権威主義の終焉


時代は、世代間の対立によって変化していきます。

しかし、古い世代との競争を勝ち抜いたとしても、今度は新しい世代との戦いが待っています。 与えられる選択肢は二つ。 一つは、自分の築き上げてきた方法論に固執して、こだわり続ける道。 そしてもう一つは、新しい世代に迎合して、新しい可能性を探る道。 前者は過去の英雄にして頑固親父、後者は自由主義者で軟弱者。 でも、これって二者択一の問題じゃないんですよね。 両方選ばないともったいないと思いますよ。

どんなに新しいことも、突き詰めて考えれば考えるほど、どんどん形式的になっていきます。 そして、あらかじめ決められた手順通りにすれば、誰でも同じようなことができるようになります。 そうやって、新しい表現が一般化することで、その新しい芸術は、新しかった芸術として役目を終えます。 その代わり、新たに権威ある形式主義が現れて、ああすべきだ、こうすべきだ、と猛威を振るい始めます。

ただ、そういう権威主義が通用したのは、マスメディアの影響力が大きかった頃の話です。 今では、情報化社会やITといった言葉が陳腐に思えるほど浸透して、特に若い世代では情報の取り扱いが実にうまくなっています。 つまり、生の情報をそのまま鵜呑みにしないという、情報に対する免疫力が身に付いているわけです。 だから、テレビや雑誌などのマスメディアの情報を、作られた偽物の情報として逆に楽しんだりしているんですね。

そういうわけで、権威が権威を誇示すればするほど、若者達はそれを笑い者にして、馬鹿にします。 ただ、いわゆる反体制、反権力みたいに、何でもかんでも否定して反発しているかというと、そういうわけでもありません。 自分が良いと思ったものには、それが何であれ、素直に敬意を表する謙虚さも持ち合わせています。 ところが、残念なことに、せっかく感じたことを、うまく表現することのできない人が多いんですよね。

いわゆるポストモダニズムがそうであったように、感じたことを表現することと、表現することを表現することの違いが曖昧なんですよね。 あらゆる情報に囲まれた世界、つまり、常に多種多様な表現に囲まれて生きているわけですから、表現そのものに感動してしまうという状況になってしまうのも、仕方がないのかもしれません。 でも、そういう仮想化された世界に生きることは、現実を見失う危険性も抱えています。

これからは、形式的な表現や、再帰的な表現よりも、現実的な表現の時代なのかもしれませんね。

歴史の重みと世代交代

時代は常に変化していきますが、人はどんどん時代に取り残されていきます。

写真教室の後、気分転換に再びモノクロろくろく展に顔を出して、出展者とのフリートークに参加させてもらいました。 出展者本人から作品の解説をしてもらえるなんて幸せだなぁ、と思ったものの、どうも皆さん歯切れが悪いんです。 謙遜してるのか、「この程度の作品で申し訳ない」みたいな言葉ばかりが出てきます。 ついつい「鑑賞した時の感動を返してくれ!」なんて思ってしまいました。

でも、写真展に出展するような人達でも、いろいろ悩んでるんだなぁと思うと、ちょっと安心しました。 私には写真展が行われる仕組みというのが良くわからないので、写真展に出展しているというだけで「すごい人達なんだ」みたいに思ってしまうんですが、彼らも同じ生身の人間なんだということが感じられて良かったです。 もしかしたら、写真を撮るのは得意でも、それを解説するのは苦手なのかもしれませんね。

で、一通りの解説が終わってから、いよいよフリートークになったわけですが、ここでも出てくる話は技術的な話ばかり。 モノクロろくろく展だけに、印画紙の話や、カメラの話がほとんどで、あまり何をどう撮るかについての話はありませんでした。 私は、先日の感想と一緒に、写真教室での「演出」について尋ねてみたんですが、「それは良くないね」と即答してもらえたので、とても救われた気がしました。

フリートーク終了後も、その場に残って話を聞いていたんですが、直接会って話をすることの大切さを改めて感じました。 写真の歴史については、本やネットで勉強してきたつもりですが、目の前にいる人達は、まさに歴史そのものを背負ってきた人達です。 これまで、表面的な理解しかできていなかったものが、会話を通して実感として感じらるようになって、とても嬉しく思いました。

ただ、残念なことに、その考え方は、私からするとどうしても古臭く感じてしまうんですよね。 この写真展には、いわゆる社会派リアリズム写真が多かったんですが、どうしても撮影者本人の視点が足りないように感じるんです。 社会的な問題提起も悪くはないんですが、問題そのものが一般化されて陳腐化してしまっているので、ステレオタイプ的な安っぽさを感じてしまうんですね。

今の世の中は、「木を見て森を見ず」でも「森を見て木を見ず」でもなくて、「森の中の木を見る」時代だと思います。 いわゆるWeb 2.0的な「木の集まった森を見る」というところもありますが、そうした雑多なカスタマー・レビューよりも、一人の熱狂的なファンの詳細なレビューの方が、ずっと役に立つものです。 写真も、ありきたりで無個性な写真の寄せ集めよりも、撮影者の人柄や熱意のこもった写真の方が、ずっと面白いものです。

恐らく、私のこういう考え方も、次の世代からは「古臭い考え方」だと思われることでしょう。 いや、もしかすると、すでに時代遅れなのかもしれません。 でも、時代は常に変わるものなので、それはそれで仕方のないことです。 ただ、その時代を生きた人間として、その歴史を背負った人間として、自分に自信を持っていたいと思います。 そして、若い世代の人達が、歴史を感じてくれるような存在になれたら嬉しいですね。

そのためにも、もっと中身のある自信をつけていきたいと思います。

混沌とした世界

今日は、生まれて初めて、写真教室に参加してきました。

他の写真教室と違い、自由に撮った写真を持ち寄って、「何を撮りたいのか」に焦点を当てて、先生が寸評をしていくという形式だと聞いていたので、私は「きっと撮影者の気持ちを汲み取ってくれるに違いない」という期待をしていました。 つまり、その写真から何が読み取れるのか、皆で和気あいあいと語り合いながら、撮れた写真の謎に迫っていくものだと、勝手な想像を膨らませていたわけです。

でも、実際は全く違いました。 主題とは関係のない部分は全部削ぎ落とし、そこにあろうとなかろうと、何かワンポイントを入れないと気が済まず、テカリがあればPLフィルターで補正してしまえと、とにかくもう、言いたい放題です。 一枚あたりの時間が数分程度しかないので、あまり突っ込んだことは言えないという制約もあるんでしょうが、激しく落胆したことは間違いありません。

耳を疑ったのは、他所で拾った桜の花びらを別の場所で散らしたり、わざと椿の花を落としてばらまいたり、余計な草花は摘み取ったりと、どう考えても非常識な行為を、先生が奨励していたことです。 もしかしたら、それはただの冗談で、本気ではないのかもしれません。 非常識だからこそ笑って聞き流せる冗談なのかもしれませんが、私にはとても耐えきれない冗談でした。

別に、何が何でも演出をしたら駄目だと言うつもりはありません。 でも、そこには守るべき最低限のルールというのがあるはずです。 被写体に「撮らせてもらう」ことを感謝できない人は、はっきり言って、写真を撮る資格はないと思います。 撮影という行為が、被写体に少なからず影響を与える行為だということは、カメラを持つ全ての人が、認識しておくべきことだと思います。

これが、単なる言葉のあやで、私の思い込みによる勘違いであればいいんですが、もし、どこの写真教室でも、こうした指導を行っているのであれば、これは大問題だと思います。 まあ、実際には、もし本当にそれらのことが行われたとしても、環境に与える影響など、考慮するに値しないほどの微々たるものでしょう。 実際、見た目を良くするために庭師が木を切ったり、盆栽の枝を切ったりというのは、日常的に行われていることです。

そう考えると、あれ、自分は何を憤っていたんだろう?なんて思います。 ただ単に、自分の撮影スタイルが、世間一般の撮影スタイルに合わなかっただけなのかもしれません。 世間知らずな私は、当たり前のことに必要以上に驚いて、カッと逆上しただけなのかもしれません。 でもやっぱり、自分の撮影スタイルは変えたくないし、なるべく自分勝手な行動はしたくないと思います。 少なくとも今は、それが一番自分らしいと思います。どうだ、文句あるか。

でも、一番がっかりしたのは、自分の写真の魅力を、まるでわかってもらえなかったことだったりして…。

自分の写真を振り返る

人の写真はともかく、自分の写真はどうなんだ、というわけですよ。

私が自分の写真を自慢するなら、好きなものを好きなように撮ってる、ということに尽きます。 写真の撮り方を誰かに教わったことはないし、目標にしている写真家もいません。 もちろん、影響を受けた写真や写真家もいますが、それを真似たり学んだりすることはあっても、それに追従し、一生ついていこうなどという気は全くありません。 これまで、散々繰り返しているように、私はあくまで自分中心なんですよね。

それと、私の写真というのは、ブログと密接に繋がっているんですよ。 ブログを始める前は、写真を撮って、それを自分で見るだけで満足していました。 つまり、その時いいなと思った光景を、写真という形でお持ち帰りして、家でも楽しんでいたわけです。 それが、ブログを始めてからは、良く撮れた写真を見せるだけでは足りなくなって、自分の好きなものをもっと伝えたいと思うようになりました。 写真が、感動を伝えるための手段に変わったわけです。

それからというもの、次第に技術的な興味が薄れていって、自分の興味に対して、より興味を持つようになりました。 自分の好きな場所、自分の好きな物、自分の好きな人。 自分は、そのどこが好きになったんだろう。 そのどこに惚れたんだろう。 そのどこを愛しているんだろう。 それらの感情は、果たして本当に自分の中に存在しているんだろうか。 そうして、どう撮るかよりも、何を撮るかを重視するようになりました。

いや、正確には、撮ることよりも、感じること、伝えることの方が、ずっと大きな存在になったんです。 技術的に大したことなくても、ありきたりでありふれたことでも、それをじっくりと味わうことができて、その感動を正確に伝えることができたら、それが何よりも楽しくて、幸せなことなんじゃないかなぁと思うようになったんですよ。 そのおかげで、どんなに地味な写真でも、自信を持って撮れるようになりました。

そう思えるようになれたのも、自分の求めるものを求めて、毎日のようにあちこちを歩き回って、写真を撮りまくり、片っ端からブログの記事にしてきたからです。 ただ写真を載せるだけじゃなくて、その時の出来事や感じたことを文章にしたり、そこから学んだことを短い詩にしたり、新しい物語を作り上げたりしてきたから、撮影する時に自然と文章や詩や物語が浮かんでくるようになれたんですね。

だから、誰に何と言われようと、自分の写真は自分だけのオンリーワンだと胸を張って言うことができます。 まあ、実際に直接批判されたりしたら、グサリグサリと心が傷ついて、激しくへこんでしまうんでしょうけど…。 そんな時は、それがどうした、それがナンボのもんじゃいって反撃すればいいんです。 もちろん、なるほど!と思ったことはどんどん取り入れればいいし、アホかと思えば無視すればいいんです。

何かを楽しむって、そういうことなんじゃないかなぁ。

具象と抽象の間で

このところ、写真展を観る度に感じることがあります。

それは、写真のイメージの貧困さです。 こう感じるのは、私の天の邪鬼気質によるものなのかもしれませんが、どこかで見たことあるようなイメージばかりで、その撮影者ならではの視点というのが欠けているように思うのです。 確かに、撮影者ごとに興味の対象が違っていたりして、それぞれに個性が出ているんですが、それぞれの対象の捉え方というのが、どうにもありきたりで、つまらないんですよ。

写真には、大きく分けて、被写体寄りと撮影者寄りの二つの撮り方があります。 被写体寄りだと、被写体の魅力を最大限に引き出すために、写実的、具象的になり、撮影者の影は薄くなります。 撮影者寄りだと、撮影者の印象や感情が最優先されるため、抽象的になり、今度は逆に被写体の影が薄くなります。 でも、「写真とはこういうものだ」というイメージができあがってしまうと、そのイメージが最優先されて、被写体も撮影者も両方影が薄くなってしまいます。

ただ、だからといって、撮る前にどちらのスタイルにするかをいちいち考えていては、やっぱり型にはまったつまらない写真になってしまうでしょう。 被写体と出会って、これはすごいと思えば、被写体優先で撮るし、個人的な事情で感情的になっている時には、その気持ちを写真にぶつけることだってあります。 どちらにしろ、自分の注意が外に向いているのか、それとも内に向いているのか、そのことに気づいて、それに正直になることが必要でしょう。

しかし、具象か抽象かというだけでは、あまりに単純過ぎます。 被写体も撮影者も、最初は別々に存在していますが、撮影者が被写体に気づいた瞬間から、お互いに作用し合う関係へと変わるので、そこから具象と抽象の綱引き…じゃなくて、玉入れが始まります。 ん、どうして綱引きじゃなくて玉入れなの? それは、綱引きが力のぶつかり合いなのに対して、玉入れは能力に応じて点が加算されていくからです。

綱引きは、相手を打ち負かす競技なので、勝った方しか後に残りません。 でも、玉入れは、勝った方にも負けた方にも、点数が入ります。 綱引きは、勝つか負けるかの緊張感が魅力ですが、玉入れは、激戦になるほど点数が増えていき、玉を数える時の楽しみが増えます。 もし、玉入れの結果が0対1だったら、ものすごくしらけてしまうでしょう。 具象と抽象も、お互いに刺激し合っているから、写真がどんどん良くなっていくんですよね。

私が感じた「イメージの貧困さ」の理由は、この玉入れの得点の低さにあるんじゃないかなぁ。

写真を撮る人、写真を観る人

今日は、モノクロろくろく展を観に行ってきました。

モノクロろくろくって何?のらくろ?という人のために解説すると、66判という中判カメラの形式があって、それの白黒フィルムで撮った写真という意味です。 66判というのは、6cm x 6cmなので、通常の35mmよりもずっと面積が広く、縦横比もぴったり正方形になってます。 白黒フィルムは自分で現像ができるので、表現の幅も広がります。 つまり、緻密な描写、安定感のある比率、豊かな表現力という、こだわりの詰まった写真展というわけですね。

そんなわけで、会場に入った瞬間に、これまでの写真展とは明らかに異なる、静かで格調高い空気を感じました。 こじんまりとした部屋の中で、おじさま達が穏やかに談笑していて、これまでになく大人の味わいです。 この会場には、スロウなジャズが似合いそうです。 約8人が、それぞれ約8枚の写真を展示していたんですが、どれも落ち着きのある写真ばかりで、まさに私好みの写真達でした。

田舎の長閑な風景、古びた町並み、表情豊かなお年寄り、川での生活風景、石垣のある田園風景や、それぞれの人に刻まれた表情。 どの写真も丁寧に撮られていて、観ていて安心感があります。 それぞれ、自分のテーマを撮影し、写真を選んでいるので、いわゆるドキュメンタリーの味わいがあります。 う〜ん、こだわりのある人達の写真は、やっぱりキレが違うな〜、と関心しきりでした。

ところが、一通り見終わって、逆回りで二周目に入ると、少しずつ物足りなさを感じるようになりました。 どれも良い写真なんだけど、なんかこう、どこかで見たことあるような気がして、満足感が足りない感じがするんですよ。 一言でいうなら、「ありきたり」ですね。 きちんとまとまり過ぎていて、消化が良過ぎるんですよ。 もうちょっと、食べごたえがあると、もっと満足できるんだけどなぁ。

もっとも、その落ち着きのある消化の良さが、この写真展の魅力なんでしょうけど、写真が良いだけに、さらにその先を期待しちゃうんですよね。 あまりに淡々としていて、その人とテーマとの関連性というのが、どうもよく見えてこないんですよ。 確かに、技術力は素晴らしいし、写真から感じるものもあります。 でも、何でそういう写真を撮り続けてるんだろう? もしかしたら、テーマさえ与えれば、何でも上手に撮っちゃうんじゃないかなぁ。

ただ、これは写真を撮る側の問題じゃなくて、写真を観る私自身の問題のような気がします。 私は、写真展に何かを期待して、その写真を観ています。 同じ撮影者として、学ぶところ、盗めるところはないかと期待して、写真を眺めているわけです。 もちろん、鑑賞者としての見方もしているつもりですが、どこか受け身になりきれてない部分があるんです。 そう、もっと積極的に共感できる、情熱的なものを求めているんですよ。

写真展の帰り道、撮り歩きをしながら、普通の人達は、一体何を求めて、写真展に足を運ぶんだろう、なんてことを、ぼんやりと考えました。 ただ単に写真が好きだから?それとも未知の世界を見てみたい? もしかして、これまで味わったことのないような感動を求めてる? 実は、写真展って仲間同士のお祭りみたいなものなのかも? これまで、写真を撮ることばかり考えていたので、写真を観る人の心理を知りたくなりました。

今回は、いろんな意味で、勉強になる写真展でした。

ちょっと本音を書いてみる

本当のことを言うと、今回の写真展は、かなりこたえました。

これまで観てきた写真展は、どれも技術的なレベルの低いものが多かったので、なんだかんだと偉そうなことを言えたわけですが、今回のふたつの写真展は、どちらも高い技術力を駆使しているものが多くて、その迫力に押され気味でした。 ちょうど、写真教室に提出するためにプリントした写真を3枚持っていたわけですが、もし一緒に並べたとしたら、あまりに地味過ぎて、誰にも見向きもされなかったかもしれません。

前に、地味でもいいじゃないかと開き直ったこともありましたが、こうして技術力の高い写真を目の当たりにしてしまうと、私の地味写真はどうしても見劣りしてしまいます。 自分の写真を擁護するならば、私の写真は、単独で観ることで初めてじわじわと味わいが出てくる写真なんです。 だから、他のギラギラした写真達と並べてしまうと、口を塞がれたように押し黙ってしまうんです。

いや、実際に写真を並べてみたわけじゃないので、本当のところはまだわかりませんが、写真展通いを始めて、初めて「負けた」と思いました。 写真の味わい深さでは勝ってると言いたいところですが、第一印象で蹴られてしまったら、もう二度と観てもらえないのです。 これまで、ずっと単独で撮り続けてきただけに、大人数での競争の厳しさというものを、ひしひしと感じたのでした。

ただ、だからといって、地味な写真をやめて派手写真に転向するかというと、決してそんなことはしません。 もう、断じていたしませんよ。 なぜなら、もし、自分の写真に派手な要素を盛り込んだとしたら、その分だけ地味な要素が影を潜めて、途端に魅力のない写真になってしまうでしょう。 無理してそんな駄目写真を撮るくらいなら、このまま単独で撮り続けていった方がまだマシというものです。

どの分野でも、本気で熱意を持って取り組んでいる人の技には、必ずキレを感じるものです。 そして、その切れ味の鋭さに惚れ惚れすると同時に、鮮やかな切り口の中から独自の世界が見えてくるものです。 でも、今日のキヤノンの写真展は、無駄に切れ味ばかり鋭くて、中身が空っぽの写真が多かったように思います。 料理だって、何でも千切りにすれば良いってものじゃなくて、食材に合わせた切り方というのがあるんですよね。

…と、自分を勇気づけたところで、明日も頑張って地味写真を撮ってやるぞ!

長田神社で神社について考える

今、一番お気に入りの場所は、鹿児島駅周辺ですね。

どんどん近代化していく鹿児島中央駅周辺とは対照的に、鹿児島駅周辺は、今も古き良き時代の面影が色濃く残っているので、昔から興味はありました。 過去にも何度か撮ったことがあったんですが、あんまり馴染みのない場所でもあったので、なかなか撮りづらかったんですよね。 でも、鹿児島高野山(1 2)を発見したことで、鹿児島駅周辺が一気に馴染みのある場所に変わったんですよ。

それから、易居商店街を撮ったりもしたんですが、ちょっと遠いこともあって、撮りたい気持ちはありながら、なかなか撮りに行くことができませんでした。 2ヶ月前に、高野山の奥に当たる長田町を探検したことがあるんですが、鹿児島が誇る児童文学作家である椋鳩十の旧宅跡を探している途中で道に迷って、この長田神社を偶然見つけたんです。 でも、おじさんがベンチにごろりと寝転がっていたので、あんまり写真を撮れなかったんですよ。

そこで、市立美術館で写真展を観た後、長田神社まで足を伸ばしてみました。 今回は、境内に誰もいなかったので、存分に写真を撮ることができました。 改めて良く見てみると、かなり立派な作りの神社です。 案内板を見ると、創建されたのは承久三年(1221年)、後鳥羽上皇の時代ですよ。 そして、水の枯れた手水屋の台座には、天明七年(1787年)と刻まれていました。

木造の建物は、あちこち補強されていましたが、実に立派な作りをしています。 そして、この拝殿の広さから、多くの人達によって参拝されてきたことがわかります。 細かい彫刻が施されていたりして、実に格調高い作りをしている反面、老朽化が相当進んでいるようで、あちこちで痛々しい姿が見られました。 最近は、どの神社も財政難に苦しんでいて、境内を駐車場にしたりしているそうですが、何とかならないものですかね。

とはいえ、私だって、普段は参拝してもお賽銭は入れないし、入れてもせいぜい5円か10円です。 神社は好きだし、境内の雰囲気も好きだけど、神様のご利益を本気で信じているわけでもありません。 でも、やっぱり神社はずっと残って欲しいし、どこかに祈れる場所はあって欲しいと思います。 そもそも、神社って、一体どうやって運営、管理しているんだろう。 この神社は、社務所すら見当たらないし…。

神社について知らないことが、まだまだたくさんあるようです。

習い事のスタイル

今日は、ふたつの写真展を観に行ってきましたよ。

一つ目は、大田憲子「残したい素敵な風景」写真展です。 土曜日に写真教室に提出する写真をプリントしてもらいに行くと、カメラ屋さんのカウンターに案内が置いてあったんですよ。 場所も近いので行ってみると、ホテルのロビーに20点ほどの写真が展示されていました。 写真歴4年ということでしたが、技術力も高く、ハッとするような美しい写真ばかりでした。 写真に添えられた一言が、とても良い味を出していましたよ。

二つ目は、市立美術館で行われていた、キヤノンフォトクラブ鹿児島写真展です。 一目見ただけで、これまでの展覧会とは技術レベルの違うことがわかりました。 さすがキヤノンと名が付くだけあって、写真の数も多く、それなりに見応えがあったんですが、なぜか楽しめないんですよ。 それどころか、次第に悲しくなってきて、涙ぐみながら大きなため息をついたりする有様でした。 一体どうしちゃったんでしょう?

どの写真も、コントラストが高めで、彩度も高く、見栄えの良いものばかりでした。 メインの被写体の捉え方や、背景の処理もうまくて、画像処理も効果的に施されています。 そういう意味では、とても上手な写真ばかりなんですが、どの写真にも魂が入っていないような気がして、観ているうちに、だんだん怖くなってきました。 何というか、撮影者の背後に、何者かの黒い影が見え隠れしているんですよ。

会場にいた会員さん達は、とても楽しそうに談笑しています。 この人達は、本当に写真が好きなんだろうな、と思います。 でも、それだけに、並べられた写真の不気味さが強調されて、ますます気分が悪くなってきます。 気を取り直して、受付の人に活動内容を聞いてみると、月に一度、写真を持ち寄って、品評会をするそうです。 そして、各自一枚だけ写真を選んで本部に送ると、プロの写真家によって添削され、修正写真と共に返ってくるんだそうです。

なるほど、私の感じた不気味さは、ここに原因があるようです。 要するに、本部のブロのカメラマンが、背後で撮影者に糸を付けて操っていたわけですね。 こう書くと、自分でも人聞きの悪い書き方をしてるなぁと思いますが、本当にそういう印象を受けたんだから仕方ありません。 でも、良く考えたら、お手本に習って技術を学んでいくというのは、写真に限らず、いろんなところで行われていることなんですよね。

私は、昔からそういう習い事が大の苦手だったので、今でもそういうやり方に反発してしまうんでしょう。 小学校では、自由に絵が描けたので、絵を描くのが大好きだったのに、中学校に入ると、あれこれと描き方を指示されるようになって、絵を描くのが大嫌いになりました。 特に、定規を使った遠近法による教室の絵を描くのが本当に辛くて、今でも夢に見るくらいです。

もちろん、一般常識として、あるいは仕事として、何かを学ばなければならないのであれば、たくさんのお手本を見ていった方が、ずっと理解も早いし、技術の習得もしやすいものです。 でも、個人的な趣味だったり、自分の世界を作り上げていきたいのであれば、もっと自由に撮っていった方がいいんじゃないかと思うのです。 ただ、写真を通して、仲間を作って仲良くしたいというのであれば、むしろこういう習い事スタイルの方が良いのかもしれません。

今週末の写真教室が、一体どんなスタイルで行われるのか、今から楽しみです。

バラエティとドキュメンタリー

慣れない人物撮影について考えていたら、突然、自分の撮影スタイルが、はっきりと見えてきました。

私の撮影スタイルは、バラエティじゃなくて、ドキュメンタリーなんです。 バラエティの写真家は、いろんな女の子に、いろんな服を着せて、いろんな場所で撮ります。 でも、私の場合は、ひとりの女の子の、性格や興味、過去の生い立ちや、未来への希望などを聞き出して、それらを全部ひっくるめた「今」の写真を撮りたいんです。 そして、それは女の子に限らず、あらゆる被写体に対しても、同じ想いでいることに気づいたんです。

確かに、過去を振り返ってみると、新しい撮影場所を開拓するよりも、同じ場所を繰り返しとることの方がずっと多いんですよ。 同じ場所の同じものを同じように撮って、後で寸分違わぬ写真を撮っていたことに気づいて苦笑いしたり、前より良く撮れたとほくそ笑んだり。 そして、最初の頃に撮った写真を見返して、「何だこの下手な写真は」とか「こんなにすごい写真を撮ってたのか」とか、いちいち驚いたりするんです。

こうして、自分の変わらないところ、変わったところを、写真を通して見るということは、それが自分自身のドキュメンタリーになってるということなんですよね。 それはそれで、とても面白いことなんですが、神社や石像を撮るようになった頃から、少しずつ被写体そのもののドキュメンタリーを意識するようになってきました。 そして、アメフラシを撮っている時に、それはより明確なものになっていきました。

アメフラシを初めて見た時、その奇異な姿に興味を引かれました。 もし、私がバラエティを求めていたとしたら、興味はより種類の豊富なウミウシの方に向かっていたことでしょう。 でも私は、ひたすら同じアメフラシを追い続けました。 その甲斐あって、アメフラシについて詳しくなれたし、愛情を持って触れ合うこともできるようになりました。 こうした深い関係を結べるのは、ドキュメンタリーならではの利点ですね。

もちろん、バラエティにはバラエティの良さがあります。 気負いせずに、軽い気持ちで、いろんなものを楽しむことができるので、興味のきっかけをつかむには、とても良い方法だと思います。 その代わり、それだけで全てを知ったような気になってしまい、探究心をなくしてしまう危険性も持っています。 ドキュメンタリーは、ひとつのことをより深く知ることができますが、あまり深追いし過ぎると、逆に周りが見えなくなってしまいます。

私はドキュメンタリーが得意なので、何か興味を引くものを見つけたら、一気に掘り下げていきます。 でも、ふと我に返った時に、自分を見失ってしまいがちなんですよね。 だから、そんな時は、バラエティ撮影に切り替えて、新しい興味を探していきます。 ここで、無理してバラエティを続けてしまうと、今度は手応えのなさに虚しさを感じることになります。 結局、バラエティとドキュメンタリーの使い分けが大切なんですよね。

あなたは、バラエティとドキュメンタリー、どちらが好きですか?

柱のクッション

進化というのは、意外と不器用で、格好悪いものです。

今から10年前、桜島フェリー乗り場が、桜島フェリーターミナルとして生まれ変わりました。 地味な私は、昔のローカル色豊かな、懐かしさと風情を感じるフェリー乗り場が大好きだったので、今風の幾何学的で無機質なフェリーターミナルがどうも好きになれませんでした。 なので、この無様なクッションを初めて見た時は、「だから新しい建築は…」と、軽蔑したものです。

誰かは知りませんが、このターミナルをデザインした建築家の人は、コンセプトとか美意識を優先して、公共施設としての安全性とかはあまり考えていなかったんでしょうね。 確かに、内部にむき出しにされた斜めの柱は、力強さを感じますし、窓をより広く取ることができるようになります。 でも、窓が広くなると、人は外を眺めたくなります。 すると、斜めの柱に頭や足をぶつけたりする人が出てくる、というわけです。

柱である以上、撤去することもできなければ、柔らかい素材に入れ替えることもできません。 そこで、苦肉の策として、クッションを巻き付けて、ぶつけても痛くないようにしたわけです。 もし、最初から安全性を最優先していれば、きっとこんなデザインにはしなかったでしょう。 でも、滅多に建て替えるものじゃないので、できるだけ未来的で格好良い建物にしたかったんでしょうね。

ところが、長い年月が経ち、新しいフェリーターミナルにも慣れてくると、この不格好なクッションに、妙に親しみを感じてしまうんですよ。 以前よりもクッションの面積が広がってはいますが、根元の方は柱の鉄筋がむき出しなので、私のように裸足でサンダルの人がうっかり小指をぶつけてしまう可能性は高く、相変わらず危険な存在です。 でも、クッションの巻き付け方も洗練されてきていて、これがまた良い感じなんですよ。

自分の身体も性格も、どちらも授かり物ですから、後から取り替えることはできません。 いくら、長身で痩身が望ましいとか、聞き上手の褒め上手が望ましいとか言われても、どうにもならないんだから仕方ありません。 だから、最初のうちは、ぶつかって痛い思いをすることだってあるでしょう。 でも、ぶつけたところに少しでもクッションを巻いてくれれば、その効果よりも、その配慮が嬉しいんですよね。

そうやって、お互いにクッションを巻いていくことで、お互いに仲良く、丸くなっていくんでしょうね。

二人だけの食事会

ドラゴンさん、就職内々定、おめでとう!そして、ご馳走様!

女性を撮れるかも

今日は思い切って、知り合いの女性に、写真のモデルをお願いしてみました。

私の写真の持ち味は、身近でありふれたものの魅力を見つけ出すことです。 これは、自分でもそう思うし、これまで頂いた数々のコメントからも、間違いないと思います。 でも、それは裏を返すと、お手軽で撮りやすいものだけで満足してしまっているということでもあります。 ここ最近、自分の写真に行き詰まりを感じているのも、ここに原因があるんじゃないかと思うのです。 そろそろ、今まで撮ったことのない写真を撮ってみるのも、いいんじゃないかなぁ。

じゃあ、何を撮ろうかと考えて、真っ先に思いついたのが、女性の写真です。 これまで、近所の町並み、神社や石像、木々や草花、バイクアメフラシなど、いろんなものを撮ってきましたが、人物だけは撮ったことがないんですよ。 一時期、少しだけ繁華街の人通りを撮るのにハマったことがありましたが、肖像権の問題から、事実上封印されてしまいました。 あれは、かなり面白い写真が撮れていただけに、今でも残念でなりません。

でも、知り合いにモデルとして撮影を許可してもらえば、堂々と好きなだけ写真を撮ることができるわけです。 男女どちらでもいいわけですが、自分が男である以上、やはり女性の方が、気合いの入り方が違うというものです。 もちろん、相手の意思を最優先して、撮って欲しくないところは撮らないし、断りなく触れるようなこともしません。 撮った写真を確認してもらって、気に入らない写真があれば、その場で削除します。

今回、モデルをお願いした女性は、今現在、私が知ってる女性の中で、最も美しい人です。 まあ、知り合いの女性の数自体が少ないので、その辺りは微妙なところですが、少なくとも私の美意識に強く訴えてくるものを持った人であることは間違いありません。 ただ、これまでしょっちゅう顔は合わせてきたものの、話す機会はほとんどなかったんですよね。 こんな状態で、本当に満足のいく写真が撮れるのかなぁ。

欲をいえば、月に一度くらいで、定期的に撮らせてもらえると嬉しいんですが、相手の都合もあれば、お互いに相性もあるでしょうから、それは難しいかもしれませんね。 でも、たった一度の撮影だけでは、ほとんど撮っただけの写真で終わってしまうでしょう。 できれば、少なくとも三回くらいは撮らせてもらいたいですね。 その前に、ドラゴンさんに、人物撮影の練習をさせてもらおうかなぁ。

そう、恥ずかしいことに、人物撮影の経験が皆無に近いので、撮影のイメージが全く湧かないんですよね。 もちろん、自分自身のテーマとして、自然体で撮影するというのはあります。 でも、これまでの被写体と違って、人はあちこち良く動きます。 顔も動けば、手足も動くし、いろんな場所をあちこち移動します。 ところが、写真を撮るとなると、その無限の可能性の中から、どれかひとつを選ばなくてはなりません。

いわゆるポートレート写真、つまり女性をひとつの美の象徴と捉えて、その存在を美化するような撮り方は、絶対にしたくありません。 もちろん、挑発的で扇情的な写真を撮るつもりもありません。 できることなら、彼女が持つ物語を感じさせるような、彼女ならではの魅力ある写真を撮りたいです。 彼女がいつまでも自分の部屋に飾っておきたくなるような、そんな写真を撮ることができたら最高ですね。

あ、モデルの報酬は、撮影ごとに飯を奢るということでどうでしょう?

感じること、愛すること

人は、自分の好きなものには、ずっと側にいて欲しいと思うものです。

たとえば、美しい花を見つけると、それを摘んで部屋に飾ったりします。 でも、ただ摘んだだけでは、花はすぐに枯れてしまいます。 水を与えたり、日当りを良くしたりしても、やがて色は褪せ、花びらは散ってしまいます。 押し花にしたり、ドライフラワーにしたりすれば、花を長持ちさせることはできますが、美しさは失われてしまいます。 何とかして、この花の美しさを保ちたい。 その気持ちから、様々な芸術が生まれます。

ある人は、その花を絵に描いて、その色彩の美しさを残そうとします。 またある人は、その花の姿を彫刻にして、その造形の美しさを残そうとします。 中には、紙で作った花びらを一枚ずつ持ち帰ってもらって、その花の儚さを表現しようとする人もいます。 同じ花でも、どこに美しさを感じるかは、人それぞれです。 そして、それをどう表現するかも、人それぞれです。 でも、その花は、ただ自分のためだけに、花を咲かせ続けます。

石段の上に土が積もり、やがて、そこから雑草が生えてきます。 どこにでも生えている、名前も知らない、ただの雑草です。 もし、ここが人の多く集まる場所だったなら、すぐに刈られてしまっていたことでしょう。 それでも、この雑草は、そんなことを気にする様子もなく、ただ自分のためだけに、葉を広げていきます。 私は、そういう雑草の姿を見ると、とても美しいと感じるのです。

そうして、美しいと感じたものを、私は写真に撮っていきます。 写真に撮ることで、相手を傷つけることなく、その美しさを手元に置いておくことができます。 写真を撮るということは、自分がそれを美しく感じたことの証明でもあります。 撮る時には、自分が何を感じているのかわからなくても、後でその写真を観ることで、答を見つけることができます。 そして、次に撮る時には、その美しさを、より確かなものにしたいと思うのです。

美しさを感じるということと、それを愛するということは、似ているようで違います。 時は常に流れ続け、花や雑草もぐんぐん生長を続けて、やがて枯れていきます。 美しいものを求める人は、その最高の美しさを求めます。 しかし、それを愛する人は、変化を受け入れ、その変化の中で、その時々の美しさを感じていきます。 写真は、その一瞬の美しさしか写すことができません。 だからこそ、何度も何度も、繰り返し撮っていく必要があるのです。

これは、写真に限らず、人との関わりでも同じことだと思います。 その姿や心の美しさに惚れて、恋愛して、やがて結婚したとしても、その姿も心も、常に変化していきます。 もし、相手の美しさを自分のものだけにしようとして、強引に自分の手元に閉じ込めてしまったとしたら、相手は枯れたように疲れてしまうことでしょう。 お互いの存在を認め合い、その変化の中で、お互いの美しさを見つめ合うことができたら、こんなに素晴らしいことはありません。

写真を通して、そういう素晴らしさを伝えられたら、それも素晴らしいだろうなぁ。

公園のひととき

歩いたり、読んだり、飛んだり。公園のひとときは、楽しいなぁ。

縁結びの月読神社

人の縁というのは、どこで繋がっているかわからないものです。

以前、このブログで月読神社を紹介したことがあるんですが、この記事がきっかけになって、新しい出会いが会ったんですよ。 そして、この月読神社というのが、実は縁結びの神様だったんです。 おお、この出会いは、まさしく月読様のご縁によるものだ! というわけで、その人と一緒に、月読神社までお参りに行ってきました。 今朝は雲の多い天気だったんですが、さすが晴れ女というだけあって、昼過ぎには青空が広がりました。

そう、その人は運良く女性だったんですが、運悪く既婚者でした。 残念無念と思いつつ、男と女が出会ったからといって、恋愛して結婚しなければならないわけでもありません。 縁というのは、偶然訪れる心と心の出会いですから、相手が異性じゃなくても、同性でも、動物でも、植物でも、単なる物でも、何でもいいんですよね。 そう、何気ない石ころとの出会いだって、立派な縁なんですよね。

早いもので、ブログを始めてから、一年半が経ちました。 その間に、たくさんの人達と出会って、いろんな縁がありました。 鹿児島繋がりということで、Achoooo ! さんや、みみさん、Industar-22さんとの出会いもありました。 これまで、ネット上での出会いは、ネット上でのお付き合いで満足することが多かったんですが、これからは、オンでもオフでもお付き合いができたらいいなぁ。

そんなことを考えながら、月読様にご縁の報告とお礼をします。 それから展望台に上って、桜島を背景に記念撮影を撮りたかったんですが、あえなく却下。 顔は撮らない、後ろ姿、手だけ、足だけ、影だけと食い下がったんですが、どれも却下。 いつか女性を本気で撮影してみたいなぁと思っていたんですが、残念ながら次の機会へと持ち越されることになりました。 どなたか、モデルになってくれませんかねぇ。

展望台の上から、お婆さんが奥へと歩いていく姿が見えたので、その後を追っていくと、たくさんの石碑が目に入りました。 大竜、御嶽護と書かれた新しい石碑が二つに、十一面観音の古い石像がひとつ。 その前には、たくさんのお供え物があり、現在も信仰が息づいていることがわかります。 その様子に感激していると、さっきのお婆さんが声をかけてきてくれました。 「良いご縁があって良かったですねぇ」

その先には、大きな石碑があり、高浜虚子の俳句が刻まれていました。 高浜虚子といえば、教科書でお馴染みの俳人ですが、俳誌「ほとゝぎす」の主宰者としても有名ですね。 この一帯は溶岩に埋め尽くされているわけですが、この溶岩は大正三年の大噴火によるもので、その時にいくつかの村が埋まったそうです。 お婆さんに言われるまま耳を澄ますと、ホトトギスの「ホーホケキョ」という鳴き声が聞こえてきこえてきました。

熔岩に 秋風の 吹きわたりけり

意思の力

意思の力は、石のように固く、そして脆い。

近所の遺跡達

GyaOのドキュメンタリー「未来への遺産」を、やっと見終わりました。

NHKが制作した、世界中に点在する遺跡の過去、現在、未来について、ロマンあふれる映像と音楽でお送りする、素晴らしいドキュメンタリー番組です。 1974年に放映された番組だけに、あらゆる演出に古めかしさを感じるわけですが、同時に猛烈な懐かしさも感じるんですよね。 これは、ちょうど私の産まれた年だというのも関係しているのでしょう。 そこには、幼い頃の懐かしい空気を感じるのでした。

詳しいことは、実際に番組を見てもらうとして、文明の様々な歴史を視覚的に体験することができたので、内容を理解しやすかったです。 中でも、それぞれの文明の文化が、その土地に根ざしていること、文明の発達に伴って、文明同士で活発に文化の交流が行われてきたということは、とても勉強になりました。 先日の黎明館でも、この番組で学んだことがずいぶん役に立ちました。

ただ、こうした古代文明の大規模な遺跡というのは、非常にわかりやすいものの、縁遠い存在であることは確かです。 でも、自分の住んでる近所でも、歴史を感じる小さな遺跡が、意外なところにあったりします。 どこにでもあるような神社やお寺でも、何百年という歴史を背負ったものがたくさんありますし、これらのブロック塀にも、何十年という時間の重みがあるのです。

特に鹿児島は、くの字の模様の入ったブロック塀を、あちこちで見かけます。 古い神社やお寺の跡だけでなく、古い民家にも良く見られます。 これらのくの字模様が何を意味するのか、私にはわかりません。 何らかの願いが込められているかもしれませんし、何か実用的な意味があるのかも知れません。 何にせよ、このくの字ブロックを見かける度に、私は鹿児島の歴史を強く感じるのです。

これは、まさに現代に生きる近所の遺跡なんですよね。

謎の紋様の秘密

現代が生み出した、現代の遺跡。謎の紋様の秘密を探れ!

「みる」ことの意味

ものをみるには、「見る」「視る」「観る」の3つがあります。

「見る」は、対象を目で捉えること、「視る」は、より注意深く凝視すること、「観る」は、観察することで観念を形成することです。 こうして比べてみると、見ることは視ることに繋がり、やがて観ることへと発展していくことがわかります。 ただ、こう書くと、観ることができるようになるまでに、ずいぶん時間がかかりそうですが、大抵は、あっという間に到達してしまいます。

たとえば、産まれたばかりの赤ん坊は、母親の顔を見て、すぐにその顔を覚えます。 そして、母親の顔を視ることで、表情の違いを認識して、やがて、母親という存在を観るようになります。 こうして、たくさんの母親の姿を見て、その様子を視ることで、自分の観る母親像を、次第に強化していきます。 この「見る→視る→観る」の循環によって、自分の外にいる母親を、自分の中に取り込んでいるわけですね。

美術品というのは、自分の観たものを、手作業を通して視ていくことで、目に見える形にしたものです。 つまり、「観る→視る→見る」という、逆の過程を通して、目の前の対象を、別の形に還元するわけですね。 元々は同じものでも、その過程の様々な要因によって、両者はずいぶん違ってきます。 それは、それは技術的な問題だったり、無意識によるものだったり、意図的なものだったりします。

古代の人達は、大地の恵みや子孫の繁栄を願い、それを目に見える形にすることで、その願いを叶えようとしました。 中世の人達は、人としてより良く生きていくために宗教を発展させ、それをより多くの人達に広めるために、その教えを目に見える形で表現しました。 現代の人達は、有用な科学の発展を受け、過去のしがらみから人間を解き放つために、目に見える形で人々を啓蒙してきました。

そして、これからは、先人達が開墾した自由の大地との新しい関係を観て、それを目に見える形で表現していく時代になります。 ただ、どれだけ時代が変わっても、生きるということの意味は、決して変わらないように思います。 それは、育つこと、交わること、増やすこと、そして、それを繰り返すことだと思っています。 これらのことは、従来の狭い意味を超えて、より広い意味で捉えていく必要があります。

その新しい意味を観るためには、やはり、目に見える形が必要なんでしょうね。

本物って素晴らしい

今日は、黎明館の展示を観てきましたよ。

これまで、黎明館の裏庭には二羽鶏がいる…じゃなくて、良く写真を撮りに行っていたんですが、肝心の黎明館の展示は、まだ一度も観たことがなかったんですよ。 ずっと入場料が高いと思い込んでいたんですが、実はたったの300円で、三階建ての館内の全ての展示が見れちゃうんだから、これは安いです。 一階当たり、たったの100円ですよ! そういえば、市立美術館も、二階建てで200円なので、これが公共施設の相場だったりして。

黎明館の正式名称は、鹿児島県歴史資料センター黎明館で、文字通りの鹿児島県の歴史資料をはじめ、民俗資料、美術品などの展示を行っています。 今回の一番の目的は、前にポスターを紹介した薩摩刀 波平を観ることです。 昼過ぎに家を出て、市役所横のお気に入りのラーメン屋「幸楽」で腹ごしらえをしたら、時刻は午後3時。 閉館時間は午後5時だから、2時間たっぷり楽しめます。

チケットを買って常設展示の中に入ると、いきなり鹿児島の自然風景のジオラマがお出迎え。 その迫力に感激して、これだけで黎明館に来て良かった!なんて思ってしまいました。 それ以降は、鹿児島の歴史を古代、中世、現代の3つに分けて展示していましたが、展示方法としてはごく普通のものでした。 でも、第一印象が強烈だと、最後までじっくり観てみようという気になるので、このあたりはさすがによく考えられていますね。

ところが、一階を観終わったところで、もう4時でした。 げ、まだ二階、三階もあるのに、あと一時間しかないや。 二階には民俗資料、三階には美術品と例の波平がありましたが、気持ちが焦ってしまって、じっくり鑑賞する余裕がありませんでした。 結局、どんなものがあるのかをさっと眺めただけで、時間切れになってしまいました。 ああ、せっかくの300円が…と悔しく思いつつ、次は一日がかりでじっくり観てやろうと思ったのでした。

今回の大発見は、黎明館が文字通り宝の山だということです。 黎明館自体が、鶴丸城跡という遺跡の上に建っているわけですが、中には、ロマンあふれる古代遺跡から発掘された土器や、当時の生活を知ることのできる民芸品、多くの人達の心を動かしてきたきらびやかな美術品の数々が、ぎっしりと詰まっているのです。 こうした感動は、本を読むだけでは決して味わうことのできない、本物の味わいがありますね。

自分の住んでいる土地に、こんなに深い歴史があったのかと思うと、胸が熱くなってきます。

うれしいこと

陽の光をいっぱいに浴びると、とっても嬉しくなるのです。

応援してるよ

ほらほら、いつまでもサビついてないで、元気出しなよ!

かなしいこと

悲しみは、哀しみを呼び、やがて愛しみに変わる。

写真を「撮る」仲間が欲しい

昨日は、市立美術館のフォトグループSUMI写真展を観てきました。

実は、前回の記事で、展覧会の名前を間違ってたんですよ。どうも済みませんでした。 今週開催されるのが、本物のフォトグループSUMI写真展です。 この手の小規模な写真展はこれで3回目ですが、正直言ってあまり印象の良いものはありませんでした。 私が会場に入っても、係の人は軽く会釈する程度で、後は皆知らんぷりだし、展示している写真も、綺麗にまとまってるものの、面白味に欠けるものが多かったです。

ところが、今回の写真展は違いました。 私が会場に入るなり、大きな声で「こんにちは!」の挨拶があり、鑑賞を邪魔しない程度に、気さくに話しかけてきてくれました。 展示している写真も、何だかな〜と思う写真もあるものの、これはと目を引くものも結構ありました。 撮影者ごとにテーマがはっきりしていて、写真展としても近所の風景というテーマが与えられていて、なかなか見応えがありました。

このフォトグループSUMIというのは、住さんという方がされている写真教室です。 月に2回、それぞれが3枚ずつ写真を持ち寄って、お互いに写真を評価し合うんだそうです。 自由参加で、基本的に会費は無料。 面倒な会則なども一切なく、写真を通して交流を楽しめるようにされているそうです。 う〜ん、これはもしかしたら、私にぴったりの写真教室なんじゃないかなぁ。 場所も結構近いし。

最近は、自分のスタイルに行き詰まりを感じることが多くなっていたので、これはちょうど良い機会かもしれません。 というわけで、今月末から、この写真教室にお邪魔させてもらうつもりです。 これまで、ずっと自己流で撮ってきて、自分の写真にも自信がついてきたし、ブログのおかげで、自分の写真を見てくれる人達にも恵まれました。 でもやっぱり、同じ撮る仲間というのが欲しいんですよね。

これから、私の写真がどう変化していくのか、楽しみにしていてくださいね。

植物に動きを感じよう

いつも思うんですが、実は植物も動いているんですよね。

草花にカメラを向けると、風が吹いて揺れ動いたりするわけですが、そういう意味じゃなくて、じっとしているように見えても、どこか動きを感じるところがあるんですよ。 実際、人間の感覚ではじっとしているように見えていても、長い目で見れば、植物もゆっくりと生長しながら、じわじわと動いていることに違いはありません。 ただ、その動きを感じることは、太陽の動きを感じる以上に困難なことだと言えるでしょう。

このように、植物の動きそのものを直接感じることは不可能に近いわけですが、植物ならではの方法で、その動きを感じることができます。 植物は地面に根を張って動けないので、茎や蔓、幹や枝を伸ばしていくことで、その勢力を広げていきます。 すると、その姿そのものが、その生長の過程を現すことになります。 つまり、植物は体全体で、自分の動きを表現しているわけです。

そのため、植物の姿をじっくりと観察していくと、その成長の過程がだんだんわかってきます。 動物でも、子供と大人とでは、その姿形はずいぶん違うものですが、植物では動物以上の違いです。 動物の場合は、基本的に相似形で縮尺だけが変化していきますが、植物の場合は、次々と増改築を繰り返しながら、生長とともに賑やかな姿へと変わっていきます。 植物では、老人と若者が同じ体に同居しているんですね。

そういう生長の軌跡がはっきりしているということは、これから生長していく先も推測できるということでもあります。 植物は、先へ先へと延びていく途中で、定期的に伏し目を作って、同じことを何度も繰り返しながら生長していきます。 その先には何もない空間が広がっていたとしても、そこにはすでに植物の生長予想図が描かれているのです。 それが見えてくると、植物の見え方がずいぶん変わってきます。

植物を見て心が癒されたりするのは、そういう生長の過去、現在、未来を見ることができるからなのかもしれませんね。 優れた芸術作品に心を動かされるのも、そこに作者の成長の過程が刻み込まれているからなのかもしれません。 見る人は、そこに自分の姿を重ねて、無意識のうちに、自分の過去、現在、未来を見ているのでしょう。 その証拠に、切り落とされた植物には、無念さと無常を感じます。

植物は、静かに、少しずつ、ゆっくりと、生長していきます。

賑やかな春

実は最近、彼女ができて同棲を始めたんです。

といっても、私のことじゃなくて、うちのアパートの住人の話です。 彼は中国人留学生なんですが、少し前から同じ中国人の彼女ができたみたいで、彼女が遊びにくる姿を良く見かけるようになりました。 それ以来、共同の台所で仲良く料理を姿を良く見るようになり、交際は順調に進んでいるようでした。 私が彼らと会話を交わすことはほとんどありませんが、その光景を微笑ましく見守っていました。

ところが、彼らが一緒にお風呂に入るようになってから、事態が変わり始めました。 うちのアパートには共同のシャワー室があるわけですが、私の部屋の真下に位置しています。 そして、その良く響くシャワー室の中から、ふざけながらはしゃぎ合う二人の声が、夜な夜な聞こえてくるようになったんです。 もちろん中国語なので、幸いにも何を話しているのかはわからないわけですが、それがまた想像力を掻き立てたりするんですよ。

でもまあ、ここまでは良くある話で、許容範囲だと言えるでしょう。 ところが、ここ一週間くらいから、ついにあの行為の声が、昼夜を問わず、聞こえてくるようになったんです。 これも良くある話ではあるんですが、違うのはとにかくその声が大きいことです。 どうやら窓を明けっ放しにしているようで、こちらが窓を閉め切っていても、女性のリズミカルな声が、断続的に聞こえてくるんですよ。

最初は、盛りのついた猫の鳴き声かと思ったんですが、どうも違う。 誰かが酔っぱらってAVでも見てるのかとも思いましたが、生々しさが違う。 あっと気づいた時には、喜んで聞き耳を立てたりもしたんですが、こう立て続けに続くと、すぐに興味は失せてきます。 それでも、その切ない声は、独り身の私の心を大きく揺さぶってきます。 この声は、近所中に響き渡っているわけで、同じように悶々としている人も多いんじゃないかと思います。

彼らは、休みの日になると、大声でわいわい騒いだり、非常識なまでの大音響で音楽をかけたりするので、もしかしたら、国民性の違いによるものなのかもしれません。 さすが、人口が多いだけに、そういうことにも開放的なのかもな、なんて妙に感心したりもします。 あと一ヶ月もすれば、私もすっかり中国ナイズされて、開放的な男になってるかも。 …なんてことは、やっぱりないだろうなぁ。

なんだかんだ言っても、やっぱり春っていいよなぁ。

誇りと意地と虚栄心

人は、自分自身に対して、様々な感情を持っています。

中でも、誇りと意地と虚栄心というのは、混同しやすいものです。 誇りは、自分に価値を認めること。 意地は、自分の意見を押し通すこと。 虚栄心は、自分をより良く見せようとすることです。 これらは、こうして言葉を並べてみると、その違いがすぐにわかります。 でも、心の中では、それらがお互いに引っ張り合いながら、自己主張を繰り広げていて、自分の都合の良いように解釈してしまうことが多いように思います。

誇りは、自分が自分として存在するために、もっとも重要な感情です。 誇りがなければ、自分は何の役にも立たない、取るに足らない、詰まらなくて駄目な人間だと思うようになります。 一度誇りを失ってしまうと、自分の駄目な部分ばかりを見るようになり、自己嫌悪の悪循環にはまってしまいます。 そこから脱出するためには、今の自分にできることだけを見つめて、そこを出発点として、手の届く範囲で、少しずつ自信をつけていくことです。

意地は、自分の個性を確立するために、必要不可欠な感情です。 いくら自分に価値を認めて、そこに誇りを感じていても、相手がそれを必要としていなかったり、理解してくれなければ、意味がありません。 そこで、自分の価値を信じて、それが相手に伝わるまで、繰り返し主張するための、心の強さが必要になるわけです。 でも、意地を張り過ぎると、大した価値もないのに、自己主張することに明け暮れてしまう危険性があります。

虚栄心は、自分を過大評価することによって生まれる感情です。 自分の価値を探したり、磨いたりする努力をせずに、まだ見ぬ価値の存在だけを妄信する人。 自分の価値がわからないのは、相手に見る目がないからだと、全てを相手のせいにしようとする人。 そういう人達は、次第に自分の殻に閉じこもるようになって、やがて抱えきれないほどに大きくなった虚栄心に、押しつぶされることになるでしょう。

このように、誇りを大切にし、意地に注意し、虚栄心を警戒することが、自分が自分でいるために必要なことなのです。 誇りは育てるものであり、意地は調整するものであり、虚栄心は戒めるもの。 それを忘れてしまうと、それらのバランスが崩れ、誇りを失ったり、意地っ張りになったり、意気地なしになったり、虚栄心で自分を見失ってしまったりしてしまいます。

生きてるうちから石頭になってしまうのは、ちょっと早過ぎますよね。

手料理のおもてなし

ドラゴンさんのお宅で、手作り麻婆丼を頂きました。どうもありがとう!

機転をきかせる

同じ文字を眺め続けていると、やがて生き物のように動き出す。

光の隙間

期待に反して、その幅は狭い。でも、それがいい。

束縛する心

自分の心の鍵。相手を束縛する鍵。

絵画と写真と彫刻と

今日もまた、市立美術館へと行ってきました。

今回のお目当ては、全日本写真連盟鹿児島県本部写真展です。 でも、この間のかごしま社会保険センター写真教室専修初級修了作品展と同じで、これはと思う写真は見当たりませんでした。 …なんて書くと偉そうですが、本当なんだから仕方ありません。 えっと、どんな写真があったっけ?と、思い出そうとしても、何も浮かんでこないような有様です。 来週からは、フォトグループSUMI写真展というのがあるそうなので、そちらを楽しみにしたいと思います。

一方、一般展示室で行われていた九州美術の現況展の方は、予想以上に面白かったです。 写真と絵画の違いというよりも、素人の趣味とプロの芸術の違いを見せつけられたような気がしました。 もちろん、何が良いのかさっぱりわからない、私には理解不能なものもありましたが、理解はできないものの、完成されたものとしての必然性を感じるものもあったりして、芸術の奥深さをひしひしと感じました。 これは、芸術作品と直接対峙しないと、決してわからない世界でしょうね。

美術の中では、絵画というのは古典的なものになっているようで、今では、飛び出る絵本のような立体的なものも多かったです。 絵画は、写実的な領域を写真に取られ、立体的で造形的な部分は、こうした彫刻的なものに取られ、徐々に肩身を狭くしているようで、ちょっと可哀想でしたね。 でも、こうして分業化が進むことで、それぞれの特色が明確になっていくのかもしれないな、なんて思いました。

デパートの山形家でも、「九州美術の現況」小作品展というのが開催されていたので、足を運んでみました。 すると、見覚えのあるこじんまりとした作品達が、所狭しと並んでいました。 驚いたのは、作品名の下に値段がついていたことです。 安いものだと3〜6万円。多くは10〜20万円。高いものだと40万円するものもありました。 中には、菱形を並べただけの、パソコンを使えば3分でできるようなものもありましたが、さすがに売約済みのシールはついていませんでした。

最近は、斜に構えたような見方をしなくなってきて、少しずつ素直に楽しめるようになってきました。 こうした芸術作品が、直接何かの役に立つことはありませんが、こうして楽しい時を過ごすことができるのであれば、十分に存在価値があるんじゃないかと思うようになりました。 それでも、まだまだ楽しみ方が足りないので、これからどんどん経験を積んでいきたいと思っています。

帰りに、みみさんお勧めのチェリーパイを初体験。この美味しさは病み付きになりそう!

蛍光灯を買いに行こう

昨日は、ダイエーまで蛍光灯を買いに行ってきました。

今のアパートに引っ越して9年、最初の四畳半の部屋から、今の九畳の部屋に移って7年が経ちました。 築何十年という木造アパートで、今時珍しく、トイレ、台所、シャワーが共同になっています。 家賃も非常に安くて、そのために、専門学校の中国人留学生が寮代わりに使っていたり、大学のサークルが倉庫代わりに部屋を借りていたりします。 おかげで、何かと騒がしくて退屈はしませんが、何かと不便の多い所でもあります。

最初の四畳半は、とにかく安いという理由だけで決めたわけですが、もともと九畳の部屋をベニヤ板で仕切っただけの構造になっていて、真ん中の窓は共用という、信じられないような作りになっていました。 だから、隣の部屋の電気を消す時のパチンという音が聞こえるくらい、音が筒抜けだったんですよ。 だから、テレビを見るのも、音楽を聴くのも、ヘッドホンが必需品でした。 隣の住人が女を連れ込んできた時には、本当に参ったなぁ。

そんなこともあって、同じアパートの九畳の部屋が空いた時には、これ幸いと部屋を移りました。 新しい部屋は、真ん中の仕切り板を取っ払ったようになっていて、この広い空間を自由に使えるのかと思うと、本当に嬉しかったですね。 この部屋は、他の部屋から隔離された状態になっていて、音が漏れるのを気にする必要は全くありませんでした。 管理会社が変わったこともあって、入居前に畳がフローリングになり、エアコンまでつけてくれました。

当時の私にとっては、まさに夢のような部屋だったわけですが、ひとつだけ難点がありました。 もともと2部屋だったので、照明の取り付け口はふたつあるんですが、照明器具がひとつしかついてなかったんです。 だから、部屋が広い分だけ、隅が暗くて、妙に惨めな気分になるんですよ。 畳の時は、それはそれで味わいがあったんですが、フローリングになってからは、妙に寒々しくなってしまいました。

そこで、ホームセンターで照明器具をふたつ買って、部屋の隅々まで明るくなるようにしました。 またそれは、私の新しい出発への決意表明でもありました。 これからは、自分のパソコンの技能を活かして、明るい未来を生きていくぞ。 そうして、新しい明るい部屋と共に、iKeyboardの開発が始まったのです。 あれから何度か蛍光灯を入れ替えましたが、その度ごとに、当時の新鮮な気持ちを思い出します。

さて、蛍光灯も入れ替えたことだし、新しい未来に向かって頑張るぞ!

iKeyboard 2.1 公開

iKeyboardを、Version 2.1にバージョンアップしました。

今回の変更点は、ユニバーサルバイナリ化して、Intel Macにもネイティブで対応したことと、Mac OS X 10.4.9での入力の不具合修正の2点です。 なので、今回のバージョンアップはMac OS X版のみとなっています。 Appleも驚くほどスムーズにIntel Macへの移行を果たして、ユニバーサルバイナリのタイピングソフトを探していた人も多いのではないでしょうか。 そんな方は、ぜひiKeyboardを試用していただきたいと思います。

iKeyboardは、私が最初に手がけたシェアウェアです。 公開はPhotoMasterの方が先になってしまいましたが、その開発期間は5年にも及びます。 認知心理学を武器にして、本気で覚えたい人のための、真面目なキーボード練習ソフトを作りたい。 その一心で、黙々と孤独な作業を積み重ねてきた、涙なくしては語れない、思い入れの深いソフトでもあります。 iKeyboardからは、ソフト開発という分野を超えて、たくさんのことを学びました。

認知心理学とは、人がものを認識し、記憶して、処理を行う過程を解明するための学問です。 「脅威の記憶術!」みたいな必殺技を編み出すんじゃなくて、あくまで基本に忠実に、より少ない負担でより多くの効果を得ることを目標に、真面目に丁寧に作っています。 派手さを嫌い、地味な努力を好む、まさに私らしいソフトと言えるでしょうね。 そういう考え方に共感してもらえるなら、きっとiKeyboardも気に入ってもらえるかと思います。

iKeyboardの開発中は、何の実績もない無名の新人だったわけで、ソフト開発のノウハウも少なく、今のようにブログで気軽に情報交換ができたわけでもなく、とにかく孤独との戦いでした。 全く新しいタイピングソフトを作ってやろうという野心と、自分の長いパソコン経験を賭けた直観だけを頼りに、何度も折れそうになるプライドを必死に支えながら、真っ暗闇の中を手探りで作り上げてきた、苦心の作でもあります。

今でこそ、PhotoMasterがそれなりに評価されるようになったおかげで、自信を持って名刺を渡せるようになりましたが、当時は名刺も持たずに、ひたすら新しいアイデアを求め、手当り次第に実装しては捨てていくという毎日でした。 相変わらず、シェアウェアによる収入はほんのわずかしかありませんが、こうした努力の日々のおかげで、今ではずっと心の安定が得られています。 当時の辛い生活を想うと、自然と涙がこぼれ落ちてきます。

あれ、こんなこと書くつもりじゃなかったんですけどね。とにかく、よろしくお願いします!