好きだなぁ

一生懸命な、そのままのあなたが、好きだなぁ。

綺麗だね

綺麗だね。その一言が、自分を勇気づける
綺麗だね。その一言が、自分を駆り立てる
綺麗だね。その一言が、自分を狂わせる

その言葉の先にあるものは何か
その言葉の元にあるものは何か
欲しいのは、賞賛か、熱意か、愛情か

綺麗なものなど、欲しくはない
この手で触れられる、確かな存在が欲しい
綺麗なものは、涙のようにこぼれ落ちるだけ

黒い悲しみ

もやもやとした空気の中で、黒い悲しみが糸を引く
それがどこまで続くのか、果たしてこれを断ち切れるのか
先のことは、誰にもわからない

ただ、何とかしたい、その気持ちがあれば
そのうち、何とかしたくなって、何とかするようになる
何とかすれば、何とかなるさ

いつか、笑って話せる時が、きっと来る

心の鏡に映るもの

苦しい、もう駄目だ、助けてくれ
苦しみに、悲しみに、押しつぶされそうだ
絡みつくしがらみに、身動きが取れないよ

でも、心の鏡には、ただ自分が映っているだけ
誰もいないし、邪魔するものは、何もない
あるのは、孤独な自分と、どんよりとした感情だけ

これが本当の自分の姿?それとも願望?
溢れる涙で、世界が濡れていく

温泉の季節

湯船に浸かるのが、気持ち良い季節になってきました。

商店街の夜

まるで取り残されたかのように
闇に浮かんでいる

まっすぐに続く街灯の下には
人の通りはない

ときおり見かける人影に
かすかに空気が緩む

その空気を掻き乱すように
自動車が通り過ぎる

消えていく音に引っ張られるように
ゆっくりと静寂が降りてくる

その静寂が、私は好きだ

幸せのお裾分け

一人で食べるのはもったいないから、皆さんにもお裾分けしますね。

おめでとう、自分

33年目の自分は、とっても幸せ者だなぁ。

気持ちに筋を通そう

自分の気持ちに素直になることと、感情に身を任せることは、似てるようで、微妙に違います。

たとえば、誰かを好きになって、仲良くなりたいと思うのは、自分の気持ちです。 気持ちを伝える時にドキドキしたり、オロオロしたり、相手の返事にワクワクしたり、ガッカリしたりするのは、感情の働きです。 自分の気持ちは誰からも自由だけど、その気持ちを伝える行動には責任が伴います。 ところが、その行動は、感情によって大きく影響を受けます。 感情が適切に作用すれば良い結果が得られやすくなりますが、逆に感情が全てを台無しにすることもあります。

気持ちを伝えるためには、実にたくさんの要因が絡んできます。 でも、行動の結果は、いつも満足するかしないかの、二者択一です。 短期的には、どっちつかずの時もありますが、長期的に見れば、必ずどちらかに落ち着きます。 運良く満足な結果が得られれば良いのですが、確率的には、これも半々ということになります。 つまり、気持ちの半分は満足な結果が得られても、もう半分は、満足な結果が得られないということになります。

それでは、満足な結果が得られなかった時は、一体どうすれば良いのでしょうか。 まず、満足な結果が得られないと予測される時には、最初から行動を起こさないという手があります。 行動を起こさなければ、満足な結果を得ることもできませんが、いつか満足できるかもしれないという希望だけは持ち続けることができます。 でも、行動を起こさなければ、何も学ぶことはできないし、何も影響を与えることができないので、気持ちばかりが大きくなってしまいます。

行動を起こす前に、満足な結果と、満足のいかない結果の両方を、あらかじめ予測しておく方法もあります。 最近は、成功をイメージすれば必ず成功するというスピリチュアルな考え方が流行っていますが、あまり諦めが悪いと、悪質なストーカーになりかねません。 押しの一手で攻めてしまうと、それをかわされた時に、そのまま土俵を割って自滅してしまいます。 本当に満足したいのであれば、それと同じだけ、満足できなかったこともイメージする必要があるのです。

こうして、両方のイメージを用意しておくと、行動の結果がどちらに転ぼうと、その結果を受け入れやすくなります。 相手と仲良くなれたのは、自分との相性が良かったから。仲良くなれなかったのは、相性が良くなかったから。 これがもし、成功のイメージしか持っていなかったとしたら、どうなるでしょうか。 仲良くなれたのは、自分が優れているから。仲良くなれなかったのは、相手が自分の良さを理解できなかったから。

もし、失敗という結果の受け皿が用意されていなかったとしたら、それは自分に対する否定として受けとめられることになります。 自分を認めてくれなかった相手への怒り、そして、相手に認めさせることのできなかった自分への怒り。 そうした怒りが、相手を殺して自分も死ぬという、無理心中へと駆り立てるのです。 事前に失敗の可能性を把握できていれば、その受け皿に気持ちを落ち着けて、不満足な結果に満足することができたでしょう。

こうして、自分の気持ちを落ち着かせることが、気持ちの筋を通すことなんじゃないかなぁ。

怪奇な皆既に歓喜

皆既月食、皆さんは観ましたか〜?

携帯カメラで軽やかに

最近、携帯カメラを見直しつつあります。

私の携帯電話は、au A5516Tです。 カメラは、パンフォーカスの120万画素。1280x960の写真が撮れます。 このブログでは、写真を640x480で載せているので、ちょうど良い解像度ですね。 最初は喜んだものの、色が変になることが多くて、そのうちほとんど使わなくなってしまいました。 でも、ホワイトバランスを#キーで切り替えて撮るようにしてからは、十分満足の行く色で撮れるようになりました。

もちろん、フルサイズのセンサを搭載したR1と比べてしまうと、その画質の差は一目瞭然です。 でも、携帯カメラには、R1にはない味わいがあるんですよ。 これは、デジタル全盛の時代に、銀塩写真こだわったり、トイカメラを愛用したりするのと、同じ感覚なのかもしれません。 私がこだわってきた「見たまま写真」とは違うんですが、これはこれで、やっぱり良いと感じるんです。

携帯カメラを活用し始めたのはサイクリングを再開してからですが、買い物の途中とか、撮るつもりじゃなかったのに見つけてしまった光景を撮るのに、携帯カメラはとっても重宝するんですよ。 露出とか構図なんて気にしないで、ぱっと取り出して、ぱっと撮って、ぱっとしまって、ニコニコしながら通り過ぎると、とっても気持ちが良いんです。 R1は、撮る度に気持ちが重くなるけど、携帯カメラは、撮ると気持ちが軽くなるんです。

どっちが良いか悪いかじゃなくて、どっちも良い。 モノの価値は、ひとつじゃないんだな〜と、改めて実感しました。

気持ちで満足しよう

激しい雨が止んだと思ったら、わずかに日が差してきました。

立ちこめる暗雲を背に、橙色の日差しに照らされた木々が印象的だったので、慌ててカメラを持って外に出ます。 残念ながら、すぐに日は陰ってしまったけど、なかなか良い写真が撮れたかな、と思います。 うん、満足満足。何が良くて、どう満足したのかはわからないけど、気持ちは満足しています。 最近、だんだん気持ちで満足できるようになって、とっても気持ち良いんですよ。

これまで、どちらかというと、気持ちよりも理屈で満足していたところがあったように思います。 自分はこういうのが好きなんだとか、これはこうあるべきだとか、気持ちで満足する前に、勝手に気持ちを縛り付けていたんですよね。 確かに、そうすることで見えてくることも多かったわけですが、何だかそういうことが、面倒臭かったり、鬱陶しく思うようになってきたんです。 もっと、気楽に生きたいな。

最初の頃は、好きなことを好きなように楽しんでいたつもりだったのに、いつの間にか、自分の好きなものはこういうものだと思うようになって、これはこうでならなければならないと考えるようになって、ふと、好きなことを好きなように楽しめていない自分に気づくんですよ。 あれぇ、こんなはずじゃなかったのになぁ。 じゃあ、今の自分が好きなものって何だろう。 う〜ん、全然思いつかないなぁ。どうしよう。

もしかしたら、自分はどうしようもなく駄目な人間なのかも。 性格的に、何か大きな欠陥があるんじゃないだろうか。 皆、とても楽しそうにしてるのに、どうして自分だけ同じように楽しめないんだろう。 そんなふうに悩むこともありましたが、楽しめてないことに気がつくなんて、自分はなんて凄い奴なんだと思い直すようになりました。 世の中には、お仕着せの満足で楽しもうとしている人が、とてもたくさんいることに気づいたからです。

だから、もう一度、自分を信じてみようかな。 自分と一緒に、死ぬまで自分を楽しんでみたいな。

100年前の夕焼けを想う

今日もまた、素晴らしい夕焼けが見れましたよ。

空を見上げる度に、ふと思うことがあります。 この空だけは、今も昔も変わることなく、同じように見えてたんじゃないかなぁ。 私が鹿児島に来て十数年が経ちますが、十年一昔と言うだけあって、鹿児島の町並みもずいぶんかわりました。 木造の古い建物はどんどん取り壊され、大きなマンションが建ち並んでいます。 歩いている人の服装も変わりました。 特に大学生などの若い人達の服装は、驚くほどお洒落になりました。 鹿児島も、ずいぶん都市化したものです。

もし、これが100年前だったとしたらどうでしょうか。 100年前の写真を見ても、桜島が写っていなければ、そこが鹿児島だとは気づかないでしょう。 100年前の、粒子が荒く、コントラストの強い、モノクロ写真。 木造の平屋建ての前には、舗装されていない道路が広がり、時代劇よりもずっと薄汚い格好をした人達が、何やら忙しそうに歩いています。 時代は違っても、同じ場所に住む、同じ人間のはずなのに、まるで別世界のようです。

でも、その写真を撮ったカメラの向こうには、今と変わらない、色鮮やかな世界が広がっていたはずです。 もしかしたら、木造の居酒屋には、明々と赤提灯の灯りがついていたかもしれないし、着物の柄もお洒落な色使いだったのかも知れません。 そして、まるで黒煙のように汚れた空も、吸い込まれるほどに美しい夕焼けだったのかもしれないのです。 今の私達には、それらの色を想像することしかできませんが、空の色だけは、きっと今も変わってないんじゃないかなぁ。

100年前の人達も、100年後の人達も、やっぱりこの夕焼けを見て、感動するのかなぁ。

岩の気持ち

寄せては返す波が、少しずつ、岩を溶かす。

夕暮れサバイバル・サイクリング

ここ一週間ほど、毎日のようにサイクリングをしています。

夕方に出発して、2時間くらい。 途中、ふたつほど山を越えるので、距離にすると15〜20kmくらいでしょうか。 ちょうど夕暮れ時なので、日焼けや熱中症の心配もありません。 美しい夕空を眺めつつ、涼しい夜風に当たりながら、ゆったりとサイクリングを楽しみます。 とはいえ、筋力アップのために必ず山を越えることを課しているので、結構な運動量になります。 でも、その甲斐あって、ずいぶん体ができてきました。

不思議なもので、自転車で自由に駆け回れるようになると、心の底に堆積していた記憶が掻き回されて、ふわりふわりと思い出されてきます。 この道は、いつもヒーヒー言いながら走ってたっけ。 いつだったか、負けず嫌いの友人と勝負したことがあったよなぁ。 でも、そうした思い出よりも、サイクリングを楽しむという感覚が蘇ってきたことが、何よりも嬉しいんですよね。

サイクリングの楽しみ方は人それぞれですが、私の場合は、サバイバルという楽しみ方です。 何の下調べもせずに、その時の気分次第で、走る道を決めていきます。 あ、この道は良い雰囲気だな。この先には何があるんだろう。行ってみたいな。よし、行こう! 大きな国道から、細い県道に入り込むと、そこには未知の世界が広がっています。 そんな未開の地を、自分の力だけを頼りに開拓していくわけです。まさに冒険野郎!

もしかしたら、この先はどんどん険しい山道になって、行き止まりになるかもしれません。 でも、その時は来た道を引き返せば済む話です。 見知らぬ町に迷い込んでしまうかもしれませんが、どこかに必ずヒントが隠されているものです。 知らない道で、外がどんどん暗くなってくると、一層不安が増してきます。 今さら、泣いて帰る訳にはいきません。前身あるのみ。 もう、自分を信じるしかありません。

そんな時、真っ赤に染まった夕焼けや、遠くに広がる夜景に出会うと、どうしようもなく感動してしまうんです。 暗くキツい坂道を上り切って、突如として現れた住宅地の灯りに包まれると、言いようのない安心感が沸き上がってくるんです。 夕焼けも夜景も、住宅街の灯りも、どれもありふれた光景なんですが、孤独で過酷なサバイバル・サイクリングを通して見ると、どれも最高の景色に変わるんですよ。

昼間だと、こうはいかないんですよね。 行けるとこまでいってやる!みたいに闘争本能が燃えてしまうんですよ。 でも、夕暮れだと、そうはいきません。 暮れゆく太陽の弱々しい光のように、気持ちはどんどん心細くなっていきます。 人通りはなくなり、車の通りも減り、代わりに民家の灯りが切ないくらいに明るく見えてきます。 そうだ、自分も家に帰らなきゃ。 そう思うと、自然と体に力が入ります。

ただ走るだけじゃなくて、様々な感情を楽しむ。それが、夕暮れサバイバル・サイクリングの醍醐味なのです。

HomeRecipeのスクリーンショット

HomeRecipeのウインドウデザインが、ようやく終わりました。

ソフトを起動すると、まずこのブラウズウインドウが表示されます。 見た感じはMT Log Readerに似ていますが、サイドパネルがタブで切り替えられるようになっています。 なぜなら、家庭でレシピを見たい時には、2つの異なる目的があるからです。 ひとつは、いつ何を作ったのかを知りたい時、もうひとつは、何か特定の料理を作りたいという時です。 これらの目的に合わせて、タブには「日付」と「料理」という2つの項目が用意されています。

日付モードでは、日付順にレシピを一望することができるので、過去一週間の記録から今日の献立を考えたり、去年の誕生日に何を作ったのかを調べることができます。 日付で絞り込みはもちろん、「レシピのみ」「朝食」「昼食」「夕食」などの種類によっても絞り込めるので、夕食に多いレシピを調べたり、入力しただけで一度も作っていないレシピを試してみたりと、使い方が広がります。

料理モードでは、分類と料理名によってレシピを絞り込むようになっています。 ハンバーグが食べたい時は、分類;肉料理、料理名:ハンバーグ、と選んでいけば、過去に作ったハンバーグのレシピが、日付順で一覧表示されます。 ケチャップソースのハンバーグ、チーズハンバーグ、きのこのハンバーグ、などなど。 新しいハンバーグにするのも良し、しばらくご無沙汰だったハンバーグにするのも良し。 改良に改良を重ねて、究極のハンバーグを目指すのもいいですね。

食材リストは、以前ShopRecipe用に作ったものを、そのまま持ってきています。 HomeRecipeでは、食材リストは一種類のみに対応し、ShopRecipeでは、複数の食材リストを切り替えられるようにする予定です。 家庭用では、さほど原価管理を厳しくする必要はないので、大まかな相場を入力しておいて、だいたいの目安がわかれば十分です。 それに、きっちりとした家計の管理は、家計簿の役割ですからね。

迷いに迷った新規レシピ入力ウインドウは、結局タブによる二画面切替式にしました。 HomeRecipeを単に献立日記として使うのであれば、「基本・評価」を入力するだけで良いようになっています。 きっちりレシピを記録しておきたい時は、「材料・手順」に切り替えて入力します。 材料、手順、備考は、お互いに関連し合っているので、これらを同時に表示するようにしています。

HomeRecipeは、家族での利用を想定しているので、家族のメンバーを登録しておくと、家族ごとの評価を入力できます。 評価は、家族の反応を見ながら「↑↑」「↑」「−」「↓」「↓↓」という相対的な5段階評価で行うようになっています。 特に反応がなければ「−」、「あ、これ美味しいね」は「↑」、「うわ、これ駄目」と残した時は「↓↓」というわけです。 もちろん、家族の評価ごとにレシピを絞り込めるので、家族の好き嫌いもバッチリ把握できます。

レシピは、「食材リストに追加」にチェックを入れておくと、食材リストにも表示されるようになります。 各種ソースやだし汁など、他の料理に活用できるものは、チェックを入れておくだけで使い回しができるようになります。 また、材料リストでは、関連のある材料ごとにグループ分けをすることもできます。 手順は、必要であれば一枚ずつ写真を入れることもできます。

HomeRecipeは、自由な形式で入力してもらおうかと考えていたんですが、それが通用するのは、ブログのように誰か読み手がいる場合だけなんですよね。 レシピを管理したいだけなら、やっぱり箇条書きでシンプルに書いた方が、入力も楽だし読みやすいし、という結論に達しました。 その代わり、ブログの記事にしやすいように、書き出し機能をつける予定です。

というわけで、ざっと説明したわけですが、これはすごい料理レシピ管理ソフトだと思いませんか?

みなぎるパワー

俺は今、エネルギーに満ち溢れてるぜ!

秋の惑星

秋の夕空を見ると、地球も惑星なんだな、と思う。

賑やかな無人販売所

野菜の無人販売所は、無人だけど実に人間臭いんですよね。

他所はどうなのかは知りませんが、鹿児島では結構あちこちで、この無人販売所を見かけます。 うちの近所でも2ヶ所あって、私も何度か利用したことがあります。 値段はどこも100円。消費税なんてお構いなしのワンコインというのは、とても買いやすくて便利です。 その日に採れた新鮮な野菜なので、安心して食べることができるのも嬉しいところです。 でも、ほとんどやる気がなくて、品数も少なかったりするんですよね。

この西陵の無人販売所は、交通量が多いからか、他とは明らかに違う「やる気」がみなぎっていました。 まず目に入るのが、にこやかな笑顔の商売繁盛の垂れ幕です。 シートの陰に隠れて「盛売」になってしまっていますが、その横ではスーパーのリサイクルと思われるトレイの上に野菜が盛られて売られているわけで、確かに「盛売」に違いありません。 してやったりの笑顔が憎い!

さて、上段にはニガウリと卵、中段にはヘチマ(?)とジャガイモ、タマネギが並んでいます。 それも、結構な数があります。 ここは高台ながら住宅が多いので、利用者も多いのかもしれません。 実際、私が写真を撮っている最中も、恰幅の良いおば樣達が、犬を連れて散歩をしていました。 いや、犬の散歩をしてたのかな。 でも、犬そっちのけでおしゃべりに興じていたので、やっぱり犬を連れた散歩だな。あれは。

左端には料金箱があり、その横には「キンコウカボチャ 大い 200円」とありました。 キンコウカボチャは、恐らく錦江湾の錦江のことなんでしょうけど、大いって何?太いのことかな?それとも大きいの字抜け? 私はまだ見たことはありませんが、キンコウカボチャはきっと100円では売り惜しみしたくなるほど大きいんでしょうね。 見てみたいなぁ。 その一方で、ダイコンは3本で100円。 なかなかきめの細かいサービスです。

下段には、「じたまご(自家製品)1パック100円」と書かれた段ボールの中に、大量のトレイがぎっしりと詰め込まれていました。 これはもう、売る気満々です。 その横には、懐かしいラジカセが2台。 かつて、これで売り口上を流していたのでしょうか。 ただ、100円の真ん中の「0」は歪み、じたまごの左側には、うっすらと138円の文字が残っているところを見ると、目玉商品のじたまごの値段を決めかねて苦悩していたようです。

さりげなく花が飾られてたりして、とても賑やかで楽しい無人販売所でした。

山の夕焼けが見たくて

ふと、山の夕焼けが見たくなって、西陵へと向かいました。

西陵は、裏の紫原を越えて、さらに奥に行ったところにあります。 歩くには遠いし、ママチャリでは辛い道程なので、ずっとご無沙汰してたんですよ。 でも、今の私には復活したクロスバイクがあります。 桜島一周を終えて、筋力、体力ともに復活しつつあるので、今日はカメラを持ってサイクリングです。 夕方になるのを待ってから外に出ると、残暑らしい湿った熱気と涼しげな風が出迎えてくれました。

クロスバイクが復活した日に登ったときは、自分の体じゃないような違和感を感じたものですが、今日はちゃんと自分の意志でペダルを踏めています。 力を込めれば込めた分だけ、しっかりと前へ進んでいきます。 そう、この感覚。これがあるから、サイクリングは最高に楽しいんだよな。 紫原を越え、西陵へと続く道は、かなり勾配がきついんですが、ギアを落とすことなく登ることができました。

その名前の通り、西陵は市街地の西にある丘陵で、住宅地と郊外の境界線でもあります。 この道から東側を見ると、桜島をバックに市街地を見下ろすことができるんですが、反対の西側を見ると、延々と続く山々を見ることができます。 そして、夕暮れ時に来ると、茜色に染まる山々と沈みゆく夕日を、じっくりと眺めることができるんです。 私は、汗まみれになって自転車を走らせながら、この長閑な道を通るのが、とっても大好きなんです。

この道を真っ直ぐ行くと、やがて名門、鹿児島実業高校が見えてきます。 それより先に行ってしまうと山を下りてしまうので、ここで来た道を引き返します。 途中、味のある無人販売所を見つけて撮りまくっていたら、ちょうど良い時間になりました。 ああ、夕焼けだなぁ。一日が、終わっていくなぁ。大好きな夏も、終わっていくんだなぁ。 でも、もうしばらくだけ、夏を楽しませておくれよ。

沈んでいく夕日を見ていると、心の中で何かが終わっていくのを感じます。 でも、それは悪いことじゃなくて、明日新しいものが生まれるための準備でもあるんですよね。 人は、そんなにたくさんのことができるほど器用じゃないから、いつかどこかで何かを終わらせなければなりません。 それが何なのかははっきりしないんですが、何となく心のけじめがついたような、そんなさっぱりした気分になるのです。

明日は明日の陽が昇る。今日も一日、お疲れ様!

「孤独のグルメ」と「散歩もの」

caiseiさんオススメの「孤独のグルメ」ついに買っちゃいました。

ついでに、同じ作者の「散歩もの」も同時購入。 鹿児島市内の本屋を10店ほどハシゴしても見つからず、ネット通販でも2〜3週間はかかるということだったので、結局AMUの紀伊国屋で注文したんですが、3日ほどで手にすることができました。 この「孤独のグルメ」は、一部で熱心なファンを持っているようで、ネットで検索すると名台詞の紹介ページがあったりします。 なるほど、確かに面白そうな漫画です。

でも、ここまでして欲しいと思わせたのは、原作が久住昌之だったからです。 以前、裸眼立体視にハマっていた頃、私の大好きな赤瀬川原平と合わせて、とても面白い文章を書く人だなぁと思っていたんですよ。 しかも、美術学校で赤瀬川原平に師事していたとあっては、これはもう読むしかありません。 もしかしたら、「散歩もの」の方は、路上観察学のテイストで書かれているのかもしれません。 う〜ん、楽しみ!

ワクワクしながら早速読んでみると、「孤独のグルメ」がもう最高に面白いんです。 一話を読み終わる度に、不思議な感動の余韻を味わうことができます。 漫画でここまで感動したのは、つげ義春以来でしょうか。 物語は、ひたすら主人公の独白で進んでいくわけですが、その心情が実に共感できるんですよ。 ついつい「お前は俺か?」なんて思ってしまいます。 年齢や境遇がどことなく似てるというのもあるのかもしれません。

ただ、意外なことに、名台詞とされている台詞が、あんまり心に残らないんですよ。 すでにその台詞を知ってしまっているというのもあるのかもしれませんが、同意はするものの、そこまで共感するほどじゃありませんでした。 私が共感したのは、「どこでもいい。めし屋はないのか」「やっぱりこういうとこで食い物に文句言っちゃいけないぜ」「ここでは青空がおかずだ」「ここはもう俺のくる場所じゃないな」といった台詞ですね。

題名に「グルメ」がついていますが、料理そのものよりも、自分と料理、そして店との関係を描き出したところに、この漫画の面白さがあるように思います。 慣れない場所で外食する時の心細さや、庶民的なものに対する安心感、自由を求める気持ちや、もう若くないことへの諦めと安堵など、一匹狼を貫く中年男の微妙な心理が、実に鮮やかに描き出されています。 そして、これらの「男の美学」が、読めば読むほど滲み出てくるのです。

ところが、「散歩もの」の方は、主人公が若く、結婚もしているせいか、どうも印象が軽くて、あまり感情移入できません。 「通販生活」という雑誌で連載されたせいか、台詞が妙に説明的で、昭和レトロブームに乗っかってるだけの若造が何を言うか、と説教したくなってしまいました。 読んでるうちにそれなりに具合が良くなってはくるんですが、結局盛り上がりのないまま、すとんと物語が終わっちゃうんですよ。

というわけで、「散歩もの」はイマイチでしたが、「孤独のグルメ」はぜひ一度読んでみてくださいね!

しおらしい贈り物

やなせさんから、OPEN企画の賞品が届きました。

実は、19日に配達されていたんですが、受け取り損ねちゃったんです。 そして、今日になって不在通知の存在に気づいて、慌てて取りに行ったというわけです。 エクスパックいっぱいに詰まった中身は、長方形で、縁が固く盛り上がっています。 私が写真を撮るので、もしかしたら写真立て?でも、それにしては大き過ぎるよな…。 わくわくしながら開けてみると、中身は名古屋のしおり餅でした。 あ、名古屋の夏オフのおみやげだ!

同封された封筒には、手書きの手紙と、何やら三角形の物体が。 手紙を読むと、「たぶん本にはさんで使う文明の利器っぽいものかな」とあります。 ああ、しおりか。やなせさん、本読むの大好きだからね〜。 なるほどと納得しながら、早速しおり餅の包みをはがしていきます。 ん、しおり餅…しおり…あ、しおりか! あまりに「やなせさん=読書家」のイメージが強過ぎて、危うく見逃すところでした。

しおり餅は、とてもカラフルなお餅でした。しかもたくさん入ってるし。 とりあえず、一色ずつ皿に盛って記念撮影。 きっと、「かるかん=カルカン」に対抗するために、あれこれ土産物店を探したんだろうな。 そう思うと、自然と笑みがこぼれてきます。 そういえば、ろぐみちゃんとその仲間達も、ちょうど四色だったよな。 あ、ろぐみちゃん物語も、そろそろ連載を始めないと…。

というわけで、やなせさん、どうもありがとう!

もくもくのくも

うねるように、せまるように、たくさんのくもが、やってきました。

アーティーじゃいられない

アーティー写真を撮ろうとしても、ついつい自分が出てしまう時があります。

だって、ただのアーティー写真は、撮るのも観るのもつまんないですからね。 芸術気取りということは、あらかじめ芸術のイメージができあがっているわけで、そのイメージを当てはめていくだけなんて、ただの作業でしかありません。 写真が面白いのは、そこにワクワクするような発見があるからなんですよね。 だから、お仕着せのイメージで撮ったって、面白いはずがないんです。

私は芸術家じゃないし、芸術家を目指しているわけでもありません。 趣味で写真を撮っているのであれば、そういう面白主義というのは、とても大切なことだと思います。 仕事の延長で、与えられた課題を期限内にそつなくこなして、他人との優劣を競うなんて、ぞっとするほど面白くないですからね。 それぞれ自分の好きなものを好きなように撮って、お互いの写真を認め合える関係。 それが健全な趣味の世界なんじゃないのかなぁ。

というわけで、せっせとアーティー写真の真似事をしつつ、これはと思った時には自分写真を楽しんでいたんですが、その差は歴然ですね。 アーティー写真の方は、綺麗に撮れていても、パイルダー・オンしていないマジンガーZみたいに、魂が抜けているような感じがします。 一方、自分写真では、両目を入れた達磨のように、しっかりと視点が定まっています。 魂の入った仏像みたいなものでしょうか。

最初、アーティーな世界観は、都会の無機質な環境のせいかと思っていたんですよ。 でも、同じ都会の人でも、気取った写真を撮る人もいれば、視点の定まった写真を撮る人もいます。 私自身が、都会っぽい無機質な場所で、同じように写真を撮っても、アーティー写真になったり自分写真になったりしました。 つまり、都会だとか無機質だとかは関係なしに、撮る人の興味や視点が定まっているかどうかが問題だったわけです。

文章でも、自分で書いているつもりでも、いつの間にか他人の文章をなぞってしまっていることがあります。 その場面を実感できないまま、言葉の織りなす雰囲気にのまれてしまって、ありきたりで薄っぺらな文章を書いてしまうことがあります。 自分の体験としてちゃんと実感できていると、文章も飾らない言葉がすらすらと出てくるものです。 写真も、それと同じことなんでしょうね。

アーティーごっこは、いろんなことを気づかせてくれました。

アーティーごっこをしてみたよ

先日、アーティーという言葉を初めて知りました。

最初は「芸術的な」という意味なのかな?と思ったんですが、それなら「アーティスティック」だしなぁ。 もしかしたら、ちょっと野暮ったい「アーティスティック」を、今風のスッキリとした語感に直した和製英語なのかも。 試しに、「arty」で辞書を引いてみると「美術家気取りの/芸術品まがいの」と書いてありました。 さらに「arty-crafty」になると技巧が強調され、「arty-farty」になると皮肉が入ってくるようです。

私も英語は得意じゃないので、微妙なニュアンスまではわかりませんが、ネットで検索してみると、日本では結構好意的に使われることが多いようです。 「この置物、芸術っぽくていいよね〜」「あの照明もアーティーだよね〜」 本物の芸術のことは良くわからないけど、芸術っぽい雰囲気は好きだな。 そういう微妙な感覚を伝える言葉として、アーティーが使われているようです。

では、私の中にあるアーティーの概念には、どんなものがあるでしょうか。 真っ先に思い浮かぶのが、雑貨屋や飲食店などのお洒落な小物達。 そして、間接照明によるグラデーションと、素材の質感を強調した道具類。 そして、そうした小物類を身につけ、そうした空間に身を置き、そうした道具を手にして悦に浸る人達。 うわぁ、私が一番苦手なタイプだなぁ、これは。

でも、それは私がそういうことが苦手だからであって、そうなれたらいいなぁという願望は、私の中にもあります。 そして誰もが、多かれ少なかれ、こうしたアーティーな願望を持っているのではないでしょうか。 よし、それなら私も、アーティーな写真を撮ってやろうじゃないか! そして、ついでに私のアーティー嫌いも克服してやるぞ! そうして、意気揚々と鹿児島中央駅へと向かったのでした。

先に挙げたアーティーのイメージを分析すると、他人が意図的にデザインしたものを、自分なりにアレンジして利用することが、アーティーの条件みたいです。 そして、対象はあくまでモノであり、間接的な表現でなければならないようです。 自己演出された個性が好まれ、生活感のある人間臭さは敬遠されます。 何だか、殺伐としてるなぁ。 それに、こういう意図的にデザインされた世界は、すごく疲れるよ…。

まあ、これは私の勝手なイメージだったわけですが、皆さんのアーティーなイメージって、どうなんでしょうか?

「腐らせてしまった料理」から学ぶ

久々の料理ネタは、カビ風味のウジ虫和えですよ。

実はこれ、鍋に入れっぱなしのままで、うっかり忘れてしまってたんですよ。 直射日光の当たる場所に、鍋にふたをしたままで。 これの元料理が、煮物なのかカレーなのかも思い出せないので、一週間近く放置していたのではないでしょうか。 確かに、何か臭うなぁとは思っていたんですよ。 ゴミもちゃんと出したし、ミーちゃんのトイレも綺麗にしたし…。 で、その臭いの元が、これだったわけです。

表面にはクリーム色の膜が張っていて、所々には黒いカビの固まりができています。 端の方では、小さなウジ虫達がもぞもぞとうごめいてます。 余りの臭さに慌ててふたを閉め、台所へと持っていきます。 でも、このまま流してしまうのは何だか惜しい気がして、そのまま部屋へ持ち帰ります。 そして、息を止めながら記念撮影。 うっかりとはいえ、食べ物を粗末にしてしまって、ごめんなさい。

ただ、こうして写真に撮ってみると、「腐らせてしまった料理」が別の意味を持ってくるような気がするんですよね。 これが「腐らせてしまった料理」であることに変わりはありませんが、「腐らせてしまった料理」がどういうものなのかを、有無を言わさずに突きつけてくるような、そんな迫力を感じます。 もはや人間の食べ物ではなくなってしまいましたが、食べ物としての価値は変わっていないんですよね。

カビやウジ虫にとっては、まさに最高のご馳走だったわけです。 鍋のふたはきっちり閉じていたのに、元から中に入り込んでいたのか、それともわずかな隙間から入り込んだのか、とにかくこうして旺盛な生命力を見せつけられてしまうと、生命の神秘を感じてしまいます。 生態系というものが、自分の目の前で、確実に存在している。 それも、自分の目に入らないところで、確実に進行している。 まさに、自然の驚異ですよね。

人間という狭い枠にとらわれなければ、世界に無駄なものなどないのかもしれませんね。

サマーナイト会場レポート(後編)

さて、待ち合わせ場所の桜島桟橋に着きましたよ。

フェリーターミナルの階段を上っていると、バスでやってくる人達の姿が見えました。 これからどんどん人が増えていくんだろうなぁ。 ターミナルの中に入ると、すでに結構な賑わいを見せていて、早めの腹ごしらえをしている人もいました。 そういえば、晩ご飯どうしようかな。 途中の出店で焼そばでも買うかな。 とりあえず、ペットボトルのお茶だけは買っておきます。

ロビーでは、何やら長い行列ができていました。 何だろうと思って看板を見ると、「桜島納涼観光船 列入口」と書かれていました。 船の上から花火を鑑賞するなんて羨ましいな〜。 でも、行列に並ぶのは嫌だな〜。 ま、自分には穴場があるしね。 ふと横を見ると、暇を持て余した女の子が、斜めの柱をよじ登っていました。 なぜこんなところに斜めの柱が? と思ったところで、Achoooo ! さんから連絡が入りました。

実は、運良く鹿児島に帰省されていたので、お誘いしてたんですよ。 すでに2日前にお会いして白熊を食べた仲なので、初対面の緊張感も解けてリラックスムードです。 いろいろお話ししながら穴場へ向かうと、本当にここで観てもいいのかな?と躊躇してしまうくらい人が少ないんですよ。 一番奥の一番良く見える場所に行くと、いくつかの三脚が並んでいるだけでした。 海上では、忙しく走り回る警察の船や、手を振る観光客の船でごった返していました。

日が暮れてくるにつれて、次第に隣の三脚部隊の動きが活発になってきました。 どこか写真教室か何かの集まりのようで、あれこれと指示が飛んでいます。 一般客の皆さんはというと、バーベキューをしたりして、のんびりと花火大会が始まるのを待っています。 同じ花火大会でも、こうも楽しみ方に違いが出るものなんだなぁ、と思うと、ちょっと不思議な感じがしました。

さて、日も沈み、納涼観光船の明かりが桜島をバックに浮かび上がってきました。 なんだ、結構遠いところから観るんだな。こっちの方が近いぞ。 なんて話していると、最初の花火が打ち上げられました。 いよいよ、花火大会の始まりです。 あれ、花火の写真はないの?はい、ありません。 花火写真は、隣の三脚部隊の皆さんがしっかり撮ってくれてるでしょうからね。 おかげで、たっぷりと花火鑑賞を楽しむことができました。

花火大会の後は、Achoooo ! さんが晩ご飯をご馳走してくれました。どうもありがとうございました!

サマーナイト会場レポート(前編)

昨日は、第7回かごしま錦江湾サマーナイト大花火大会に行ってきましたよ。

ちょっと早めに現地入りすると、早速、色鮮やかなテントが見えてきました。 でも、良く見ると花火大会の出店ではなくて、町内会の夏祭りでした。 手作り感漂う様子を微笑ましく眺めていると、イベントの参加を呼びかけるアナウンスの声が聞こえてきました。 ステージの向こうは、何やらビニールテープで区画整理されています。 はて、何のイベントだろう? あ、これは花火客の場所取りだ。

そうなんです。この広場の先は、花火大会のメイン会場なんです。 道を渡ると、ずらりと並んだ仮設トイレがお出迎えです。 ん、女性用の方が男性用の2倍もあるぞ。これは男性差別だ! というわけじゃなくて、女性の方が用を足すのに時間がかかるので、それだけ回転率が悪いということなんでしょうね。 手前にあった歩行者用道路の標識は、何だか妙な体型をしていて、まるで宇宙人の親子のようです。

宇宙人親子用通路をてくてくと歩いて行くと、お馴染みのあの音楽が脳内で鳴り響きました。 ちゃっちゃっちゃらっら〜。そう、ここは湾岸署。 花火は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ! ん、でもちょっと違う。 ここは、湾岸署じゃなくて、湾岸交番。 青島刑事の姿はありませんでしたが、中ではお巡りさん達が花火大会の警備に向けて大忙しでした。 安心して花火が観られるのも、お巡りさん達のおかげですね。

メイン会場に入ると、芝生の緑はビニールシートの青に変わっていました。 見渡す限りのビニールシートの大海原。 その波に揉まれるように、遭難者、いや見張り役の人達の姿がありました。 そうした受難の民を勇気づけるかのように、威勢の良い音楽が大音響で流れています。 ところが、密かに目をつけていた場所は、危険防止のために立ち入り禁止になっていました。 おお、神よ。我を救いたまえ。

さらに、最も良く見える北埠頭内は、「主催・来賓・協賛社ならびに鹿児島市コンベンション協会が誘致した団体観光客の観覧場所です」ということで、バッジをつけた人しか中に入れないようになっていました。 なるほど、花火大会にもいろいろ大人の事情が絡んでくるんだなぁ。 ちょっと興醒めした気分になりましたが、自分には例の穴場があるもんね、と気を取り直します。 水族館も今日は早めに店じまいです。

そうこうしているうちに、ちょうど良い時間に、待ち合わせ場所である桜島桟橋に着いたのでした。

船がいっぱい

うわぁ、船がいっぱいだぁ。車もいるけどね。

写真の原点回帰

先日、自転車で桜島を一周してきました。

と書いてこの写真を見せれば、その時の雰囲気を伝えることができるし、桜島に行ったことの証明にもなります。 携帯写真なので、画質も荒いし、色もちょっと変ですが、ちゃんと桜島とわかる程度の画質は十分にあります。 今回は、サイクリングがメインなので、大きなR1を持っていく気にもなりませんし、撮影枚数もわずかで、どうしても撮りたい時だけの撮影です。 まさに、携帯カメラの面目躍如といった感じですね。

実は、撮ることの意味について、改めて考え直しているところなんですよ。 これまで、「見たまま写真」を標榜してきたわけですが、最近、その中に潜む「最初に写真ありき」という考え方が、どうも気に入らなくなってきたんです。 カメラを持って外に出る→面白そうな被写体を探す→カメラを構える→露出を決める→構図を決める→ピントを合わせる→シャッターを切る、という流れに、違和感を感じるようになったんです。

サイクリングは、自転車を走らせることを意味しますが、それが目的というわけではありません。 自分の力で前に進むこと、未知の世界を体験すること、より深い理解を得ること。 私の中では、この3つが、サイクリングの目的になっています。 そして、これはサイクリングに限らず、散歩でも、写真撮影でも、変わることはありません。 この3つが組み合わされることによって、私は大きな喜びを感じるのです。

ただ、サイクリングも散歩も、それ自体は自己完結した世界です。 どちらも、それを行った本人にしかわからない世界なんです。 それが、そこに写真や文章が加わることで、その閉じた世界が、外に開かれた世界へと変わるのです。 これは、とても素晴らしいことだと思います。 もちろん、その時の体験の全てが正確に伝わるわけではありませんが、少なくともその写真を撮った動機を伝えることくらいはできるはずです。

そう、動機。これが何よりも大切だと思うんですよ。 どれだけ適切な露出、完璧な構図で撮影して、究極のレタッチを施したとしても、それを撮影した動機がはっきりしていなければ、どうにもつまらない写真になってしまうんですよね。 「最初に写真ありき」になってしまうと、写真を撮ること自体が目的になって、動機が失われてしまいます。 そうなると、話はどんどん技術的なことに偏っていき、何の喜びも感じられなくなってしまいます。

久々のサイクリングは、私の原点を思い出させてくれました。

烏骨鶏の人柄スープ

昨日は、初めてのラーメン屋に行ってみました。

その店の名は、烏骨鶏ラーメンみのる。 名前だけは前から知っていたものの、場所を知らなかったので、ずっと気になってたんですよ。 でも、今はインターネットという便利なものがあります。 ちょいちょいと検索すると、早速鹿児島ラーメンの情報を発見。 700円か〜。ちょっと高めだなぁ。 住所を元にGoogle Mapで場所を調べます。 何だ、市役所のすぐ近くじゃないか。 こんなとこに、ラーメン屋なんてあったかなぁ。

で、行ってみると、確かにありました。 老舗の有名店のはずなんですが、どうにもしょぼくれた店構えです。 入口が開いていたので中をのぞくと、店内は暗く、静まり返っていました。 あれ、誰もいない? 横を見ると、お婆ちゃんが気持ち良さそうに寝ています。 こんにちは〜、と声をかけると、寝ぼけ眼のお婆ちゃんは「暇やから昼寝しとった。ラーメン食べてく?」 あはは。いただきます。

お婆ちゃんは、よたよたと立ち上がると、ゆっくりと支度にかかります。 電気を点けて、冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、漏斗を突き刺して水を入れていきます。 何を始めるんだろう?とドキドキしながら眺めていると、ペットボトルをコップと一緒に私の前にどんと置きました。 「これ、冷やし過ぎちゃった」 確かに、ペットボトルは横にしたまま凍りついています。 あまりの対応ぶりに、私もすっかり凍りついてしまいました。

でも、こういう店の雰囲気、私は大好きなんです。 繁盛している有名店は、店を改装したり、食券制にしたり、若いバイトをたくさん雇ったりして、どんどん店としての味わいをなくしていきます。 これほど個性的なラーメン屋は、いずろにある、のぼる屋くらいでしょうか。 木造の古い民家そのままの建物で、店内には割烹着を着たおばちゃん達が、不必要なほどの数でラーメンを作ってたっけ。 七幅のおっちゃんも、昼過ぎには良く昼寝してたなぁ。

そんなことを考えていると、お婆ちゃんがテレビのリモコンを持ってきてくれました。 「好きなテレビ見ていいからね」あ、これはどうも。 適当にチャンネルを変えてから、ニュース番組に決めます。 音が少し大きかったので、ちょっと小さくします。 しばらくすると、「テレビ好きに見ていいからね」と再びお婆ちゃん。 はい、ちゃんと見てますよ。 すると、「音が小さくないかね」といって、勝手に音量を上げていきます。 どうやら、お婆ちゃんには音量が小さ過ぎたようです。

大きな音で朝青龍の報道を聞きつつ、チャーシューを切るお婆ちゃんの手元をヒヤヒヤしながら眺めているうちに、何とかラーメンができあがりました。 あ、そういえば、お婆ちゃんに圧倒されっぱなしで、まだ何も注文してなかったような。まぁいいか。 九州ラーメンといえば、濃厚豚骨スープというイメージですが、ここは烏骨鶏のあっさり塩味スープです。 うわ、これはうまい! さすが、嘉門達夫が選んだだけのことはあるな。

お婆ちゃんが元気なうちに、またラーメンを食べにいこうと思います。ごちそうさま!

お外でご飯

たまには、こうして外で食べるのもいいよね。

腿肉とカナブン

同じ生き物同士、仲良くしようぜ!

雨上がりの空

流れ星は見れなかったけど、綺麗な飛行機雲を見たよ。

定期購読者数調査だよ

うちのブログって、何人ぐらいの人が楽しみにしてくれているんでしょうね。

このブログにはアクセス解析をつけているので、一応、訪問回数を調べることもできます。 訪問回数ごとにアクセス数とその割合が集計されているわけですが、このところ、訪問回数1回の割合が60%台まで下がっているんですよ。 つまり、30%以上のアクセスが、このブログのリピーターによるものなわけですね。 アクセス数が最盛期だった頃、このリピーター率は20%以下だったので、これは嬉しい傾向です。

最盛期の一日のアクセス数は、大体400くらい。 リピーター率を20%とすると、リピーターによるアクセス数は80になります。 現在の一日のアクセス数は、大体300くらいなので、リピーター率が30%なら、リピーターのアクセス数は90。 つまり、リピーターの割合だけでなく、リピーターのアクセス数自体も増えているわけです。 これは、ブロガーにとっては何とも嬉しい話じゃありませんか。

ただ、これはただのアクセス回数なので、同じ人が繰り返しアクセスすれば、それだけ数が増えることになります。 ということは、実際のリピーター数は、これより少なくなります。 MT Log Readerで解析すると、月にコメントしてくれる人の数は、大体20〜30人。 この人達が、毎日3回以上アクセスすれば、リピーターのアクセス数90を満たすことになりますが、そんなに熱心な人ばかりではありません。

つまり、一度もコメントをしたことのないリピーターが、少なからずいるということです。 そんな内気でシャイな読者の皆さんも、私にとっては大切なお客さんです。 コメントをくれる人、顔写真を見せてくれた人と同じくらい、気になる存在なのです。 もちろん、無理にコメントをお願いするようなことはしませんが、一体何人の人達が私のブログを楽しみにしてくれているのかは、とても気になります。

そこで、ブログの拍手機能を使って、定期購読者数調査をすることにしました。 いつも更新を楽しみにしていますよ、という方は、この記事の右下にある「拍手」ボタンをクリックしてください。 拍手数が増える以外は、何の情報も送信されないので、恥ずかしがり屋の人でも安心してクリックすることができます。 また、拍手した後に一言を送ることもできるので、よろしければこちらもお願いします。

私のブログを楽しみにしてくださっている皆さん、ぜひ定期購読者数調査のご協力をお願いします!

調査継続のため、記事を上げておきますね。 まだの人は、拍手ボタンをクリック!

お盆は皆で流星観察

今夜は、ペルセウス座流星群の日ですよ。

1週間ほど前に知ってから、ずっと楽しみにしてたんですが、今日は生憎の曇り空。 と書こうとしたら、皮肉にもざあざあと雨が降ってきました。コンチクショウ。 ペルセウス座流星群って何?という人は、国立天文台でお勉強してくださいね。 簡単に説明すると、ペルセウス座の辺りから、たくさんの流れ星が見えるわけです。 で、ペルセウス座ってどこ? それは、北の空、W型のカシオペア座のすぐ近くです。

流星群といえば、6年前に、しし座流星群を見たことがあります。 11月で寒かったんですが、彼女と一緒にたくさんの流れ星を見ましたよ。 願い事をするのも忘れて、どちらがたくさん流れ星を見つけられるか、競争したりしてました。 自分にも、こんな幸せな時期があったんだと思うと、ちょっと切なくなったりして…。 賑やかな花火大会も好きだけど、静かでちょっと子供っぽい流星鑑賞の方が、私好みかも。

そういうわけで、残念ながら鹿児島では見れそうにありませんが、こっちは晴れてるよ、という人は、ぜひペルセウス座流星群を見てみてくださいね。 ちょうどお盆の時期だけに、もしかしたら不思議な体験をするかもしれませんよ。 流れ星も、見ようによってはご先祖様が降りてくる姿に見えないこともありませんからね。 迎え火をしておくと、たくさんの流れ星が見えたりして。

ペルセウス座流星群を見たよ、という人は、拍手ボタンをクリック!

頭が混乱する時は

そういう時は、あまり深追いせずに、一度問題を整理してみるのが一番ですね。

写真を撮る時は、ズームイン、ズームアウトを繰り返しながら、最もバランスの良いところでシャッターを押します。 ズームレンズじゃなくて単焦点レンズを使っている人も、結局は焦点距離の違う別のレンズに変えたり、前後に移動したりしながら、同じようにして写真を撮ります。 この写真も、朝の散歩の途中で、あっと思った瞬間を、最もバランスが良いと感じた構図で撮っています。

撮れた写真を細かく見ていけば、左上の空の部分と、右下の植え込みの濃くなった部分が、ちょうど対称の関係になっていることがわかります。 また、右端に太い竹を配置することで敢えて圧迫感を出し、太陽をその側に寄せることで、太陽の光が反対側の左側へと射しているように見せて、写真に動きを出しています。 でも、本当に写したかったものは、たくさんの葉っぱが、太陽の光を浴びて輝いているところなんですよね。

ただ単に、逆行で輝く葉っぱを撮りたいだけなら、一際目立って輝いている部分を撮れば、一層効果的です。 でも、綺麗に晴れた朝の爽やかな空気が、とても気持ち良かったんです。 それに、朝特有のコッテリとした色合いや、たくさんの葉っぱの光加減によるまだら模様も、とても心地良く感じました。 だから、一部分だけをアップで撮るよりも、その時の全体の雰囲気を味わえるような写真が撮りたかったんです。

もちろん、特別に輝く葉っぱに心惹かれたのなら、それをアップで撮ればいいんです。 引いて撮るか、アップで撮るか。それを決めるのは、自分の心です。 写真の見栄えを良くするためのテクニックはいろいろありますが、どんなテクニックも、自分の感じた心には敵いません。 ただ、撮影テクニックに溺れてしまうと、心はすぐに閉じてしまいます。 そうなると、何をどう撮って良いのか、さっぱりわからなくなってしまいます。

これは、写真撮影に限らず、文章を書いたり、人と話したりする時も、同じことが言えると思います。 言葉の意味や差異にこだわれば、より厳密で正確な意味を持たせることができるかもしれません。 でも、もはやそこには、その言葉を使った人の心はありません。 相撲で言うなら、勝負に勝って相撲に負けた、という状態でしょうか。 いくら筋の通った文章を書いても、相手を言い負かすことができたとしても、そこに心がなければ、言葉を使う意味がありません。

頭が混乱する時は、心を見失っている時なんですよね。

鉛筆削りを買ったよ

何と、鉛筆削りを買ってしまいました。

これまで、鉛筆を愛用していることは何度か紹介してたんですが、ひとつだけ悩みがあったんですよ。 それは、鉛筆がうまく削れないということです。 100円の簡易鉛筆削りを持ってたんですが、刃の切れ味が悪くなって、全然削れなくなっちゃったんです。 仕方なく、カッターナイフで削ってたんですが、これがなかなか難しいんですよ。 ムキになって削っていると、どんどん鉛筆が短くなってしまいます。

まあ、適当に削っただけでも書けないわけじゃないしな。 そう思って我慢してたんですが、突然、鉛筆削りのことを思い出してしまったんですよ。 子供の頃に使っていた、手回し式の赤い鉛筆削り。 ペタペタとシールを貼った跡のある、懐かしい鉛筆削り。 学校の電動鉛筆削りにも憧れたけど、掃除機みたいな騒音が気に入らなかったっけ。 手回しのカッター部分を取り外して、合体ロボみたいにして遊んでたよなぁ。

それまで、わざわざ鉛筆削りを買おうとは思ってなかったんですが、もう猛烈に欲しくなっちゃいました。 でも、鉛筆削りって、幾らぐらいで売ってるんだろう?1,000円くらいで買えるかな?それとも5,000円くらいする? ドキドキしながら近所の文房具屋に行くと、一種類だけ、2,600円が2,100円で売ってました。 う〜ん、デザインは悪くないけど、ちょっと高いかなぁ。 そこはとりあえず保留にして、大きな文房具店にも行ってみることにしました。

すると、さすが大型店だけあって、いろんな種類の鉛筆削りが置いてありました。 一番安いのは、三菱のKH-18が1,900円でした。 小振りで可愛らしいし、イニシャルが同じだし、ちょっとは安いし、これにしようかな。 レジに持っていくと、さらに20%引きで1,500円になりました。ラッキー! でも、鉛筆を削るためだけに1,500円も払うなんて、贅沢な話だよなぁ。

ついでに、鉛筆の値段を調べてみると、大体1ダースが500円くらいでした。 中には、リサイクルの木を利用したエコロジーモデルもあったりして、時代の変化を感じました。 確かに、環境保護の観点からは、鉛筆は割り箸並みに資源の無駄遣いなのかもしれません。 シャーペンは1本100円、替芯は20本で200円。 シャーペンの方が、無駄もないし、とっても経済的ですね。 やっぱり、シャーペンにした方が良かったかなぁ。

でも、鉛筆とシャーペンとでは、書き心地が全然違うんですよ。 鉛筆の方が、ずっと柔らかくて、滑らかなんです。 木の触り心地も良いし、シンプルな形状もグッドです。 シャーペンは、どうも書き味が固くて、あのキュッキュとした感触が好きになれないんですよね。 また、ペン自体の形状もクリップなどゴテゴテしたものが多くて、どうしても握り方に神経質になってしまいます。

というわけで、これからは、ソフト作りに、試験勉強に、鉛筆と鉛筆削りをフル活用するぞ!

夏が終わっていく

お盆が近づいてくると、夏が終わっていくようで、ちょっと寂しくなります。

私にとっての夏は、7月の真っ青な空と、真っ白な雲と、突き刺すような強い日差し、そして、むせ返るような熱気なんですよね。 それが、8月に入ると、少しずつ黄色っぽくなっていって、日陰が涼しくなっていきます。 今年は、梅雨明けするのが遅かったので、やっと夏らしくなったと思ったら、あっという間に夏が終わり始めてしまいました。 本当に夏らしいのは、7月下旬の1週間くらいでしょうか。

実は、このことに気づいたのは、割と最近なんですよ。 子供の頃は、季節の移り変わりなんて全く興味がなくて、高校の通学中に、春の裸の田んぼを見ながら「減反政策の影響だ」なんて思っていたくらいです。 最初に季節の変化を実感したのは、大学生になってサイクリングをするようになってからでしょうか。 自転車に乗りながら、いろんな景色を目にするようになり、日差しの強さや気温の変化を、肌で直に感じるようになったからです。

写真を撮るようになってからは、さらに季節に敏感になったように思います。 それだけ、外の世界に興味が出てきて、観察力がついてきたんでしょうね。 サイクリングの時には、季節を感じながらも曖昧だったのが、カメラを向けて写真に撮ることによって、それを自分のものにしていくような感じですね。 子供の頃に季節に無頓着だったおかげで、大人になってから季節を楽しめるようになったのかもしれません。

今年の夏が、平年並みなのかどうかは知りませんが、私には少し暑さが物足りないような気がします。 暑いことは暑いんだけど、それほどでもないかなぁ。 特にここ最近は、窓を開けていればエアコンの必要もないくらいです。 寝ござを敷いて何も掛けずに寝ても、起きる頃には枕が汗でずぶ濡れになってたりしますが、不思議なことに、それほど暑さを感じないんですよ。 夏の暑さに慣れたのか、それとも歳を取って感覚が鈍ったのか。

後で後悔しないように、残りの夏を存分に楽しみたいと思います。