしたものが、生き残るというわけです。

それが進むと、今度は極度に平均化された単調な存在ばかりになり、新しい変化が脚光を浴びることになります。 こうして、流行の波が押し寄せては引いていくわけですね。 そんな時代の波に揉まれながら、引き潮に足元を取られるような恐怖を感じて反発したり、満ち潮についに自分の時代が来たかと天狗になったり、潮の変化に翻弄されて自分を見失ったりするんでしょうね。

中平卓馬の文章を読んでいると、文系が理系に憧れつつも、必死にそれに抗っているような、そういう印象を受けました。 周りのことなんてそんなに気にしないで、もっと自分に素直になればいいのに、と冷めた目で読みつつ、それでいて深く共感するところがあるのは、文系よりの理系と理系よりの文系という、両者の立場の共通性によるものなのでしょう。

あなたは、理系と文系、どちらだと思いますか?

現実との距離感

久々に本を読んでつくづく感じるのは、本って理屈っぽいなぁ、ということです。

私自身、かつては相当理屈っぽくて頭でっかちだったんですが、今では、自分でも意外なほどに、理屈っぽいのが苦手になってしまいました。 もちろん、論理的な思考は有用だし、とても大切なことです。 でも、あまり論理が先行してしまうと、すぐに現実を見失ってしまいます。 論理を展開するには、常に現実との距離を意識する必要があります。 歳を重ねることで、その距離感が、少しずつ掴めるようになってきたんでしょうね。

可愛らしいミーちゃんの写真を見て、ある人は、「可愛い猫ちゃんですね!メス猫ですね!」と言いました。 ミーちゃんはオス猫なので、メス猫というのは間違いであり、その人の思い込みでしかありません。 では、その人にとっての現実は、「ミーちゃんはメス猫である」という現実であり、私にとっての現実は、「ミーちゃんはオス猫である」という現実なのでしょうか。 だとすると、現実というのは、人の数だけ、正確には認識された数だけ、無限に存在することになってしまいます。

むむ、何だか理屈っぽいなぁ。 ということは、すでに現実を見失っている証拠です。 本当の現実は、「オス猫のミーちゃんがいる」という現実と、「ミーちゃんをメス猫のように可愛いと思った人がいる」という現実、この2つの現実が共存しているだけなんですよね。 思索的な人や、哲学的な人というのは、ついつい現実から離れて、抽象的な多重世界の中を彷徨ってしまいますが、現実というのは、呆れるほど簡単なのが、現実なんですよね。

それを、言葉を言葉通りに受け取ってしまうと、途端にややこしいことになります。 即座に「メス猫じゃありません。オス猫です」なんて言ってしまうと、相手は言葉を発することを怖れて、何も言えなくなってしまうでしょう。 この場合、相手が本当に伝えたかったことは「メス猫」ではなくて「可愛い」なので、「可愛いでしょう?でも、本当はオス猫なんですよ」と返すのが、適切な返答ですね。

それでは、「可愛い」と「メス猫」という2つの言葉の重みの違いを、どうやって知れば良いのでしょうか。 「可愛い」という言葉が先にきているから、こっちの方が重いの? それとも、「可愛い」は主観的、「メス猫」は客観的な言葉だから? いくら相手の言葉を分析したって、答は出てきません。 いや、無限の答が出てくるばかりでしょう。 でも、その言葉の元になった写真を見れば、その答は一目瞭然です。 つまり、「可愛いミーちゃんの写真」というのが、大元の現実だったんですね。

もちろん、誰もが可愛いと感じるとは限らないので、正確には「可愛いと言われたミーちゃんの写真」あるいは「可愛いと感じて撮られたミーちゃんの写真」ということになりますが、こんなことを書くと、また理屈っぽくなっちゃいますね。 なぜなら、猫を見て可愛いと思うのは、世間一般的には当たり前のことであり、その性別の判定よりも、より優先順位の高いことだからです。 当たり前過ぎるくらいに当たり前のことなんですが、それが時として当たり前じゃなくなるところが、また現実なんですよね。

現実というのは、常に論理の外にある。 ということを、忘れないようにしたいですね。

読書感想文「真昼のプリニウス」

せっかく読んだので、感想文を書いてみますね。

読み始めは、とにかくイライラしました。 主人公である女性火山学者の理屈っぽい性格にもイライラしたし、文章の変に文学的な表現にもイライラしました。 池澤夏樹の本を読むのは初めてだったので、これがこの人の書き方なんだろうなと思いつつ、ここで読むのをやめたら、せっかく紹介してくれたひろさんにも悪いなぁ、なんて思いながら、我慢して読んでいました。 主人公と、その弟、そしてその友人が、イタリアン・レストランで食事をする場面は、もう最高にイライラしましたね。

でも、主人公が電話をしている場面で、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」の話題が出てきて、猛烈に興味が湧いてきました。 知ってる話題が出てきたことで、親近感が生まれたというのもありますが、「人はみんな遺伝子を次の世代に送りとどけるための乗り物でしかない」という台詞に、疑問を感じたんです。 確かに、リチャード・ドーキンスは、遺伝子の働きを説明する比喩として、そういう言葉を使いましたが、それは「そのように見える」だけであって、決して遺伝子が意思を持って命令しているわけではないと、著書の中で何度も警告しているんですよね。

これは、小説家である池澤夏樹が、生物学者であるリチャード・ドーキンスのたとえ話を、文学的に解釈してしまったのでしょうか。 それとも、主人公の人物描写のために、わざとそういう台詞を言わせたのでしょうか。 彼は、大学で物理学を専攻していたということなので、学者のたとえ話を鵜呑みにするとは思えないし。 かといって、大学の専攻なんて、何の根拠にもならないような気もするし…。 そもそも、電話の内容が、妙に現実味が薄くて、どうも白々しいんですよね。 いや、電話だけじゃなくて、この小説のあらゆる部分が、どうも白々しいんですよ。

すると、その直後に子供が登場して、途端に話が生き生きとしてきます。 なるほど、どうやら理論的思考に凝り固まった主人公が、言葉の呪縛から解き放たれていくというのが、この物語の主題らしいな。 導入部のイライラは、その伏線として、わざと用意されたものだったようです。 それにしても、この小説は、物語として読むと、正直なところ、あまり面白くありません。 その代わり、登場人物の言葉を借りて、作者が語りかけているように読むと、とても面白くなります。

私も、ブログを書くようになって、言葉や写真の限界を強く感じるようになりました。 それは、私自身の能力の限界でもあるわけですが、現実を知るものとして、そこに越えられない壁があることも、また確かなのです。 現実を、現実のまま、正確に知ることはできるのだろうか。 増してや、それを正確に相手に伝えることはできるのだろうか。 そもそも、現実を正確に理解する必要が、果たしてあるのだろうか。 そういう疑問を、この小説は投げかけているように、私は感じました。

大人になってから、自主的に読書感想文を書いてみるのも、面白いものですね。

久々に本を借りたよ

先日、久々に市立図書館で本を借りてきました。

まず、手前の2冊は、ひろさんお薦めの池澤夏樹の長編小説「真昼のプリニウス」と「楽しい終末」です。 数ある池澤夏樹の作品の中から、なぜこの2冊を選んだのか。 それは、この2冊しかなかったから。 これ以外には、エッセイ集が何冊かあっただけでした。 読みかけの筒井康隆があったので、まだ手をつけていませんが、今からとても楽しみです。 特に「楽しい終末」は、そのタイトルからしてワクワクしてきます。

「PHPによるデザインパターン入門」は、これまで読んだデザインパターンの解説本の中で一番わかりやすかったので、また借りてみました。 iKeyboard 3の開発が一段落ついたので、これを機会に復習してみようというわけです。 iKeyboard 3でも、いくつかのパターンを導入しているんですが、一度に多くのパターンを盛り込もうとして挫折した苦い経験があるので、これからボチボチ覚えていくとします。 iKeyboard 3のリファクタリングにも役立ちそうですね。

「見続ける涯に火が…」は、中平卓馬の批評を一挙に集めたものです。 中平卓馬は、1960〜70年代にかけて活躍した写真家・写真評論家です。 ただ写真を撮るだけでなく、文章によってその思想を追求していったことで有名な人ですが、いつしか自分自身の言葉に縛られるようになり、ついには急性アルコール中毒で昏睡状態に陥り、言葉と記憶を失ってしまいました。 現在でも写真を撮り続けているそうですが、彼がどのようにして自分を追いつめていったのかを知りたくて、借りてみました。

「喪失と獲得」は、進化心理学者であるニコラス・ハンフリーのエッセイ集です。 30年前にリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」から始まった進化心理学が、現在どこまで進化しているかが知りたくなって、借りてみました。 ところで、原題は「THE MIND MADE FLESH」で、直訳すると「精神は肉体を作った」となります。 なぜ、これが「喪失と獲得」になるのか気になるところですが、その謎は読み進めていくうちに明らかになることでしょう。

というわけで、これからしばらくは、読書の世界を堪能しようと思います。

ゆらゆら

心の奥底で、ゆらゆらと揺らめいているのは、何?

島に行きたい!

南の島って、何とも言えない魅力がありますよね。

とはいえ、私のことなので、南国リゾートなんてものには全く興味なし。 ただ、島の何もないところで、のんびり過ごしてみたいんですよね。 鹿児島に来て、せっかく南西諸島が近くにあるんだから、一度はどこかの島に行ってみたいと思い続けて早十数年。 結局、なかなか踏ん切りがつかないまま、今に至っています。 でも、なぜか今年は、島への気運が高まってるんですよね。

先日の桜島一周も、とりあえず一番身近な島に行ってみよう、というのがあったんですよ。 桜島でも、予想以上に島気分を味わえて良かったんですが、ちょっと大き過ぎでしたね。 桜島の半分、いや四分の一くらいの大きさで、手軽に行ける島ってないかなぁ。 近場の島といえば、種子島に屋久島がありますが、どちらも桜島以上に大きい島なんですよね。

というわけで、次の目標が見つからずに困っていたんですが、ついに見つけてしまいました。 それは、三島村です。 種子島、屋久島のやや北西、東から順に、竹島、硫黄島、黒島の3つの小さな島があったんですよ。 どの島も、全周20km前後の手頃な大きさです。 特に、竹島は鹿児島本土からもっとも近くて、全周はたったの12.8kmです。 硫黄島には活火山の硫黄岳がそびえ立ち、あちこちに温泉が湧いています。 黒島は一番大きな島ですが、他の2島と比べると、ちょっと地味な印象です。

三島村へのフェリーは、一日一本のみで、それも片道運行です。 つまり、一度行ったら、一泊しないと帰ってこれないんです。 フェリーを乗り過ごしたら、二日後のフェリーまで待たなければなりません。 しかも、隣の島に移動するのも、同じフェリーを使うしかないので、全部の島を見て回るには最低でも一週間かかることになります。 その代わり、フェリー料金は、鹿児島←→三島間が片道3,500円、島の行き来は1,000円と、なかなか手頃なお値段です。

三島村の全島を制覇するとなると、フェリー代が3,500円×2+1,000円×2=9,000円、宿泊代が6,000円×7=42,000円で、合計51,000円になります。 一人旅に5万円は、ちょっと厳しいなぁ。 黒島を諦めれば、フェリー代8,000円+宿泊代24,000円=32,000円になります。 島をひとつに絞り込めば、フェリー代7,000円+宿泊代12,000円=19,000円まで下がります。 う〜ん、悩むなぁ。

8月になれば、お金も時間も手に入るので、それまで楽しく悩むことにしますね。

島の風景

特に何があるというわけじゃないけど、それがいいんだなぁ。

対話型のローマ字表だよ

iKeyboard 3に、ローマ字表がつきましたよ。

パソコンでの日本語入力は、ローマ字入力をしている人が多いかと思います。 でも、基本となる50音はわかっても、「゛」や「ゃゅょ」などが混じってくると、途端にお手上げになる人、いませんか? 慣れないうちは、キーボードのそばに印刷されたローマ字表を置いておくと便利ですが、そうなると、ついついローマ字表に頼ってしまいがちです。 ややこしいローマ字表を、うまく覚える方法があればいいのになぁ。

こうして生まれたのが、このローマ字表です。 一般的なローマ字表は、かなを基準にしてスペルを表示していますが、このローマ字表では、スペルを基準にしてかなを表示しています。 正確には、子音と母音の組み合わせでかなを表示しています。 ローマ字というのは、元々はかなの発音に近い英語のスペルを割り当てたものです。 英語の発音は、子音と母音の組み合わせで決まるので、より自然な覚え方ができるというわけです。

ローマ字は、子音の種類だけでなく、子音の組み合わせによっても、発音が変わってきます。 そこで、基本となる子音の種類と、組み合わせる子音の種類を選ぶことによって、ローマ字表の内容が変わるようになっています。 ローマ字表のかなをクリックすると、そのかなが左に表示され、そのかなに対応するスペルが、その下に一覧表示されます。 さらに、ローマ字表で選択した行に関連する全ての子音の組み合わせが、隣の表に表示されます。

このように、動的に変化する対話型のローマ字表を使うことによって、一見複雑なローマ字表に隠された、単純な法則に気づくことができます。 濁音「゛」や半濁音「゜」を入力するには、専用の子音を使うこと。 拗音「ゃぃゅぇょ」を入力するには、元の子音に「Y」を組み合わせること。 拗音「ぁぃぅぇぉ」を入力するには、元の子音に「W」を組み合わせること。 これらの拗音だけを入力するには、子音の前に「X」をつけること。 などなど。

この対話型のローマ字表を使って、ぜひローマ字の苦手な部分を克服してくださいね。

時期

どうやら今は、出すよりも入れる時期らしい。

小説を読み直す

最近、小説を良く読んでいます。

といっても、読むのは本棚にある小説ばかり。 しかも、手元に残しているのは筒井康隆の本だけです。 実は、中学から高校にかけて、筒井康隆の本を集めていたんですよ。 当時はSFブームで、兄が星新一派だったので、私は対抗して筒井康隆派になったんです。 一時期は、ほぼ全ての文庫本を揃えたんですが、いつの間にか、あちこち隙間だらけになってしまっています。

筒井康隆は、私の人格形成にもっとも影響を与えた人物でしょうね。 特に、フロイトの精神分析など、心理学に関する話題は、とても衝撃的でした。 フロイトの精神分析入門と夢判断を読んで、高校の自由研究で発表したこともありました。 ソフト開発を始めた頃には、認知心理学についてあれこれ勉強したものですが、心理学への興味は、この頃に培われたものだったんですね。

ただ、SFといっても、サイエンス・フィクションとか、スペース・ファンタジーといったものには、あまり興味はなかったんですよ。 私がSF好きということで、父が「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズの第1巻を買ってきてくれたことがあります。 これは、世界最長の小説シリーズとしてギネスブックにも載っているSF小説なんですが、残念ながら、私の趣味には合いませんでした。 父と兄が貪るようにペリー・ローダンを読んでいるのを横目に、私はせっせと筒井康隆を集めては読んでいたのでした。

結局のところ、私はSFが好きだったんじゃなくて、筒井康隆が好きだったんですね。 単純に、荒唐無稽のドタバタが面白かったというのもありますが、ただそれだけじゃなくて、人間の内面を深くえぐり出すような、そういう内向的な鋭さに夢中になっていたように思います。 非現実的な極限状態の中で、人間の本性が次々と暴かれていく様を、ハラハラしながら読んでいたものです。

ただ、子供時代には「そういうものなのか」と一方的に受け入れることしかできませんでしたが、大人になった今では、「果たして本当にそういうものだろうか」という疑問を抱くようになりました。 子供の頃には読み取れなかった新発見に感動しつつ、自分の経験とは相容れない違和感も感じたりして、なかなか新鮮な読書体験を楽しんでいます。

皆さんは、子供時代にどんな本を好んで読んでいましたか?

auのデータ通信料金を探れ!

携帯電話の料金って、なんでこうわかりにくいんでしょうかね。

事情により、ノートパソコンと携帯電話を繋いで、ネット接続しなければならなくなりました。 携帯電話とノートパソコンを、USBケーブルで繋げる方法はわかっています。 問題は、データ通信料がいくらかかるのか、さっぱりわからないことです。 1回のデータ量は、約2MB。 それを6月下旬から7月中旬にかけて、頻繁にやりとりすることになります。 月当たりの最大データ量は、30MB程度。 この場合のデータ通信量は、果たしていくらになるのでしょうか?

私の使っている携帯電話は、auのCDMA 1X WINで、料金プランはプランSSに、誰でも割とダブル定額ライトをつけています。 WINの標準パケット通信料は0.2円/パケットですが、ダブル定額ライトでは0.08円/パケットとなります。 これとは別に、USBケーブルで2.4Mbpsのデータ通信が行えるPacketWINという無料サービスもあり、この場合のパケット通信料は0.105円/パケットとなります。 さらに、定額制のサービスとして、パケット割WINミドル(定額料4,200円/月、パケット通信料0.0265円/パケット)とパケット割WINスーパー(定額料7,875円、パケット通信料0.01575円/パケット)も選べるようになっています。

パンフレットを読んでもさっぱりわからないし、auショップの店員さんに聞いても、さっぱり要領を得ません。 店員さんも良くわかってないみたいで、最後にはサポートセンターに電話してくれと言ってくる始末。 しかも、ひとつの店だけじゃなくて、近所のauショップを何店か回ってみたんですが、どこも同じような対応なんです。 これは困ったなぁ。 そうだ、この携帯電話を買ったベスト電器の店員さんは、かなりしっかりしてたよなぁ。

というわけで、ベスト電器に行ってみると、お目当ての店員さんはいませんでしたが、別の店員さんが丁寧に説明してくれました。 おお、ここの店員さんはレベルが高い! おかげで、携帯電話でのパケット通信料とパソコンでのパケット通信料は別体系であること、パケット割WINの定額料はそのまま無料通信料になっていること、などなど、曖昧だった部分がずいぶんはっきりしてきました。

というわけで、パソコンでのパケット通信料をまとめたのが、下の表です。

基本料金1MB4,200円7,875円
PacketWIN無料860円5.0MB9.2MB
パケット割ミドル4,200円215円20.0MB36.6MB
パケット割スーパー7,875円129円32.6MB64.0MB

私の場合、最大データ量が30MBなので、パケット割ミドルにすれば良いことがわかります。 この表を作ったことで、料金プランを一目で選べるようになりましたが、この表を作れるようになるまでに、半日もかかってしまいました。 もし、パンフレットに最初からこの表が載っていれば、こんな苦労はしなくて済んだはずですし、auショップの店員も、しどろもどろの説明をしなくて済んだはずです。 確かに、auのパンフレットには、正確な情報が載っていました。 でも、ちゃんと理解できなければ、その情報は何の意味もなくなってしまいます。

情報の提示の仕方って大事なんだなぁと、しみじみ思いましたよ。

闇の処刑人

さあ早く家に帰りな
もうすぐ夜がくるぜ

暗くなって闇がくれば
それは俺達の時間だ

赤い口をいっぱいに広げて
お前を食っちまおうか

刃物のように鋭い葉の先で
お前を切り刻んでやろうか

自分の命が惜しければ
明るいうちに家に帰りな

桜島を再び歩く 湯之平展望所 後編

展望所に上ったからには、下りなければなりません。

ただ来た道を帰るだけでは面白くないので、別の道を下ります。 この道を通った記憶はありませんが、うまくいけばフェリーターミナルを挟んで反対側に出るはずです。 夕日は日没よりも一足先に雲に隠れ、噴煙の陰から月が顔を出してきました。 車の通りはほとんどなく、ただ鳥の鳴き声だけが聞こえます。 ついつい早足になるのは、下り坂のせいだけじゃありません。

視線の先には、鹿児島港が見え隠れします。 あの小高い丘の上には恐竜公園があって、その向こうには桜島港があるんだなぁ。 一周の時と違って、帰る場所が見えているというのは、とても安心します。 でも、歩いても歩いても、なかなか距離が縮まらないので、少しずつ焦りが出てきます。 そんなに距離は遠くないんだから、落ち着け落ち着け。

落ち着いて辺りを見回してみると、行きとは違って、あまり桜島らしさを感じないことに気がつきました。 何だか、普通の山道を歩いてるみたいだなぁ。 辺り一面、びっしりと木々が生えていて、あの荒々しい溶岩の姿が見えないんですね。 そんなことを考えていると、下から自転車を押しながら上ってくる若者とすれ違いました。 元気の良い挨拶は嬉しいんだけど、こんな時間に大丈夫?

びわや小みかんの畑が見えてきた頃には、すっかり暗くなってしまいました。 畑に続いて、ぼちぼちと民家の明かりも増えてきて、そろそろ下り坂も終わりそうな雰囲