イタリア風・野菜炒めだよ

今日の晩ご飯は、イタリア風・野菜炒めを作りました。。

作り方は、フライパンにオリーブオイルと刻んだニンニクを入れて熱し、タマネギ、鶏肉、ニンジン、ピーマンの順番に炒めていきます。 最後に、砕いたコンソメとトマトケチャップをかければできあがり。簡単でしょ? 塩コショウと醤油味の野菜炒めに飽きたら、ぜひイタリア風・野菜炒めをお試しください。 ほぼいつも通りの作り方で、色鮮やかでひと味違った野菜炒めを味わえますよ。

愛情を取り戻せ!

自分を見失った理由に、思い当たることがあります。

2006年3月、5年間付き合っていた彼女と別れました。 そのうち、後半の2年間は遠距離恋愛だったわけですが、愛する人がいるということは、それだけで大きな心の支えになっていました。 当時の写真が綺麗に見えたのも、当時の自分に愛情が満たされていたからでしょうね。 「愛は求めるものではなく、与えるものだ」と言いますが、私は写真を通して愛を分け与えていたのかもしれません。

彼女と別れてからも、しばらくは失恋の悲しみと過去の思い出が、私を支えてくれていました。 一方、一年ほど前から、少しずつ遠距離恋愛が負担になってきていたこともあって、やっと自由になれたという開放感もありました。 ところが、やがて悲しみや思い出は消え、開放感も消えていきました。 残ったのは、後悔と虚しさと焦りばかり。 愛情が全く消えたわけではありませんが、対象を見失ってどんどん冷めていきました。

それでも、いつかまた、彼女と寄りを戻すんだという希望は持ち続けていました。 そのために、少しでも立派な人間になってやろうと、背伸びをしていたところもあったかと思います。 ただ、いくら自分がその気でも、相手がその気にならなければ、無意味な話です。 そして、今年に入ると、ついに彼女のことを過ぎ去った過去のこととして切り捨てることを決意しました。

それからは、社会的な繋がりを求めて、美術館や写真展を見て回るようになります。 その中で、学んだこと、得られたことはたくさんありましたが、まだ私が本当に望んでいる出会いはありません。 それは、愛すべき異性との出会いではなくて、自分の中の愛情を呼び覚ましてくれるような存在との出会いです。

それが何なのかは、まだ私にはわかりません。 でも、その新たな出会いに向けて、自分の中で着々と受け入れ準備が整ってきていることは確かです。 これは、私が再び愛情を分け与える気持ちになってきているということでもあります。 もしかしたら、私はすでにその存在に出会っているのかもしれません。 とにかく、これからは、自分の愛情の回復を目指して、頑張っていこうと思います。

「愛は求めるものではなく、与えるものだ」ということを忘れずに。

過去の自分に励まされる


MT Log Readerを使って、過去の記事を読み返してみました。

まず驚いたのは、ブログを始めたばかりの頃の写真が、猛烈に綺麗だということです。 どれも、今の自分にはとても撮れないような、新鮮な感情に溢れています。 この頃は、写真を撮るのがとにかく楽しくて仕方がなかったんだろうな。 それを裏付けるように、どの文章も自信に満ち溢れていました。 当時のコメントには、私の写真や文章に元気づけられたというのも多くて、今の私も昔の私に大いに励まされました。

ところが、ブログ開設から一年後に、ブログランキングで一位になったころから、少しずつブログの更新にプレッシャーを感じるようになってきます。 自分が読者に与える影響力を、自分の役割として自覚するようになり、その役割に反発したり、忠実に演じたりするようになりました。 文章も次第に「こうあるべきだ」という硬直したものになり、スピリチュアルや芸術に対して攻撃的な姿勢を見せることもありました。

今年に入ってからは、文章だけでなく、写真までも硬直したものになりました。 私自身、行き詰まりを感じていて、何とかそれを打開しようと、写真集宣言をしてテーマを作ろうとしたり、芸術を勉強して美術館通いを始めたりしました。 理論武装をするために、写真話の更新もぐっと増えました。 そんな中、アメフラシに猛烈な興味を示したのも、そこに新しい可能性を感じたからに他なりません。

ところが、アメフラシのような魅力的な被写体は、そうたくさんあるものではありません。 アメフラシが姿を消してからは、撮るべき被写体が見つからずに、悶々とする日々が続きました。 そんな中、初めての写真教室で「何を撮りたいのかがわからない」と言われたことで、本格的なスランプに陥ってしまいました。 口惜しさのあまり、イメージ写真宣言をしてみたものの、撮っていても全然楽しくないんですよ。

そのせいか、ここ最近は弱音を吐くことが多かったように思います。 昔はあんなに楽しく、自信を持って写真を撮ったり、文章を書いたりしていたのに、どうしてこんな風になってしまったんだろう。 あがけばあがくほど、どんどん深みにはまっていって、抜け出せなくなっていくのが良くわかりました。 わかってはいたけど、他にどうすることもできずに、ずるずると時間を引き延ばしていたんです。

でも、MT Log Readerのおかげで、いかに自分を見失っていたかが良くわかりました。 大きな回り道をしてしまったけど、やっと帰るべき場所を見つけたような気がします。 私は、もともと意味を見つける哲学的な人間だったのに、どういうわけか美を求める芸術家を目指してしまってたんですよ。 芸術嫌いを克服するために芸術を喰うつもりが、逆に喰われてしまっていたわけです。

自分を思い出させてくれて、過去の自分に心から感謝しています。どうもありがとう!

美化と自己批判

私は、物事を美化するのが大嫌いです。

何かを美しいと感じたり、美しいと感じたものを褒め讃えることは、素直な感動であって、美化ではありません。 でも、これは美しいものだとか、美しさはこうあるべきだとか言い出すと、それは素直じゃなくなって、物事を美化していることになります。 私だって美しいものは好きですが、美しいものの周りには、それを美化しようとする連中が集まってくるので、どうも反発してしまうんですよね。

そもそも、何のために美化が行われるのかというと、自分が美しいと感じたことを正当化するためなんですよね。 自分の感情は動かしようのない事実だけど、もしそれを誰かに笑われたりしたら、自分の存在意義が問われてしまいます。 そこで、あれこれと難しい理由をつけて、自分の感情を弁護しようとするわけですね。 まあ、それが自信につながることもあるわけで、このこと自体は悪いことではありません。

問題は、それから後にあります。 どれだけ理屈をこねたところで、体験のないところには感動は生まれません。 でも、たとえ自分が何も感じなかったとしても、その理屈さえ手に入れれば、自分が美しさを感じているように振る舞うことができてしまうのです。 もし本当に美しさを感じているのであれば、それをいくらでも自分の言葉で表現することができます。 でも、自分で感じることのできない人は、その理屈に固執することになります。

私は、そういう人達を見ると、とても見苦しいと思います。 何て偏屈で、醜くて、哀れな連中なんだろう。 他人の価値観の中でしか生きられないなんて、生きていても虚しいだけだろうに。 そして、ふと自分はどうだろうかと思って、はっとします。 もしかしたら、自分も彼らと同じように、自分で気づかないうちに、何かを美化したりしていないだろうか。 自分自身を美化してはいないだろうかと。

結局、他人に腹を立てた時というのは、そこに自分自身を見た時なんですよね。

スイートコーン・ピラフだよ

久々の料理は、トウモロコシたっぷりのピラフですよ。

実は、このところ、深夜の半額弁当や、餌みたいなゲテモノ料理ばかり食べてたんですよ。 どうせ独り身だし、やっぱり面倒臭いもんね〜。 でも、caiseiさんの夕食事情(改)を見てから、自分も頑張らないとな、と考えを改めたのでした。 ただ、なるべく手間をかけたくないし、ブログのネタにするなら見栄えの良い方がいいしな、とあれこれ考えた結果、今日の晩ご飯はピラフにすることに決定しました。

でも、ピラフって、焼飯とどう違うんだろう? 私の中では、中華風焼飯がチャーハン、洋風焼飯がピラフ、というイメージだったんです。 味付けでいうと、焼飯は醤油、チャーハンは鶏ガラスープ、ピラフはコンソメスープみたいな感じ。 で、調べてみると、ピラフは焼飯じゃなくて炊き込みご飯だったんですね。 言われてみれば、確かにピラフはパラパラのチャーハンよりもしっとりとした印象があります。

今回のピラフの材料は、トウモロコシ2本、タマネギ1個、ニンジン1本、ピーマン4個、エリンギ2本、鶏モモ肉100g、米3合、バター10g、固形コンソメ1個、塩コショウ少々です。 今回は、共働きで忙しい主婦の方々を想定して、フードプロセッサー代わりにミキサーで材料を細切れにしてみたんですが、包丁で切った方が速いかも? ミキサーの掃除も面倒臭そうだし。 ちゃんとしたフードプロセッサーはどうなんでしょう?

さて、材料を全部細切れにしたら、ささっと軽く炒めておくと、仕上がりが香ばしくなるそうです。 あ、トウモロコシだけは、別に茹でてから包丁で実を取っておきましょう。 お米の水加減は普段通りで、炒めた材料とバター、コンソメ、塩コショウを加えたら、後は炊飯するだけです。 炊きあがるまでの間に、余った材料でコンソメスープを作っておくといいかもしれませんね。

できあがったピラフは、トウモロコシの甘さがたっぷりで、とっても美味しかったですよ!

甘い匂い

茹で上がったばかりのトウモロコシは、とっても甘い匂いがするのです。

誓い

ここから、二人の新しい人生が始まる。

MT Log Reader 0.1.0 公開


MT Log Reader 0.1.0 / Mac OS X 10.1 (UB)

突然ですが、新作ソフト「MT Log Reader」の紹介です。

一体、何のソフトかといいますと、ブログのバックアップファイルを利用して、過去の記事を自由気ままに読むためのソフトです。 ブログって、音楽でいうならライブみたいなもので、その時々の出来事や考えたことなんかを、その場のノリで書き綴っていくのが面白いんですよね。 でも、記事の数が増えてくると、次第に書くこともマンネリ化してきて、更新するのが辛くなってきます。

そんな時は、過去の記事を読み返して、これまでの積み重ねも無駄じゃなかったんだと思う時間が欲しいものです。 でも、ブログは最新記事が上にくるようになっているので、読み返すには不便なんですよね。 それに、自分で自分のブログを読み返してしまうと、アクセスカウンターやアクセス解析に無駄なアクセスが記録されてしまうので、何だか落ち着いて読めなかったりもします。

というわけで、自分のブログを安心して好きなだけ読み返すことができたらいいなぁと、ずっと思ってたんですよ。 そこで思いついたのが、バックアップファイルの活用です。 ほとんどのブログサービスでは、Movable Typeという形式を採用していて、我がFC2も、このMT形式の拡張版を使っています。 とりあえず、FC2のバックアップファイルを表示できるようにしようということでできあがったのが、このMT Log Readerなんです。

うちのブログも、早いもので記事数が900を超え、そろそろ内容を整理した方がいいんじゃないかと思っています。 もちろん、ブログはこれからも続けていきますが、ブログとは別に、ブログの内容を整理した形で別サイトを立ち上げようかなぁと考えているんです。 そのためには、ブログの過去記事を自由に読み返せる環境が必要なわけで、そのためにMT Log Readerが生まれたわけですね。

そういうわけで、現時点では、ただ記事の表示しかできませんが、これからはそのための様々な機能を追加していく予定です。 構想自体は前からあったんですが、制作を決意したのが3日前で、実際に取りかかったのが昨日、そして今日でここまでできたんですから、大したものですね。 残念ながら、Windows版は、文字コードの変換がうまく行えないようなので、もうしばらくお待ちくださいませ。

意見、要望などは、お気軽にお知らせくださいね。

貴婦人ミーちゃん

はっとするほどに、美しいと感じる時があるのです。オスだけど。

沸き上がる底力

うおぉ、モリモリとやる気が湧いてきたぞ〜!がぉ〜!

大切なもの

どれも大切なものばかりだけど、今一番好きなのは、これだ。

ミーちゃんの温もり

ふわふわして、温かくて、気持ち良いんだニャ〜。

あるもの探し

ないものねだりよりも、あるもの探しをしよう。

降り始めの雨の匂い

ちょっと埃っぽくて、水っぽくて、懐かしい匂い。

曖昧な世界

まあ、たまにはそんな時もあるさ。

被写体を見る目

昨日は、市立図書館に行って、撮影技術に関する本を読んでみました。

写真展めぐりや写真教室で、撮影技術偏重の風潮に猛反発しつつも、それの持つ力の大きさを目の当たりにして、ちょいと真面目に勉強してみようかと思い立ったのでした。 とりあえず、それっぽいのを3冊選んで読み始めたわけですが、2冊の半ばで我慢できずに断念してしまいました。 確かに、作例の写真達は、どれも鋭く、綺麗なものばかりです。 でも、どうも共感できないんですよね。

一冊目は、テーマを絞り込んで、それを深く掘り下げていくことで、その被写体の最高の状態を写真に収めようという趣旨のものでした。 その趣旨自体は理解できるし、その後に続く膨大なノウハウに尊敬の念すら感じるんですが、「電線やガードレールは絶対に入れるな」など、ちょっと世界を美化し過ぎているんじゃないかな、と思うところもありました。 だって、私達の住んでいるところは、電線とガードレールだらけですからね。

まあ、その写真家は「美しい日本の原風景を伝えたい」という信念を持った人なので、それに特化したノウハウを持っていると考えれば、納得がいくものです。 ところが、2冊目の本では、構図を完全に図形的に捉えていて、その図形のパターンを延々と解説していくものでした。 これも、構図を解説するための本だと考えれば当然の話なんですが、どうも腑に落ちないんですよね。 そんな撮り方したって楽しくないだろうに…。

自分の興味のある物を思いのままに撮ることができれば、それは楽しいでしょう。 でも、何に興味を持つかは人それぞれで、他人が口出しすべきことではないのかもしれません。 そうなると、何を撮るかについては語ることができなくなってしまうので、被写体を限定するか、図形的に捉えるしかありません。 形から入るのを好む人の場合は、こういう指導をした方が、理解しやすいのかもしれません。

興味のあるものを撮り続けていれば、やがて被写体が撮り方を教えてくれます。 私は、そういう被写体の囁きに耳を傾けるのが、写真撮影の楽しみのひとつだと思っています。 ただ、その声はとても小さいので、集中しないと聞き逃してしまいます。 声が聞こえないまま撮ることもありますが、そういう時は撮っていても楽しくないし、やっぱりつまらない写真になってしまいます。

アプローチの仕方はいろいろあるかと思いますが、自分の見る目をしっかりと養っていきたいですね。

夢の中のイメージ

夜中に、不思議な夢を見ました。

あまりに強烈な印象の夢だったので、途中で目が覚めてしまい、さらに夢うつつの状態で、その続きを眺めていたのでした。 大学時代を過ごした学生寮。 そこにかつての仲間達が集まって、再会を喜び合いながら、当時の懐かしい思い出を語り合ったり、時代と共に変化した光景を複雑な心境で見たりしています。 私は、たくさんの仲間と、懐かしい場所に囲まれて、とても深い愛情を感じていました。

ただ、不思議なのは、家族のように仲の良かった同じ棟の仲間達ではなく、それほど仲の良くなかった委員会活動のメンバーだったことと、その学生寮の光景が、現実とは大きく異なっていたことです。 登場する人物や場所、そして雑多なモノ達は、一目ですぐにそれとわかるのに、なぜかわざわざ別の形に置き換えられていました。 これはまるでフロイトの夢判断の世界そのものじゃないかと、夢を見ながら可笑しくなってしまいました。

でも、夢うつつの中では、そうした夢の検閲による歪曲が、実に自然な結びつきのように思えました。 なぜなら、それらの姿形は現実と大きく変わっていましたが、その印象は現実以上に現実的だったからです。 その夢の世界を注意深く観察していくと、その世界が、当時の様々な思い出の寄せ集めによって作られていることがわかります。 つまり、この夢は、当時の印象と思い出によって、創作されたものだったのです。

現実には存在しない世界なのに、それが現実以上の現実になるなんて、とても不思議な気がします。 芸術家は、夢をヒントにして創作活動をしたりすることがありますが、その理由がわかったように思います。 記憶は、その時の印象によって、重み付けと関連付けがなされた状態で保存されます。 そうして、記憶が分類されて、整理されていくわけです。 そして、そういう記憶の集合体が、イメージとして働くわけですね。

何らかのイメージを浮かび上がらせるためには、記憶を検索するためのキーワードが必要です。 今回の夢のキーワードになったのは、学生寮の同期の友人からの電話と、先日私の書いた愛情に関する記事です。 友人からの電話によって、学生寮に住んでいた頃が思い出され、愛情の記事によって、委員会のメンバーで私に好意を寄せてくれていた女の子のことが思い出されたわけです。 夢の中の光景は、当時熱中していたサイクリングで見たものばかりでした。

この体験は、イメージ写真の撮影に、とても役立ちそうです。

いつの間にか紫陽花

もうすぐ、しっとりしとしと、梅雨の季節です。

愛の行方

愛情に満ちあふれた人を見ると、とても羨ましく思う。

もちろん、自分にだって人並みに愛情はあるけど、その愛情袋は、どこかに穴が空いている。 家族や友達、ブログで知り合った皆さん、シェアウェア登録してくださった人達。 そうしたたくさんの人達から、いろんなことをしてもらってきて、泣きたくなるほど感謝して、何とかそれに応えたい思うのに、どんどんその気持ちが薄れていって、いつの間にか、突き放したような気分になってしまう。

その原因は、だいたいわかってる。 自己評価の低さと、他人を信用しないのが、その原因だ。 そして、その原因も、だいたいわかってる。 でも、それを引きずっていても仕方がないし、人のせいにしても意味がない。 大切なのは、今であり、今のために、未来を見ることだ。 愛情の豊かな人達を見ていると、自然とそういう生き方をしていることに驚き、羨ましく思う。 自分は、忘れたつもりで、いつまでも過去に振り回されている。

過去はもう変えられないし、今もすぐには変わらないけど、少しでも、あなたに追いつけたらいいな。 今は、ほんのわずかな花しか咲かせられないけど、たくさんの花を咲かせたあなたと、いつか対等に向かい合えたらいいな。 そして、一緒になって、もっとたくさんの花を咲かせられたら、きっと賑やかで、楽しくなるだろうな。 それがいつになるのかはわからないし、本当に実現できるのかどうかもわからないけど、努力してみるよ。

まだ見ぬ、あなたへ。私からの、愛の告白です。

爽やかな気持ち

暑い日は、木陰でちょっと、ひと休み。

波平さんの故郷

今日は、谷山の笹貫に行ってきました。

ここに、刀匠の記念碑があるのは前から知っていたんですが、もしかしたら、あの波平のことじゃないのかな、というわけです。 で、行ってみると、やっぱり波平でした。 「大和の国の刀匠、橋口正国が、平安時代末期武の国薩摩に下り谷山に住みついたのが波之平刀匠の始まり」だそうです。 実際に黎明館で波平の刀を見ているので、これまで何度も来ているのに、妙に感慨深いのが不思議です。

この正国さん、妻子を迎えるために船で大和に帰る途中で、暴風雨に巻き込まれてしまったんです。 これは荒ぶる海神様の怒りを鎮めなければ、と思ったのか、自分の打った刀を海に投げ込んだところ、荒れ狂った海が嘘のように静まったそうです。 それ以来、波平行安という名前に改めたんだとか。 波平の刀剣は、初代行安から64代、明治初期まで900年も続いたそうで、ここまで続いた刀匠は全国でも類を見ないそうです。

刀作りには、材料となる砂鉄、火をおこす木炭、焼き刃渡しの水が必要となりますが、この地区はそれらに恵まれていたことが、長く続いた要因だといわれています。 この記念碑の横にも、こんこんと水が湧き出ていて、私が写真を撮っている時にも、スクーターに乗ったお爺さんが、大きなポリタンクに水を汲んでいました。 私も、この湧き水で手を洗ってみましたが、冷たくてとても気持ち良かったですよ。

その横には水神様の石碑とお供え物があり、今も大切にされていることが良くわかります。 この辺りは、すっかり住宅街になっていて、水道設備もあれば日本刀も必要としていないでしょう。 それでも、同じ土地の人間として、その歴史に敬意を表しているのでしょうね。 そこには、歴史の重みと、時代の流れを感じます。 でも、自分には、一体どれだけの重みと流れがあるのだろうかと思うと、ちょっと悲しくなりました。

少しずつ、少しずつ、自分の流れを豊かにしていけたらいいなぁ。

大好きな気持ち

心の底から、「大好きだ〜!」と、叫んでみたい。

PhotoMaster 2 レビュー掲載

ベクターの新着ソフトレビューで、PhotoMaster 2のレビュー記事が掲載されました。

ベクターで紹介されるのは、PhotoMaster 1.xxの新着ソフトレビューと、2004年ベストオンラインソフト、iKeyboard 1.0の新着ソフトレビューに次いで4回目となります。 こうしてレビュー記事を書いてもらえるというのは、本当に嬉しいものです。 このベクターのレビュー記事の威力は絶大で、これからたくさんシェアウェア登録してもらえるんじゃないかと期待しています。

そういうわけで、PhotoMaster 2を、よろしくお願いします!

秘密の花園

ひっそりと、賑やかで、美しく。

光と陰と影のイメージ

というわけで、近所をふらりと撮りに行ってきました。

光と陰と影というと、視覚的にはコントラスト検出機構を刺激しているだけなんですよね。 人の目というのは、デジカメのセンサーのように、ただ単に網膜の情報を機械的に処理しているだけじゃなくて、より複雑な画像処理を通して被写体を認識しています。 その過程で、コントラストの高い方がより印象的になり、グラデーションの豊かな方がより情緒的になります。 構図に太陽を入れたり、夕焼けや水面を撮った写真が多いのは、このためですね。

ただ、こうしたテクニックというのは、目の錯覚のような条件反射に近いものなんですよね。 そういう人間の視覚システムに忠実に撮るというのは、ある意味では写真の基本なわけですが、それだけだと、ただ綺麗なだけの写真で終わってしまいます。 無限に広がる視野の中で、唯一のその被写体を選んだということは、そこに視覚としての認識以上のものがあったからに他なりません。

芸術のひとつにミニマリズムというのがあります。 無駄なものを極限まで切り詰めていく手法で、わずかな線や図形だけで表現されています。 これはこれで見事な芸術なわけですが、だからといって、あらゆる芸術がミニマリズムに集約されるかというと、そんなことはありません。 現実の世界は、具体的な要素が複雑に絡み合っています。 私達がこの世界に住んでいる限り、この複雑さは私達にとっても必要なものなのです。

さて、私の場合、光と陰と影があれば何でも良いというわけじゃなくて、植物が圧倒的に多いんですよ。 そして、どこかにコンクリートや石段などの人工物が入ってることが多いんです。 これは、町中で写真を撮ってるので当然といえば当然なんですが、これが人里離れた山奥とかになると、あまり魅力を感じなくなるんですよね。 やっぱり、どこか人間の手が加わっていないと、安心できないんです。

同様に、鹿児島中央駅の駅前広場のように、完全に人工的な場所も、どことなく不安を感じて、あまり撮る気になれないんですよね。 たくさんの人が生活している中で、同じように他の生き物達も生活しています。 それも、ただ生きてるだけじゃなくて、光り輝いていたり、陰を含んでいたり、影を落としたりしながら、活き活きと生きているんですよね。 もしかしたら、そういう姿に、自分自身を重ねているのかもしれません。

あなたは、これらの写真から、どのようなイメージを感じましたか?

イメージのイメージ

イメージといっても、いろんなイメージがあるんですね。

私が最初に取り組んだイメージ写真は、連想によるイメージでした。 これは、それまで私が無意識的に行ってきたことなので、さほど抵抗はありませんでした。 でも、生きる喜びだとか、生命の神秘だとか、そういうイメージの大前提を作ってしまうと、途端に何も撮れなくなってしまうんですよ。 絵画の場合は、気の向くままに筆を走らせれば良いわけですが、写真の場合は、それに適した被写体探しからしないといけないんですよね。

つまり、イメージ前提写真を撮るのであれば、事前にそれを表現するための被写体を絞り込んでおく必要があるんです。 イメージ連想写真の場合は、事実上、どんな被写体でも、行き当たりばったりで撮ることができます。 そして、それが不意打ちであればあるほど、より新鮮で純粋なイメージが膨らんでいくんです。 イメージ前提写真がフルオーケストラなら、イメージ連想写真は即興のジャズ演奏みたいなものですね。

イメージ前提写真は、広告写真などの商業写真、宗教美術などの芸術写真が当てはまります。 イメージ連想写真は、戦争や災害などの報道写真、街撮りや草花などのスナップ写真が当てはまります。 で、写真コンテストや写真教室なんかでは、イメージ前提写真を重視しているようです。 でも、私を含めて多くの人達が、イメージ連想写真を撮っているように思います。 これは一体、どちらのイメージ写真が正しいのでしょうか?

最初は、被写体それ自体が写っていれば満足します。いわゆる記録写真ですね。 でも、それだけじゃ味気ないので、被写体から受けた印象を写真に写し込みたいと思うようになります。 つまり、イメージ連想写真ですね。 やがて、写真を撮り続けていくうちに、共通するイメージが浮かび上がってきます。 そして、そのイメージを追い求めていくようになります。 これが、イメージ前提写真ですね。

そう考えると、今の私はちょうど、イメージ連想写真からイメージ前提写真への移行期に当たるようです。 ただ、まだまだ前提となるイメージが十分にできあがっていないので、何を撮れば良いのかわからずに苦戦しているのでしょう。 光と陰、そして影という、私好みのテーマはあるわけですが、そこから確固たるイメージを引き出すことができずにいます。 そこに確かに何かを感じているのに、それが何かがまだわからないんですよ。

とりあえず、自分の得意分野から、イメージを膨らませていこうと思います。

愛と勇気と友達と

みんな、仲良く。ふたりで、仲良く。

抱きしめたい気持ち

小さな気持ちがたくさん集まると、抱きしめたくなるんです。

PhotoMaster 2.0.1J

PhotoMaster 2.0.1Jを公開しました。

PhotoMaster 2.0.1J for Macintosh Mac OS X 10.1以降(ユニバーサルバイナリ)
PhotoMaster 2.0.1J for Windows Windows 98/ME/2000/XP

変更点は以下の通りです。

  • 評価版1を試用していた場合、試用期間が0日になる問題を修正
  • 鑑賞時に、マウスホイールが機能しなくなる問題を修正(Windows)

正式版を試用できなかった方は、こちらをダウンロードして試用してください。

透き通った白いビニール

世の中には、透き通るような白い肌の人がいます。

私の知り合いでも、そんな肌の人が何人かいるんですが、多くの人達が憧れるだけあって、確かに綺麗だなぁと思います。 私のバイト先の受付をしている女性も、その肌の持ち主なんですが、明らかに他の人達とは存在感が違います。 女性の肌を凝視するのも失礼だなぁと思いつつ、ついつい肌の美しさに見とれてしまいます。 ただ、あまりに白く透き通っているので、どことなく不健康そうな不安も感じるのでした。

そんな美しい肌を撮ってみたいなぁ、というわけで、とりあえず透き通るような白いモノを撮ってみることにしました。 部屋の中を見回すと、ちょうど冷凍保存用のビニール袋がありました。 これを何枚も重ねていくと、肌のような奥行きのある透明感が出てきます。 いろんなパターン重ねながら撮ってみたんですが、残念ながら、透き通るような白い肌とはほど遠い写真になってしまいました。

やはり、ちゃんと血が通っていないと、どうしても冷たく無機質な感じがしますね。 透き通るような白い肌も、血の気が少なくて不健康そうな印象がありましたが、血の気があるかないかでは大違いです。 ただ、人肌との比較では全く勝ち目のないビニール袋ですが、そういう前提をなくしてしまえば、これはこれでなかなか綺麗な世界です。 どことなく、混沌とした夢のイメージですね。

私は、透き通るような白い肌も好きですが、透き通った白いビニール袋も好きだなぁ。

布団カバーとシャツ

新しい布団カバーと、ついでに買ったシャツ。そして部屋の大掃除。

イメージ写真の第一歩

アパート共同設備紹介の最後は、シャワー室ですよ。

うちのアパートのシャワー室は、脱衣場が一畳、シャワー室が一畳という大きさです。 シャワー室という名の通り、シャワーのみで浴槽はありません。 私は、気分転換にシャワーを浴びるのが好きなんですが、その度に不思議に思うことがあります。 シャワーの留め金は、どうして上下で左右の位置が違うんだろう。 上の留め金は右側に、下の留め金は左側にあるんですよ。 そして、シャワーを上の金具に留めると、ついついホースを下の金具に引っ掛けちゃうんですよね。

すると、シャワーのホースが綺麗なS字曲線になるんですよ。 で、その曲線が妙に色っぽいな〜、と思うわけです。 もちろん、ホースはゴム製なので、触るとぷるんぷるんと弾力があります。 ああ、これは女性の裸体みたいだ。 さすがに、これを見て欲情するところまではいきませんが、この魅惑的な曲線が女体をイメージさせることは間違いありません。 ん、イメージ?そうだ、女体のイメージでシャワーを撮ってみよう!

というわけで、夜更けにシャワーを浴びた後で、シャワーを激写することにしました。 ところが、これが難しいんですよ。 確かに、S字曲線は綺麗なんですが、女体というにはくびれ方がちょっと違うんです。 とりあえず30枚ほど撮ってから、パソコンで写りを確認します。 ん〜、やっぱりイメージとは違うな〜。 写真を眺めていると、ホースの曲線よりも、シャワーの取っ手や、タイルの水滴の方が面白いことに気づきました。 よし、次はこれでいってみよう!

そうして撮れた写真は、なぜか女体から男性の象徴へと変わっていました。 撮ってる時には、そんなイメージはなかったんですけど…。 でも、撮ってる最中に、知らないうちに興に乗ってきて、シャワーでタイルに水滴をつけたり、わざと少しだけ水を垂らしてみたり。 これがまた、思わせぶりで何とも良い感じなんですよ。 これはもう、完全に演出の世界なんですが、相手を操作するためじゃなくて、状況の再現に近いので、これくらいならいいかな?

最初のイメージ写真としては、なかなか収穫の多い撮影でした。

欲求不満

あ、オレ今、発情期だ。

祝!PhotoMaster 2 公開!

お待たせしました。ついにPhotoMaster 2正式版の公開です!

私のソフトはベクターに登録するようにしているんですが、登録申請してから実際に公開されるまでに、これまで1〜2週間ほどかかっていました。 私は8〜16日まで用事で留守にしなければならなかったんですが、5月8日に登録申請をすれば、用事が終わる頃に公開されるはずです。 もし、早めに公開されても、こちらから案内を出さなければ、ベクターでの公開を知られることもあるまいと高をくくっていました。

ところが、なぜか今回は公開手続きが妙に速くて、Mac版が11日、Windows版が15日に公開されました。 しかも、14日には新しもの好きのダウンロードさんとデジイチ最新情報さんのところで紹介されてしまったのです。 まだPhotoMaster 2のWebページをアップしていなかったので焦ってしまいましたが、PhotoMaster 2を注目してくれている人がいるんだと思うと、とても嬉しくなりました。

PhotoMaster 2のWebページもアップして、正式版の案内も出したので、やっと一安心です。 これまでのWebページは、真面目に作り過ぎて堅苦しいところがあったので、ブログ調の親しみやすい文章にしてみました。 また、地味過ぎない程度にシンプルにして、読みやすさと作りやすさを心掛けています。 あんまりくどくど説明しても、労力がかかる割には読みにくいんですよね。

新規のシェアウェア料金は3,000円にするつもりだったんですが、予定していたアルバム機能を搭載できなかったということで、2,500円に値下げしました。ベクターのシェアレジを利用する場合は、別途手数料がかかるため、本体価格が2,800円、請求金額が3,045円となります。 旧バージョンからのアップグレード料金は、1,000円(ベクターでは1,100円/1,260円)となります。

今後の予定としては、内部構造&操作性の最適化、バックグラウンド処理、メーカー固有の撮影情報の取得という三本柱で、バージョンアップを行っていきたいと考えています。 例のアルバム機能は、写真の作品化という観点から、より実用的で扱いやすいものにして、PhotoMaster 3で実現させることになりそうです。 これが実現できれば、値段を3,000円にしても文句は出ないかと思います。

Mac & Windows両対応(ライセンスは別)なので、皆さんじゃんじゃんシェアウェア登録してくださいね!

本の虫

本は、理解そのものを与えてくれるわけではありません。

この一週間で、宗教、感情、芸術の本を読みました。おかげで、いくつかの知識が得られて理解も深まりました。でも、本を読むことで自分が何か変わったかというと、意外なほどに何も変わっていないんです。読んでいる最中は、自分が間違っていなかったことの安心感と、このままで良いのだろうかという不安が、交互に浮かんでは消えていきました。でも、読み終わってみると、何も残っていないんです。

いや、確かに本から得られた知識は残りました。でも、それは蜘蛛の巣にひっかかった蝶のようなもので、あっという間に食べられて消えてしまうでしょう。捕らえた蝶はやがて消化され、わずかなエネルギーと蜘蛛の糸に変わります。でも、それが蜘蛛の巣全体に与える影響は微々たるものです。それでも、こうしたわずかな変化が、蜘蛛の巣を支えているのでしょう。

蜘蛛の巣には、蝶以外にも、様々な虫達がひっかかります。蜘蛛は特別な虫を食べたからといって、蛇に変わることはありません。ただ、蜘蛛として生き長らえて、蜘蛛の巣を強化、維持するだけです。蜘蛛の巣が広がれば、それだけ捕らえられる虫の数は増えるでしょう。でも、蜘蛛の生活は変わらないし、食べることのできる量にも限りがあります。

知識も、結局は自分自身を知るきっかけにはなっても、自分自身を変えることはできないんですよね。ただ、本を読まなくても自分として生きていけるけど、本を読むことでより自分らしく生きれるようになったりします。でも、自分がどうなるかは、結局は自分次第なんですよね。そのためには、自分を知ること、皆の中の自分を知ることです。

自分を見失っている時には、本を読めばいい。でも、本を読み過ぎると、再び自分を見失うことになる。そんな時は、誰かと話したり、一人になってみればいい。外の世界に目を向ければ、新鮮な体験が待っている。内の世界に目を向ければ、深い理解が待っている。そうやっていろんなことをまんべんなくやっていれば、何も心配することはない。

本なんて、そんなもんなんだよな。

イメージって何だろう

イメージっするって、一体どういうことなんでしょう。

これからは、被写体そのものだけじゃなくて、被写体から得られるイメージも撮っていきたい。そう宣言はしてみたものの、イメージを得ることがどういうことかがわからないことには、どうしようもありません。イメージは、漢字にすれば想像力です。ということは、イメージを撮るということは、被写体から想像力を膨らませて別の存在を作り上げ、被写体がそう見えるように撮るということなのでしょうか。

たとえば、太陽に向かって真っ直ぐに伸びる大きな向日葵の花は、元気いっぱいの子供を連想させます。また、控え目な色彩で線の細い野草の花々は、可憐で繊細な女性のイメージです。高々と噴煙を上げる雄大な桜島は厳格な父親で、桜島を包み込む穏やかな錦江湾は優しい母親のようです。確かに、こうしたイメージを再現するように撮れば、写真はずっと面白いものになりそうです。

ただ、こうしたイメージはわかりやすいだけに、使い古されたものが多く、被写体とイメージのありきたりな組み合わせにうんざりすることも確かです。こういう写真は、他人の作り上げたイメージを右から左へとステレオタイプ的に横流ししているだけともいえるので、主体性のなさに不快感を受けることもあります。やはり、そこにはオリジナルの視点が欲しいものです。

もちろん、それがいくらありふれたイメージであっても、それが自分の感じた素直なイメージであったなら、それはそれで結構なことです。第一印象に忠実に撮ることは、スナップ写真ではとても大切なことですからね。ただ、被写体には一枚撮れば満足してしまうものもあれば、何枚でも撮りたくなって、末永くお付き合いしたいと思わせるものもあります。

その良い例が、私のアメフラシとの出会いですね。一枚だけではとても足りずに、1,600枚以上撮ってもまだ足りません。見れば見るほど、撮れば撮るほど、どんどん新しいイメージが沸いてくる上に、なかなかイメージ通りに撮ることができませんでした。こういう被写体に出会えることは稀ですが、こういう被写体は是非とも大切にしたいですね。

実は、このところずっと、自分自身の自然な目線で撮るということにこだわり過ぎて、興味を持った被写体を深追いするのをためらっていたところがあるんですよ。本当は興味津津なのに、何だかんだと理由をつけて、せっかくの興味を台無しにしてしまっていたように思います。私は未知のことに対しては臆病なところがあるので、これはもったいないですよね。

誰かと仲良くしたいと思ったら、思い切って声を掛けて、いろんな話をして、相手のことを知って、お互いのことを理解して、いろんなことを共感できるように努力していきます。自分の好みを押しつけたり、相手の言いなりになっていては、良好な関係は築けません。写真も、これと同じことだと思います。撮影のイメージというのは、被写体と一緒に作り上げていくものなんですよね。

イメージ作りも、直線的じゃなくて循環しているんですね。

フィードバックの回復

久々に、過去の写真を見返してみました。

というのも、このところずっと、せっかく撮った写真も、ブログに載せるために選ぶ作業をするだけで、写真そのものを味わう余裕がなかったんですね。今は例のバイト中なので、写真は撮れない代わりに時間はたっぷりとあります。そこで、溜まりに溜まった写真をじっくりと観てやろうじゃないか、というわけです。

ところが、いざ写真を観てみると、どうも無駄撮りが多いんですよ。これはと思える写真も、どうも詰めが甘いように感じるんです。ここ最近、ずっと写真展巡りをしていたので、いつの間にか写真の見方が変わってしまったようです。いや、このところずっと行き詰まりを感じていた理由に気付いたと言うべきでしょうか。

結局、撮りっ放しで撮った写真を省みることがほとんどなかったので、適切なフィードバックが得られずに、循環が失われて直線的な硬直状態に陥っていたわけです。そのため、いくら撮っても同じような写真や雑な写真ばかりを撮ってしまっていたんですね。もしかしたら、自分の記憶と撮れた写真との区別がついていなかったのかもしれません。

そこには、自分の思い上がりが少なからずあったようです。自分のスタイルに自信を持ち過ぎて、それに固執していたところもあるでしょう。これらは、適切なフィードバックが得られずに暴走する典型的なパターンですね。私自身、内心ではそのことに気付いていて、何とかその悪循環を断ち切りたいと思っていた節もあります。

こうしたことに気付けたのも、写真展巡りや写真教室のおかげですね。他人の写真を客観的に観ることで、自分の写真も客観的に観ることを思い出させてくれました。ただ、最近の自分の写真が全く駄目かというとそうでもなくて、雑で曖昧な中に不思議な魅力もあったりして、これはこれでこれから発展させていきたいと思います。

課題としては、撮り急がずに被写体から受けるイメージがはっきりしてから撮ることと、撮った後はイメージ通りに撮れているかをしっかり確認することですね。手当たり次第に撮ってきたことで、わずかな刺激に反応できるだけの感覚は備わってきています。これからは、より感度が良くなるようにカメラというアンテナをうまく微調整できるようにしたいですね。

謙虚な姿勢で頑張りたいと思います。

写真のイメージの循環

私は、自己中心で天の邪鬼な性格です。

なので、自分のやりたいこと、人とは違うことを、ただひたすらに追い求めるところがあります。だからといって勤勉で努力家かというとそうでもなくて、すぐに楽な方へと甘えてしまいます。人目を気にせずに尖がり続ける意地もなくて、なるべく地味で目立たない存在に憧れます。それで皆と仲良くできるかというとそうもいかなくて、すぐに反発したり切り捨てようとしてしまいます。

そんな自分にうんざりすることもありますが、それが自分だとしたら、それを認めるしかありません。それが好ましくないと思ったら、何とかして好ましい方向に持っていかなければなりません。そのために私が編み出した方法は、自分の状態を素直に認めること、それを文章として記録しておくこと、そこから解決策を理性的に導くことです。

反発したいならすればいい。切り捨てたいなら切り捨てればいい。でも、ただそうするだけじゃなくて、なぜそう思ったのか、その根拠は何か、それはどこまで信用できるのか、できる限り検討します。もし、今の自分に足りないものがあれば、少しでも理解できるように努力するし、自分として譲れないものがあれば、それも明確にします。そうして、一通りの作業を終えた頃には、最初の反発は消えているのです。

もちろん、そんな一夜漬け程度の理解で、すべてが理解できるわけはありません。でも、当初の感情を押さえ、納得できるだけの理解は得ることができます。それができれば、相手と仲直りすることもできるし、新しい分野への足掛かりにもなります。素直な性格の人なら苦労はしないのかもしれませんが、素直じゃない性格の人は、素直に回り道をしないと、素直になれないんです。

ご存じの通り、先月写真教室に行った時から、私の猛反発が続いていたわけですが、ようやくそれも落ち着いてきました。次回、その写真教室に行くかどうかはまだわかりませんが、これからは、写真の撮り方を少し変えてみようと思います。これまでは、何かを感じた被写体をそのままの形で記録することにこだわってきましたが、これからは、被写体から感じるイメージを撮るようにしたいと思います。

もちろん、これまでも被写体から得られるイメージも大切にしてきたんですが、それ以上に被写体それ自身を大切にしてきたように思います。それはそれで結構なことなんですが、残念ながらそれだけでは十分にイメージが伝わらないんですよね。写真だけを見せられても、それが何を伝えようとしているのかがわからなかったら、写真を見せる意味なんてないですからね。

ただ、注意しなければならないのは、被写体を通してイメージを伝えなければならないということです。もちろん、イメージを伝えるだけなら、写真としての表現を追及した方が、より一般的で、技術の蓄積もあります。でも、そこから得られる感動は、どうしても写真に結び付けられてしまうんですよね。

私も写真を撮る人間ですから、カメラを始めとした写真技術には感謝しています。でも、その写真技術が生まれたのは、それより先に、被写体となる対象と、そこから得られるイメージと感動があったからです。だからこそ、被写体から得られたイメージと感動は、写真技術にではなくて、被写体に捧げたいんです。これだけは、私が絶対に譲れないところです。

被写体というのは、写真撮影における単なる素材という、直線の始点というたけじゃなくて、写真に生きるという循環の中の出発点であり、終着点でもあるんですよね。具体的なことはまだわからないことだらけですが、少なくともこのイメージは、これまでの私の写真人生をうまく表現してくれているように思います。

そういうわけで、これからの写真の変化にご期待ください!

宗教について学んでみた

芸術は、その歴史の中で宗教と密接に関わってきました。

つまり、芸術を理解するためには、宗教を理解することが必要不可欠だというわけです。そこで、図書館で本を借りて読んでみたんですが、これがどうもよくわからないんですよ。その困惑ぶりは、ここ最近の記事を読んでもらえばわかるかと思います。何となく実感できるところもあるし、ぼんやりと理解できるところもあるんですが、どうにも釈然としないんですよ。

これまで、宗教と深く関わるということがなかったので、いまいち実感が湧かないのも無理はありません。一応、高校が仏教高だったので、宗教についてのそれなりの理解はしているつもりでした。でも、墓参りすらろくにしてこなかったので、基本的な部分が欠落しているのは確かです。そんな私が、本を一冊読んだくらいで宗教を理解できるはずありませんね。

私が読んだ本は、世界各国のあらゆる宗教を比較して、各宗教の違いを超えて、宗教の本質を探っていく、というものでした。宗教は、世界の永久不変の真理に気付き、それに従うことで、自分の人生を生きることを目的としているようです。ただ、宗教ごとにその真理や手段が異なるために、何かとややこしいことになってるんですね。

さらに、真理というものが直接言語化や具象化できないために、様々な象徴を駆使して、その比喩表現の中で真理を気付かせなければなりません。すると、その解釈に様々な違いが生じることになり、そこから細々とした宗派が生まれることになります。こうなってくると、一体何を信じて良いのやら、さっぱりわからなくなってしまいます。

正しい宗教の見分け方は、その教義や儀式等によって、どれだけ大きな感動を与えられるかで決まるそうです。感動が大きければ大きいほど、真理に近付けたというわけですね。そうした感動は、宗教の専売特許というわけではありません。真理が常に世界に満ち溢れている以上、日常生活の中でもその感動を得ることができます。ただ、宗教はその専門家なんですね。

真理はどこにでもあるけど、それは形のない抽象的なものなんです。でも、それを認識するためには、形のある具象的なものに頼れなければなりません。ここに、宗教のジレンマがあります。いくら相手のことが好きでも、それをはっきりとした言葉や行動で伝えなければ、その気持ちが伝わらないのと同じですね。

じゃあ、その真理っていうのは一体何なの?となるわけですが、それは私にも良くわかりません。ただ何となく、生きてて良かったと思えることかな、と思うくらいです。何かを好きになった時には、相手のことを想うだけで、幸せな気持ちになれます。普段からそういう幸せを感じられて感謝できる人には、もしかしたら宗教なんて必要ないのかもしれませんね。

とりあえず、今の私の宗教の理解は、まあこんな程度です。

直線と循環のイメージ

人は親から産まれ、子を産み、やがて死んでいきます。

一人の一生はそれで終わっても、その子孫が後を引き継ぐことで、人類が存続していきます。それでも、いつの日が、人類が滅亡する時がくるでしょう。もしかしたら、うまく条件が揃えば、再び人類が誕生することもあるかもしれません。こうして、線が螺旋を作り、螺旋が線を作りながら、存在が引き継がれていきます。

とはいえ、自分にできることは、自分として存在することだけです。自分と似たような存在が他にもたくさんいるかもしれないし、自分だけの存在価値があるかもしれません。いずれにせよ、はっきりしていることは、自分という存在が確かに存在しているということだけです。そして、自分の存在それ自体が、周りに影響を与えて、それが再び自分へと影響します。

こうして、直線的な関係と循環的な関係は、密接に関わり合っています。人は生きていく中で、こうしたたくさんの関係を築いていきます。それらの関係は、脳細胞のニューロンの結び付きとして、あるいは思考の流れとして現れます。人はそこに、美や愛、神の姿を見出だします。そして、それらのイメージを共有したり、対立させたりします。

そのイメージを対立させてしまう時は、そこにある具体的な差異に着目している時です。もし、そのイメージを共有できる時は、そこに含まれる普遍性に気がついた時です。イメージの差異を追及すれば、イメージ間の溝はどんどん深くなっていきます。でも、イメージの普遍性を追及すれば、いつかきっとより純粋なイメージを共有できるでしょう。

これは、個性を尊重するか、社会を尊重するか、ということでもあります。どちらを取るべきか難しい問題ですが、結局これも、線と螺旋の関係なんですよね。お互いに影響を与え合っている存在なので、分けて考えるべき問題じゃなくて、そのバランスの問題なんですよね。こうした関係というのは、あらゆる問題で見ることのできる、普遍的な関係なんですよね。

でも、問題が深刻になればなるほど、二者択一の選択を迫られることになります。そして、意思の力が強くなればなるほど、その傾向が高くなります。これは、循環のイメージが直線のイメージに還元されるということでもあります。緊張が高まれば直線的になるし、問題が解決すれば循環的に戻ります。

この文章がそうであるように、両者の関係は絶え間なく続いていくのです。

気持ちの問題

自分の好きなものは何かを思い出してみました。

好きな人は、家族、親戚、学生時代の友達、バイト先の人達、ブログで知り合った人達、写真を通じて知り合った人達。付き合いの長い人もいれば、最近出会った人もいて、長いこと会ってない人もいます。仲の良かった人もいれば、なかなか理解しあえなかった人もいます。笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだり、好きになったり嫌いになったりを繰り返しながら、少しずつ好きになっていきました。

好きな場所もたくさんあります。鹿児島に来たばかりの頃は、好きな場所よりも苦手な場所や嫌いな場所の方が多かったんです。でも、思い出が増えるごとに、まるでオセロのように好きな場所も増えていきました。今では好きな場所のことで頭がいっぱいで、嫌いな場所なんて気にしていられないくらいです。そして、好きな場所は今も増え続けています。

好きな行為も増えています。昔から一人で行動するのが好きでしたが、好きな人と好きな場所で過ごすのも楽しいです。パソコンをいじるのも好きだし、物事を考えたり文章を書くのも好きです。外に出て散歩したりサイクリングするのも好きだし、もちろん写真を撮るのも大好きです。これから、もっと好きになれることが増えたら嬉しいですね。

こうして、好きな人と好きな場所で好きなことをして過ごせたら、こんな素晴らしいことはありません。ただ、何かを好きになるには、それなりにルールがあるように思います。少なくとも私の場合は、ただ好きなだけでは、どうも好きになりきれないんですよ。もっと好きになるためには、一度嫌いになる必要があるような気がするんですよね。

ただ相手を肯定して受け入れるだけだと、あまりにもつかみどころがなくて、そんなに好きになれないんですよ。自分と相手は違う存在なんだから、何もかも受け入れるなんて不自然ですよね。受け入れられない部分があれば、当然反発することになります。反発されれば、カチンときて頭にスイッチが入ります。そして、お互いに激しくぶつかりあうのです。

ただ、このぶつかりあいというのは、相手を排除するためじゃなくて、相手を理解するためのものなんですよね。お互いに本気を出し合うことで、その気持ちを確かめ合う訳ですね。だから、もし相手がいい加減な気持ちであることがわかれば、それ以上相手と関わることはしなくなるでしょう。これは、信用を勝ち取るための儀式でもあるのです。

そこにあるのは、本気かどうかの判断であって、考え方の相違ではないんです。もし、相手との考え方に相違があったとしても、そこに本気の熱意さえあれば、それは必ず伝わるものです。あまり仲良くはなれないかもしれませんが、きっとその熱意を好きになるはずです。すぐには好きになれないかもしれませんが、相手の考えを理解できれば、自然と好きになれるはずです。

結局、好きになれるかどうかは、気持ちの問題なんですよね。

表現と演出のさじ加減

表現には、演出が不可欠です。

でも、演出すれば表現になるかというと、そうはなりません。まず先に感動があって、それを伝えるために表現をして、その効果を高めるために演出をするわけですね。ただ、演出は調味料みたいなもので、ないと味気無いけれど、入れ過ぎると味がくどくなってしまいます。素材の味を引き出すために、上手な調味料の使い方を学ぶ必要があるのです。

でも、調味料の使い方なんて、わざわざ教わらなくても、自分の舌で確かめれば済む話です。普通に生活していれば、塩や胡椒、砂糖や醤油など、基本的な調味料の使い方は自然と身につくものです。ただ、それらの調味料をそのまま使うだけでは、すぐに味に飽きてしまうことでしょう。上手に使いこなすためには、やはりそれなりの経験や知識が必要になります。

このように、美味しい料理を作るためには調味料が必要不可欠なわけですが、問題は美味しい料理を作ることではなくて、毎日の食事を美味しくいただくことです。これには、もちろん調味料の問題も関わってきますが、このより大きな問題に対しては、その効果は一時的でわずかなものでしかありません。生命の維持に必要な栄養分を摂取することこそが、食事の役割なのです。

では、表現の役割は何なのでしょう。お腹が減れば何かを食べたくなるように、何らかの理由があるから表現したくなるはずです。人は、感じたことや考えたことを、無視することはできません。何かを感じた瞬間に表情が変わるし、考えたことは行動に出るものです。そうした表現を我慢しようとすると、便秘のような苦しみを味わうことになるでしょう。

表現は、必ずしも相手が必要というわけではありません。他人には見せずに、自分のためだけに表現することもあります。でも、それは表現の相手に自分を選んでるだけで、やっぱり相手があってこその表現なんですよね。また、この表現の自給自足は、自分が表現するだけでなく、表現されることも望んでいることも示唆しています。

日常的な表現の中にも、演出は含まれています。お世辞や愛想笑いというのは、その最たるものでしょうね。でも、媚びへつらったり、無理に笑顔を作ったり、自分の考えや感情を押し殺してしまっては、一体何のために表現をしているのかわからなくなってしまいます。表現の自給自足は、こうした歪みの反動だとも言えるでしょう。

演出は、素直に表現すること、表現を受け入れることができて、初めて生きてくるんですよね。

祝!PhotoMaster 2 完成!

ついに、PhotoMaster 2が完成しましたよ!万歳!

正確には、開発を終えて、ベクターの登録手続きを済ませただけなので、公開は一週間ほど後になります。 皆さんには、それまでお待ちいただくことになりますが、やっと肩の荷が下りてホッとしています。 PhotoMaster 2の開発は、2005年の夏から始めたので、開発にほとんど2年を費やしたことになります。 途中、iKeyboard 2の開発も入ったりもしたわけですが、やっぱり長かったなぁというのが、今の正直な感想です。

PhotoMaster 2の最初の評価版を公開したのが2006年の終わりだったので、正式版になるまでに、それから半年かかったことになります。 その間、月に一度ずつ評価版を更新してきたわけですが、過去の記事を振り返ってみると、その進化が良くわかります。 評価版の期間が長かったので、どんどん改善点が見えてきたりもしたわけですが、いつまでも評価版を続けるわけにもいきませんしね。 今がちょうど良い具合に熟れてきているように思います。

前回の評価版5との変更点は、設定ファイルの形式の変更、フィルター効果の追加、旧バージョンからの移行ツールの搭載、細かい不具合の修正などです。 今回、やっとこさ自動補正を実装して、ついでに「反転」「ソフト」「ズーム」「油絵」「拡散」「浮き彫り」のフィルターも追加しました。 先日のトイレ写真は、実はこのソフトフィルターの効果を確かめるためだったんですよ。

また、移行ツールによって、旧バージョンのライブラリをPhotoMaster 2用に変換することができるようになりました。 カメラ設定やイベントがそのまま流用できるので、旧バージョンをご利用の方は、ぜひ利用してくださいね。 今回、この移行ツールの動作検証用に、PhotoMaster 1.51を久々に使ってみたんですが、妙に使いにくいんですよ。 プログラムのリストもずいぶん荒削りだったりして…。 まあ、ここは自分の成長を素直に喜んでおきましょう。

正直な所、写真管理ソフトには、iPhotoという絶対的な存在があって、Adobeという強大なブランドがあって、各カメラメーカーの付属ソフトがあって、他にも似たソフトが星の数ほどあったりして、PhotoMasterを作り続ける意味があるんだろうかと、疑問に思うことも多々あります。 でも、iPhotoはソフトの性格が違うし、Adobeは高いし、付属ソフトは使いにくいし、やっぱりPhotoMasterを作って良かったな、なんてしみじみ思うのでした。

そういうわけで、PhotoMaster 2の公開を楽しみにしていてくださいね!