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PhotoMaster 2 評価版5

PhotoMaster 2 b5 for Mac Mac OS X 10.1以降(ユニバーサルバイナリ)
PhotoMaster 2 b5 for Win Windows 98/ME/2000/XP

PhotoMaster 2の評価版5を公開します。

前回の評価版を公開した時に、「アルバム機能を追加したい」ということを書いたわけですが、どうにもアイデアがまとまらなかったため、泣く泣く先送りにすることにしました。 現状の出来事リストでも、必要十分なだけの機能を提供できているので、無理に機能を拡張するよりも、先に正式版にすることの方が先決だという判断ですね。 ただし、PhotoMaster 2.xか、3.0には、是非とも実現させたいと思っています。

今回の主な変更点は、以下の通りです。

  • 自動的にメモリーカードから写真を読み込む機能を追加(Mac OS Xのみ)
  • 表示モード切り替え時に、画面が乱れる問題を修正
  • グループの指定をする時に、選択中の全ての写真に適用するように変更
  • 詳細表示モードで、選択が正しく反映されないことがある問題を修正
  • 「ゴミ箱に移動」などの作業後に、メモリが解放されない問題を修正
  • 「ゴミ箱に移動」などの作業後に、不要な撮影日が残る問題を修正
  • 直前に表示した写真と素早く表示を切り替える「切替」ボタンを追加
  • ヒストグラム・拡大表示の上下サイズを調整できるように変更
  • その他、細かい修正

今回の目玉機能は、「切替」ボタンの追加です。 PhotoMaster 2では、直前に表示した写真を一枚分キャッシュする仕組みになっていて、同じ被写体を続けて何枚か撮影した場合に、素早く表示を切り替えることができます。 「切替」ボタンは、このキャッシュされた写真を交互に切り替えて表示するもので、目の残像現象を利用して、より微妙な違いを見比べられるようになっています。

この一ヶ月は、機能の追加よりも、使い込むことによって、細かい操作性の改善や、細かい不具合の発見と修正に力を入れました。 おかげで、正式版にしても良いだけの完成度になったと思います。 後は、自動補正フィルターと、旧バージョンからの移行ツールを実装して、ヘルプファイルに手を加えれば、目出たく完成となります。 8日にはベクターに登録申請して、その1~2週間後には、正式に公開できると思います。

PhotoMaster 2も、いよいよ完成まで秒読み段階です。お楽しみに!

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吊り橋の上でフラッシュ撮影

人の感情は、必ずしも正確に物事を判断するわけではありません。

もっともわかりやすいのは、吊り橋理論でしょうね。 去年、日本一長い吊り橋ができたことで、ちょっとした話題になったので、知ってる人も多いかと思います。 揺れる吊り橋の上でドキドキしながら出会った方が、恋愛関係に発展しやすいというという内容なんですが、映画や小説なんかではすっかりお馴染みの設定ですよね。 ただし、こうして成立した恋愛関係というのは、長くは続かないそうです。

一方で、衝撃的な印象を持った出来事というのは、いつまで経っても鮮明に覚えているものです。 これは、フラッシュを焚かれると、いつまでもフラッシュの残像が目に焼き付いて残ることにたとえて、フラッシュバルブ記憶と呼ばれています。 初めて恋人に告白したり、プロポーズした時のことというのは、決して色褪せずに覚えているものです。 そして、毎年その日がやってくる度に、その記憶が再び呼び出され、強化されていきます。

吊り橋理論では、吊り橋の恐怖によるドキドキ感が、相手と出会うことで、良く似た恋愛感情と取り違えてしまって、一時的に頭が混乱してしまうんですね。 吊り橋から降りてしばらくは、フラッシュバルブ記憶的に相手の記憶が残りますが、その記憶を強化するためのきっかけが何もないので、あまり長持ちせずに、次第に色褪せていきます。 でも、定期的に吊り橋でデートするようにすれば、その関係はますます強化されていくことになります。

それを実に効果的に実践してきたのが、宗教です。 見事な装飾を施した教会や寺院の中で、数々の美しい絵画や像を眺めつつ、賛美歌を歌いながら厳かな儀式を行い、それを定期的に繰り返しながら、布教活動を行ってきたのです。 その全てが、信仰という絶対的な価値観の中で、巧妙にデザインされ、表現されていきました。 まったく宗教に興味のなかった人が、教会や寺院に一歩足を踏み入れた瞬間に、その迫力に圧倒されてしまうのはこのためですね。

こうした宗教芸術の技術は、現在の芸術にも受け継がれています。 もっとも、今では宗教に変わって、産業を新たなパトロンとして従事しているわけですが。 それはそれで、時代の流れとして結構なことなんですが、問題は、芸術が人を動かす非常に大きな力を持っているということです。 そして、それは必ずしも、本人が望むものを提供するわけではなく、諸刃の剣だということです。

これは、車が便利な移動手段であると同時に、簡単に人を殺してしまう恐ろしい機械であるのと同じです。 宗教も、かつては偶像崇拝がタブーとされていましたが、やがて権力が増大するにつれ、そのタブーが破られて、様々な像が造られ、拝まれ、さらに影響力を強めていきました。 それに伴い、宗教の形式化、形骸化が進み、ついにはカルト的な新興宗教が生まれ、悲惨な犯罪まで行われるようになりました。

それらの全てが芸術の仕業だとは言いませんが、芸術がそれだけの影響力を持った存在だということは、常に意識してし過ぎることはありません。 少なくとも、表現を極めることで大きな影響力を与えること、すなわちフラッシュバルブ記憶を植え付けることよりも、伝えるイメージそのものを追求していくことの方が、ずっと重要なことだと思います。 もし、芸術そのものに大きな感動を求めているのであれば、それは大きな間違いだと言えるでしょう。

いろんな考え方があるかとは思いますが、少なくとも私は、こう考えています。

妖気漂うナイト・エクストリーム

バイトが終わった後に、ドラゴンさんのエクストリームを撮ってきました。

この間、バイクのLED写真を撮った時に、「LED点けてウイリーしてるとこ撮ったらカッコイイでしょうね~」「夜の流し撮りは結構難しいかもね~」という話をしていたんですよ。 でも、やっぱり撮ってみたいし、撮ってみないとわからないので、「よし、試しに一度撮ってみよう」ということで、話がまとまりました。 で、今夜ドラゴンさんとバイトが一緒だったので、早速、試し撮りをしてみることになりました。

撮影場所をあちこち検討した結果、この自販機前に決定しました。 ここなら、近くに民家もないし、停車中の車もないので、気兼ねなくバイクを走らせることができます。 また、自販機の明かりのおかげで、写真も撮りやすくなります。 やたら自販機の位置が高いなぁと思いながらコーヒーを買って、まずは撮影前の記念撮影。 こうして撮ってもらうことはまずないので、とても新鮮な体験でした。

さて、いよいよバイク始動です。 まずは、普通に走ってもらって、流し撮りの感覚をつかみます。 ドラゴンさんの表情にも、まだまだ余裕があります。 試し撮りなので、一枚ごとに撮影結果を確認していきます。 そして、ついにウイリー開始! 突然、バイクの写り方が変わります。 おお、これはすごい! ウイリーならではのバイクの動きが、ちゃんと写真に写っています。 エクストリームは、夜の撮影の方がいいのかも?

私は、自販機の前に立って、ドラゴンさんが目の前を駆け抜けるのを待ち構えます。 でも、なぜか自販機の手前で着地してしまいます。 どうやら、自販機の前だけ地面が窪んでいて、バランスが取りにくいようです。 自販機から遠いと、どうしても光量が不足して写りが暗くなってしまいます。 ドラゴンさんも、思い通りにいかないことに、次第に焦りを感じて、表情が険しくなっていきました。

すると、写真の写りに異変が起きました。 まるで、ドラゴンさんの情熱のオーラのように、得体の知れない妖気が、ほとばしるように写り出したのです。 実はただのLEDの光芒なんですが、それが良い具合に写るようになってきたんですよ。 これは、ドラゴンさんがウイリーに慣れて、私が流し撮りに慣れてきたということなんでしょうね。 まさか、こんな写真が撮れるとは思いもしなかったので、試し撮りとしては、これはもう大収穫です。

今回は、20分で45枚という短い撮影でしたが、ドラゴンさん、お疲れ様でした!

トイレ写真三態

ちょっと思うところがあって、トイレを撮ってみました。

うちのアパートは共同トイレなので、あまり綺麗なトイレではありません。 でも、最近はずいぶんマナーが良くなって、以前と比べたら見違えるように綺麗になりました。 そんなトイレを撮りつつ、ちょっとしたレタッチを交えながら、写真を見比べてみたいと思います。

まずは、和式便器の上にしゃがんだ時の視点を再現した、この写真をご覧ください。 右側は、それをリアリズム的にレタッチしてあります。

いやぁ、ずいぶんトイレが汚く見えますねぇ。 昭和の貧乏学生の生活の一コマ、みたいな印象を受けます。 まあ、実際似たような生活をしてるわけですが、昭和の貧乏学生も、本当は左写真のような世界を見ていたわけで、いかに人の判断が写真の表現力に左右されるか、良くわかるというものです。

お次は、このトイレがなるべく綺麗に見える位置から撮った写真です。 右側は、それをサロンピクチュア的にレタッチしてあります。

今度は、トイレだとは思えないほど、美しい世界になっちゃってます。 まるで、ハイソでトレンディなセレブのトイレみたいですねぇ。 でも、どんなにゴージャスな人でも、もよおしてうちのトイレに入ったとすると、左写真のようなトイレを見ることになります。

結局、いくら写実性に優れた写真といえども、レタッチひとつで、簡単に印象操作ができてしまうんですよね。 リアリズム・トイレと、サロンピクチュア・トイレを見比べると、とても同じトイレには思えないでしょう。 もちろん、どのトイレを選ぶか、いや、どの写真を選ぶは、その人次第です。 その選択については、誰も口を出すことはできない問題です。 ただ、それを選んだことの意味について、少しでも考えてもらえたらなぁ、と思うのです。

ちなみに、私のベストショット・トイレは、この2枚です。 ドアを開けた瞬間の、見慣れたトイレの光景に対する安心感。 すかさず窓を開けて、こもった臭いを追い出す爽快感。 毎日、毎日、繰り返し行われる、半ば自動化された行為の中で、かすかに感じる、生活の喜び。 直接的で刺激的な排泄の快感よりも、これらの感覚の方が、私にはずっと魅力的に思えるのです。

あなたは、どんなトイレが好きですか?

我が家の台所事情

今回は、トイレに引き続き、台所の紹介です。

本当は外でのびのびと写真を撮りたいんですが、天気も悪いし、時間も取れないしで、苦し紛れの我がアパート撮影と相成ったのでした。 すでにご存知の方も多いかと思いますが、うちのアパートは、今時珍しい台所、トイレ、シャワーが全て共同になっています。 そして、その住人のほとんどが、中国からの留学生で占められています。 そのため、この台所では、中国人による本物の中華料理が、日夜作られ続けています。

飯時になると、中国人の人達が台所を占拠するため、私がこの台所で料理をすることはありません。 自分の部屋に、ベッドを改造して作った簡易台所があるので、洗い物以外はほぼ自室でできるようになっているんです。 そんなわけで、この台所は、自分のアパートの一角にありながら、まるで中国人領であるかのような雰囲気があります。 ガスコンロには中華鍋が並び、壁や天井は油で煤けています。

私がこの台所を使わない理由のひとつに、ガスコンロのガスが有料だということもあります。 この古めかしい金属の箱に10円を入れ、ハンドルを回すと、一定時間、ガスコンロが使えるようになります。 周りにチラシが貼り付けてあるのは、壁が汚れないようにするための中国人の知恵ですね。 ハンドル部分に10円玉を挟み込むことで、タダでガスを使うという知恵もありましたが、さすがに大家さんに見つかって注意されてました。

私の場合は、水を汲んだり、洗い物をしたりといった使い方しかしていないわけですが、こんなに汚い場所でも、長年使っていると、やっぱり愛着が湧いてくるんですね。 これでも、学生時代の学生寮や、昔の中国人の使い方と比べたら、ずいぶん綺麗になったものです。 それに、猛烈に古いものもあれば、意外と新しいものもあったりして、そういう雑多な雰囲気が、不思議と心地良いんですよ。

多くの家庭では、真新しいキッチンで、お洒落な料理を楽しんでるんだろうなぁ。 でも、男の一人暮らしなら、これで十分ですね。 それに、今の私の台所事情から考えても、これがお似合いだというものです。 ただ、いくらこの生活を気に入っていても、いい加減に卒業してもいいんじゃないかと思うこともあります。 真新しいキッチンに憧れつつ、特に必要ともしていない、この自分の不甲斐なさは、困ったものですねぇ。

あなたの台所事情、よろしければ教えてくださいね。

かつての星達

今では時代を感じるけれど、昔は新鮮に輝いてたんだろうな。

窓の外のドア

台所の窓の向こうには、浴室とトイレのドアが並んでいる。

祝!PhotoMaster 2 完成!

ついに、PhotoMaster 2が完成しましたよ!万歳!

正確には、開発を終えて、ベクターの登録手続きを済ませただけなので、公開は一週間ほど後になります。 皆さんには、それまでお待ちいただくことになりますが、やっと肩の荷が下りてホッとしています。 PhotoMaster 2の開発は、2005年の夏から始めたので、開発にほとんど2年を費やしたことになります。 途中、iKeyboard 2の開発も入ったりもしたわけですが、やっぱり長かったなぁというのが、今の正直な感想です。

PhotoMaster 2の最初の評価版を公開したのが2006年の終わりだったので、正式版になるまでに、それから半年かかったことになります。 その間、月に一度ずつ評価版を更新してきたわけですが、過去の記事を振り返ってみると、その進化が良くわかります。 評価版の期間が長かったので、どんどん改善点が見えてきたりもしたわけですが、いつまでも評価版を続けるわけにもいきませんしね。 今がちょうど良い具合に熟れてきているように思います。

前回の評価版5との変更点は、設定ファイルの形式の変更、フィルター効果の追加、旧バージョンからの移行ツールの搭載、細かい不具合の修正などです。 今回、やっとこさ自動補正を実装して、ついでに「反転」「ソフト」「ズーム」「油絵」「拡散」「浮き彫り」のフィルターも追加しました。 先日のトイレ写真は、実はこのソフトフィルターの効果を確かめるためだったんですよ。

また、移行ツールによって、旧バージョンのライブラリをPhotoMaster 2用に変換することができるようになりました。 カメラ設定やイベントがそのまま流用できるので、旧バージョンをご利用の方は、ぜひ利用してくださいね。 今回、この移行ツールの動作検証用に、PhotoMaster 1.51を久々に使ってみたんですが、妙に使いにくいんですよ。 プログラムのリストもずいぶん荒削りだったりして…。 まあ、ここは自分の成長を素直に喜んでおきましょう。

正直な所、写真管理ソフトには、iPhotoという絶対的な存在があって、Adobeという強大なブランドがあって、各カメラメーカーの付属ソフトがあって、他にも似たソフトが星の数ほどあったりして、PhotoMasterを作り続ける意味があるんだろうかと、疑問に思うことも多々あります。 でも、iPhotoはソフトの性格が違うし、Adobeは高いし、付属ソフトは使いにくいし、やっぱりPhotoMasterを作って良かったな、なんてしみじみ思うのでした。

そういうわけで、PhotoMaster 2の公開を楽しみにしていてくださいね!

表現と演出のさじ加減

表現には、演出が不可欠です。

でも、演出すれば表現になるかというと、そうはなりません。まず先に感動があって、それを伝えるために表現をして、その効果を高めるために演出をするわけですね。ただ、演出は調味料みたいなもので、ないと味気無いけれど、入れ過ぎると味がくどくなってしまいます。素材の味を引き出すために、上手な調味料の使い方を学ぶ必要があるのです。

でも、調味料の使い方なんて、わざわざ教わらなくても、自分の舌で確かめれば済む話です。普通に生活していれば、塩や胡椒、砂糖や醤油など、基本的な調味料の使い方は自然と身につくものです。ただ、それらの調味料をそのまま使うだけでは、すぐに味に飽きてしまうことでしょう。上手に使いこなすためには、やはりそれなりの経験や知識が必要になります。

このように、美味しい料理を作るためには調味料が必要不可欠なわけですが、問題は美味しい料理を作ることではなくて、毎日の食事を美味しくいただくことです。これには、もちろん調味料の問題も関わってきますが、このより大きな問題に対しては、その効果は一時的でわずかなものでしかありません。生命の維持に必要な栄養分を摂取することこそが、食事の役割なのです。

では、表現の役割は何なのでしょう。お腹が減れば何かを食べたくなるように、何らかの理由があるから表現したくなるはずです。人は、感じたことや考えたことを、無視することはできません。何かを感じた瞬間に表情が変わるし、考えたことは行動に出るものです。そうした表現を我慢しようとすると、便秘のような苦しみを味わうことになるでしょう。

表現は、必ずしも相手が必要というわけではありません。他人には見せずに、自分のためだけに表現することもあります。でも、それは表現の相手に自分を選んでるだけで、やっぱり相手があってこその表現なんですよね。また、この表現の自給自足は、自分が表現するだけでなく、表現されることも望んでいることも示唆しています。

日常的な表現の中にも、演出は含まれています。お世辞や愛想笑いというのは、その最たるものでしょうね。でも、媚びへつらったり、無理に笑顔を作ったり、自分の考えや感情を押し殺してしまっては、一体何のために表現をしているのかわからなくなってしまいます。表現の自給自足は、こうした歪みの反動だとも言えるでしょう。

演出は、素直に表現すること、表現を受け入れることができて、初めて生きてくるんですよね。

気持ちの問題

自分の好きなものは何かを思い出してみました。

好きな人は、家族、親戚、学生時代の友達、バイト先の人達、ブログで知り合った人達、写真を通じて知り合った人達。付き合いの長い人もいれば、最近出会った人もいて、長いこと会ってない人もいます。仲の良かった人もいれば、なかなか理解しあえなかった人もいます。笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだり、好きになったり嫌いになったりを繰り返しながら、少しずつ好きになっていきました。

好きな場所もたくさんあります。鹿児島に来たばかりの頃は、好きな場所よりも苦手な場所や嫌いな場所の方が多かったんです。でも、思い出が増えるごとに、まるでオセロのように好きな場所も増えていきました。今では好きな場所のことで頭がいっぱいで、嫌いな場所なんて気にしていられないくらいです。そして、好きな場所は今も増え続けています。

好きな行為も増えています。昔から一人で行動するのが好きでしたが、好きな人と好きな場所で過ごすのも楽しいです。パソコンをいじるのも好きだし、物事を考えたり文章を書くのも好きです。外に出て散歩したりサイクリングするのも好きだし、もちろん写真を撮るのも大好きです。これから、もっと好きになれることが増えたら嬉しいですね。

こうして、好きな人と好きな場所で好きなことをして過ごせたら、こんな素晴らしいことはありません。ただ、何かを好きになるには、それなりにルールがあるように思います。少なくとも私の場合は、ただ好きなだけでは、どうも好きになりきれないんですよ。もっと好きになるためには、一度嫌いになる必要があるような気がするんですよね。

ただ相手を肯定して受け入れるだけだと、あまりにもつかみどころがなくて、そんなに好きになれないんですよ。自分と相手は違う存在なんだから、何もかも受け入れるなんて不自然ですよね。受け入れられない部分があれば、当然反発することになります。反発されれば、カチンときて頭にスイッチが入ります。そして、お互いに激しくぶつかりあうのです。

ただ、このぶつかりあいというのは、相手を排除するためじゃなくて、相手を理解するためのものなんですよね。お互いに本気を出し合うことで、その気持ちを確かめ合う訳ですね。だから、もし相手がいい加減な気持ちであることがわかれば、それ以上相手と関わることはしなくなるでしょう。これは、信用を勝ち取るための儀式でもあるのです。

そこにあるのは、本気かどうかの判断であって、考え方の相違ではないんです。もし、相手との考え方に相違があったとしても、そこに本気の熱意さえあれば、それは必ず伝わるものです。あまり仲良くはなれないかもしれませんが、きっとその熱意を好きになるはずです。すぐには好きになれないかもしれませんが、相手の考えを理解できれば、自然と好きになれるはずです。

結局、好きになれるかどうかは、気持ちの問題なんですよね。

直線と循環のイメージ

人は親から産まれ、子を産み、やがて死んでいきます。

一人の一生はそれで終わっても、その子孫が後を引き継ぐことで、人類が存続していきます。それでも、いつの日が、人類が滅亡する時がくるでしょう。もしかしたら、うまく条件が揃えば、再び人類が誕生することもあるかもしれません。こうして、線が螺旋を作り、螺旋が線を作りながら、存在が引き継がれていきます。

とはいえ、自分にできることは、自分として存在することだけです。自分と似たような存在が他にもたくさんいるかもしれないし、自分だけの存在価値があるかもしれません。いずれにせよ、はっきりしていることは、自分という存在が確かに存在しているということだけです。そして、自分の存在それ自体が、周りに影響を与えて、それが再び自分へと影響します。

こうして、直線的な関係と循環的な関係は、密接に関わり合っています。人は生きていく中で、こうしたたくさんの関係を築いていきます。それらの関係は、脳細胞のニューロンの結び付きとして、あるいは思考の流れとして現れます。人はそこに、美や愛、神の姿を見出だします。そして、それらのイメージを共有したり、対立させたりします。

そのイメージを対立させてしまう時は、そこにある具体的な差異に着目している時です。もし、そのイメージを共有できる時は、そこに含まれる普遍性に気がついた時です。イメージの差異を追及すれば、イメージ間の溝はどんどん深くなっていきます。でも、イメージの普遍性を追及すれば、いつかきっとより純粋なイメージを共有できるでしょう。

これは、個性を尊重するか、社会を尊重するか、ということでもあります。どちらを取るべきか難しい問題ですが、結局これも、線と螺旋の関係なんですよね。お互いに影響を与え合っている存在なので、分けて考えるべき問題じゃなくて、そのバランスの問題なんですよね。こうした関係というのは、あらゆる問題で見ることのできる、普遍的な関係なんですよね。

でも、問題が深刻になればなるほど、二者択一の選択を迫られることになります。そして、意思の力が強くなればなるほど、その傾向が高くなります。これは、循環のイメージが直線のイメージに還元されるということでもあります。緊張が高まれば直線的になるし、問題が解決すれば循環的に戻ります。

この文章がそうであるように、両者の関係は絶え間なく続いていくのです。

宗教について学んでみた

芸術は、その歴史の中で宗教と密接に関わってきました。

つまり、芸術を理解するためには、宗教を理解することが必要不可欠だというわけです。そこで、図書館で本を借りて読んでみたんですが、これがどうもよくわからないんですよ。その困惑ぶりは、ここ最近の記事を読んでもらえばわかるかと思います。何となく実感できるところもあるし、ぼんやりと理解できるところもあるんですが、どうにも釈然としないんですよ。

これまで、宗教と深く関わるということがなかったので、いまいち実感が湧かないのも無理はありません。一応、高校が仏教高だったので、宗教についてのそれなりの理解はしているつもりでした。でも、墓参りすらろくにしてこなかったので、基本的な部分が欠落しているのは確かです。そんな私が、本を一冊読んだくらいで宗教を理解できるはずありませんね。

私が読んだ本は、世界各国のあらゆる宗教を比較して、各宗教の違いを超えて、宗教の本質を探っていく、というものでした。宗教は、世界の永久不変の真理に気付き、それに従うことで、自分の人生を生きることを目的としているようです。ただ、宗教ごとにその真理や手段が異なるために、何かとややこしいことになってるんですね。

さらに、真理というものが直接言語化や具象化できないために、様々な象徴を駆使して、その比喩表現の中で真理を気付かせなければなりません。すると、その解釈に様々な違いが生じることになり、そこから細々とした宗派が生まれることになります。こうなってくると、一体何を信じて良いのやら、さっぱりわからなくなってしまいます。

正しい宗教の見分け方は、その教義や儀式等によって、どれだけ大きな感動を与えられるかで決まるそうです。感動が大きければ大きいほど、真理に近付けたというわけですね。そうした感動は、宗教の専売特許というわけではありません。真理が常に世界に満ち溢れている以上、日常生活の中でもその感動を得ることができます。ただ、宗教はその専門家なんですね。

真理はどこにでもあるけど、それは形のない抽象的なものなんです。でも、それを認識するためには、形のある具象的なものに頼れなければなりません。ここに、宗教のジレンマがあります。いくら相手のことが好きでも、それをはっきりとした言葉や行動で伝えなければ、その気持ちが伝わらないのと同じですね。

じゃあ、その真理っていうのは一体何なの?となるわけですが、それは私にも良くわかりません。ただ何となく、生きてて良かったと思えることかな、と思うくらいです。何かを好きになった時には、相手のことを想うだけで、幸せな気持ちになれます。普段からそういう幸せを感じられて感謝できる人には、もしかしたら宗教なんて必要ないのかもしれませんね。

とりあえず、今の私の宗教の理解は、まあこんな程度です。

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鹿児島の30代男性
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