新ブログの更新状況

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PhotoMaster 2 評価版4

PhotoMaster 2 b4 for Mac Mac OS X 10.1以降(ユニバーサルバイナリ)
PhotoMaster 2 b4 for Win Windows 98/ME/2000/XP

お待たせしました。 PhotoMaster 2の新しい評価版です。

今回の目玉は、従来の撮影日リストと出来事リストを、ひとつのリストに統合したことです。 これにより、左右の視線の移動が少なくなり、サムネイルリストの領域も増やすことができました。 もちろん、ただ統合しただけでは面白くありません。 出来事を撮影年月で階層表示するようにして、撮影日との親和性を高めています。 また、撮影日、出来事、検索結果という3つの表示モードを自由に行き来できるように工夫しています。

たとえば、撮影日を表示した状態で、2007/03/03を選択しているとします。 この状態で、出来事表示に切り替えると、2007/03/03の出来事を選択した状態で表示が切り替わります。 さらに、アメフラシで出来事を検索すると、検索結果に2007/03/03の出来事が含まれていると、自動的にその出来事が選択されます。 逆に、この状態で出来事や撮影日の表示に切り替えても、やはり2007/03/03が選択された状態で切り替わります。

ちょっとしたことではありますが、従来のように、左右に独立してリスト表示していた頃と比べると、かなり快適なものになっています。 また、リストの統合に伴い、出来事の分類タグを廃止しました。 その代わり、従来の『出来事の説明」を「検索用のキーワード」に変更して、出来事の表示名とは別に、検索用のキーワードを入力できるようにしました。 正直なところ、従来の分類タグは、事前に分類情報を登録しなければならかったので、扱いが難しかったんですよね。 でも、この修正のおかげで、同等の機能を、より簡単に扱えるようになりました。

本当は、今回で正式版にしたかったんですが、どうしても付け加えたい機能があったので、完成を見送ることにしました。 その機能とは、ズバリ、アルバム機能です。 実のところ、これまでは、出来事の登録さえできれば、わざわざアルバム機能なんて必要なかったんですが、最近は、ブログやホームページ、写真集など、仕事で写真を扱うために、必要な写真だけをピックアップして、それを内容ごとに整理したり、順番を入れ替えたりといった作業場が欲しくなってきたんです。

だた、現時点では、どんなものが欲しいのか、具体的な形がまだ見えていない状態です。 一般的なフォルダによる分類が便利なのか、それとも分類タグによる動的な分類の方が便利なのか、あるいはひとつの書類として、FinderやExplorerで管理した方が良いのか。 シングルウインドウを貫くか、それとも例外的にマルチウインドウにするのか。 この件に関して、意見、要望、面白いアイデアなどがありましたら、ぜひコメントに書き込んでくださいね。 よろしくお願いします。

試用期間は今月末までですので、お気づきの点があれば、お気軽にお知らせください。

スポンサーサイト

梅ヶ渕で信仰について考える

伊敷に行く用事があったので、ついでに梅ヶ渕まで行ってきました。

梅ヶ渕不動堂は、私のお気に入りの場所のひとつで、ブログでも何度か紹介しています(1 2)。 石像好き、狛犬好きとしては、無数の石像達と、立派な五体の狛犬達の存在は、とても魅力的です。 でも、それ以上に、この場所には独特の静かな雰囲気があって、それがとても心地良いのです。 今日は今にも雨が降りそうな曇り空でしたが、しっとりとした落ち着いた空気は、この場所にはちょうど良い感じでした。

この場所の主役は、やはり清浄の滝でしょう。 見上げるほどの岩壁から、水が何本かの細い筋となって落ちてきます。 その滝の水で両手を清めて、お参りをします。 私は別に、神道でもなければ、仏教徒でもありませんが、こういう場所に来ると、何らかの気配を感じて、不思議と祈りたい気分になります。 こうした場所が、神仏などによって演出された、信仰のための場所だからなのかもしれません。

現代では、信仰というと、どうしてもオウムなどのカルトで危険な集団を連想してしまいますが、それ以外にも、もっと穏やかで静かな信仰もあるんじゃないかと思います。 なぜらな、信仰心というのは、人に生まれながらに備わっている感情のひとつだからです。 誰かを信じたり、何かを信じたり、人は信じることができるから、前に進むことができるんです。 宗教は、そういう信仰心の受け皿として、発展し、受け継がれてきたんじゃないかと思うのです。

でも、産業革命が起きて、科学技術が発達して、科学が宗教に変わって、新たに信仰の主役になりました。 それはそれで、ひとつの時代の流れとして、結構なことです。 ただ、科学は宗教とは違って、信仰されることを前提としていなかったので、無用な誤解を招いたり、悲惨な事件が起きたりしました。 最近は、科学の在り方についても活発な議論がされるようになっているので、科学信仰もより安定したものになっていくことでしょう。

それでは、私の信仰の対象は何かというと、それは自分自身です。 それが役に立つと感じれば、素直に科学を利用します。 それが正しいと感じれば、素直に宗教を利用します。 でも、何かに利用されるのは嫌だし、判断は自分で下すものだと思います。 何も信じない人は近寄り難いし、何かを妄信する人は怖くて近づけません。 でも、健全な信仰心を持っている人は、その対象が何であれ、とても魅力的に感じます。

あなたは、何を信じて生きていますか?

黎明館から桜便り

今日は、天文館に用事があった…わけではないんですが、黎明館に桜を見に行ってきました。

とりあえず、裏の駐車場に自転車を走らせると、もう辺り一面、桜が満開です。 自転車を停めて歩き出すと、早速、一眼レフを構えたおじさんが、桜を激写しています。 黎明館横の県立図書館の桜が綺麗だったので、階段を下りて、満開の桜の下をぶらりと歩きます。 制服を着た女子高生が、嬉しそうに駆け回り、ケータイで桜を撮っています。 ダンディなガイジンさんは、桜を見上げて「キレイデスネ~」と言いながら、なぜか石垣をよじ登ろうとしていました。

桜ほど、現場と写真の違いが大きいものはありません。 私も、これまで何度も桜を撮ってきましたが、満足な桜写真って、なかなか撮れないんですよね。 でも、最近は、その理由が何となくわかってきました。 桜って、花そのものじゃなくて、その場の雰囲気を楽しむものなんじゃないかな。 葉のない枝に、薄いピンクの白い花がパッと咲いて、それがチラチラと散っていくのを視線の端々に感じながら、桜に包まれていくのを楽しむわけです。

そんなことを考えながら、正面へと向かいます。 ここは、鶴丸城の跡地なので、お堀があって、石垣があります。 お堀の周りには綺麗な花壇が作られていて、とても明るい場所になっています。 枯れた蓮を眺めつつ石橋を渡ると、石垣の向こうに桜と青空が見えます。 桜は白くて綺麗だけど、青空や葉の緑があってこそ、その美しさが映えるんですよね。 と、隣のおばちゃんが言ってました。

黎明館の正面には行かずに、裏の野外展示場へと向かいます。 ここも、私のお気に入りの場所のひとつなんですが、見つけたのは、まだ一年半ほど前のことです。 あまり知られてなくて、人も少ないので、ゆったりとした時間を過ごすことができます。 今日も、正面にはたくさんの人がいましたが、こちらは清掃員のおじさんがいるだけでした。 気のせいか、桜も人目を気にすることなく、伸び伸びと咲いているようでした。

桜は通りに面した場所だけで、一歩足を踏み入れると、そこは緑の世界でした。 白から緑への急激な変化に戸惑いながらも、この落ち着いた雰囲気を楽しみます。 そして、ふと足元を見ると、あの白いタンポポがあちこちに咲いているではありませんか。 何枚か写真を撮ったんですが、今日は風が強くてとても寒かったので、丸刈りの後ろ髪を引かれつつ、逃げるようにして家に帰ったのでした。

明日は、もっと暖かくなってくれないかなぁ。

いただきもの

ドラゴンさんからの、いただきものです。どうもありがとう!

箱入り娘の春

ここは私が、生まれた所
私の一番、好きな場所
ここのことなら、何でも知ってる
とっても静かで、安らぐ所
私はここでは、お姫様

私はここで、大きくなって
今では頭が、つかえるくらい
外のことは、知らないけれど
ちょっと興味が、出てきたの
白くて赤い、花びらひとつ

外の世界は、怖いけど
何だか素敵な、気がするわ
ふっと微かな、良い匂い
ドキドキしながら、見上げたら
眩いばかりの、花吹雪

純白の、素敵な世界

趣向を変えて、掛け軸写真

先日の梅ヶ渕の続きですよ。

前に紹介したのは、梅ヶ渕不動堂という所だったんですが、今回は、同じ梅ヶ渕でも、梅ヶ渕観音院という所です。 参道の入り口には、座敷のある立ち食い蕎麦屋があって、そこから細くて急な坂道を上っていきます。 その途中には、あちこちに農産物の無人販売所があるんですが、その商売の緩さ加減に、妙に嬉しくなってしまいます。 中には、開運鑑定所なんていうのもあったりして、その胡散臭さが、これまた独特の情緒を醸し出しています。

この蕎麦屋の前の道は、私の学生時代からのサイクリングコースで、すっかりお馴染みの場所だったんですが、その奥にこんな立派な観音様があったなんて、当時は全く思いもしませんでした。 最初のうちは、その厳かな雰囲気に圧倒されっぱなしでしたが、何度も通ううちに、ずいぶん慣れてきました。 いままでは、拝むだけで済ませていたんですが、この日は思い切って鐘を鳴らしてみました。 ぐうぉ~んお~んぉ~ぅぉ~ぉ~…。鐘の音が、静かに心の中に染み入ります。

今回は、趣向を変えて、PhotoMasterで縦長にして書き出してみました。 なかなか良い感じでしょ?

被写体との間合い

R1を手にしてから、写真の撮り方が、ずいぶん変わりました。

いや、正確には、変わらざるを得なかった、と言った方が良いでしょう。 それまで使っていたA1は、35mm換算で28~200m、一方、R1はというと、24~120mmなんです。 広角側が広がったのはいいんですが、望遠側が半分近くも減ってしまったわけです。 A1は、200mmの望遠マクロを使えば、小さな花でもかなり大きく撮ることができましたが、R1のマクロは、お世辞にも便利とは言えない代物で、残念ながら、気休め程度にしかなりません。

この写真も、もしA1の望遠マクロを使っていれば、中央の桜の花だけを切り取ることができたでしょう。 そんな悔しい想いを何度も繰り返しているうちに、ふと、あることに気がつきました。 もし、もっと強力な望遠マクロが使えれば、もっと花を大きく、背景もすっきりさせることができるかもしれない。 でも、そうやって花だけを写しても、単調でつまらない写真になってしまうんじゃないかなぁ。

それが花であれ何であれ、ただそれだけを凝視するということは、めったにありません。 人の目は、ある一点に集中しているつもりでも、それ以外の周囲の様子まで、一緒に見ているものです。 たくさんあるうちの中で、なぜそこに注目したのか。 それは、周囲の状況とは違う何かが、そこにあったからです。 その何かだけを撮るのも面白いんですが、その何かを説明する撮り方をした方が、ずっと説得力のある、面白い写真になるんですよ。

上の写真で、私が何に注目したのか、あなたにはわかりましたか?

批判するなら金返せ

このところ、密かに美術の歴史について勉強してたんですが、面白いことに気がつきました。

ハイアート、いわゆる教科書に載ってるような芸術って、基本的に依頼主がいて、それを引き受ける芸術家がいて、そういう経済的、社会的な構造ができあがってたんですね。 大昔に狩猟をしていた頃は、獲物に恵まれるように、絵のうまい人が、洞窟の壁に獲物の絵を描きました。 国ができて王が支配するようになると、権力を示すために、手先の器用な人達に、いろんな装飾品を作らせました。 宗教が広まると、布教のための芸術作品が、数多く作られるようになりました。

そして、ひとつひとつの作品に目をやると、それは表現の技術革新の歴史でもありました。 壁を傷つけていけば、何かの形が描ける。 色のついたものを擦りつければ、色がつけられる。 そうして、どんどん形が複雑になって、色も豊富になっていきます。 正確な形を描けるようになったら、今度は様々な表情や仕種を表現していきます。 一通りの表現ができるようになったら、今度はひとつひとつを掘り下げていきます。

すると、表現に独自性が出てきて、作品から作者へと注目の的が移っていきます。 優れた表現をする人が出てくれば、それを真似する人も出てきます。 そして、みんなが同じような表現をするようになってくると、今度はそれに反発する人達が出てきます。 さらに、反発に反発して、先祖返りをする人まで出てきます。 交通網や情報網が整備され、人間の行動範囲が広がるにつれて、その傾向はますます高まり、次第に社会的な情勢が反映されるようになります。

この頃には、芸術に依頼主はいなくなって、国家や企業に対する批判や、一般大衆に対する批判といった社会批判が、芸術の主な活動内容になっていきました。 大量生産、大量消費の時代になって、一点ものの芸術の時代は終わり、その場限りの思想的、哲学的なものへと変貌を遂げました。 その中で、芸術家個人の存在は消え、匿名性が強調されたり、組織化して大掛かりなものになったりしました。

私が芸術嫌いだった理由には、個人的な体験による芸術至上主義への反発、というのがあったわけですが、実はもうひとつ、別の理由がありました。 それは、アートを語る人達の、上からものを言うような、あるいは人を馬鹿にするような、高慢な態度です。 いや、その人達からすれば、今という時代を冷静に観察して、その問題点を指摘し、それを気づかせようとしてくれているんでしょうが、私から言わせれば、それは大きなお世話です。

実は私自身、「現実感の喪失からの回復を!」みたいなことを書いたりしていたので、恥ずかしい限りなんですが、理屈から入ろうとすると、どうしても「批判すること」が魅力的に見えてしまうんですよね。 でも、それで満足するのは、批判する側の人間だけで、わざわざ自分の金を払って批判されるような物好きなんて、そういるもんじゃありません。 現代美術が一般にあまり愛されていないのは、恐らくそんなところに理由があるんでしょうね。

今の世の中は、高度成長の代償として、様々な環境問題を抱えて、人間としての自信を失っている時代だと思います。 これまで、散々手広くやってきておいて、あれはするな、これもするなで、迂闊に何かをしてしまうと、どこから非難されるかわからないわけですから、そりゃあ臆病にもなるというものです。 そのくせ、どこに行っても宣伝だらけで、常に誰かが、あれしろ、これしろ、ためらうな、としつこく言い寄ってくるわけですから、鬱になるのも当然ですよね。

これからは、癒しから自信回復の時代へと変わっていくんだろうと思います。

児玉美術館で、時代の流れを想う

今日は、10kmほど南にある、児玉美術館まで行ってきました。

自転車を停めて中に入ろうとすると、後から車がやってきて、仲良しおばちゃん三人組が降りてきました。 お、花見に来たのかな、と思う間もなく、けたたましい笑い声が野山に響き渡りました。 元気いっぱいのおばちゃん達には先に行ってもらって、ゆっくりと遊歩道を散策します。 大きな葉っぱの下にある変わった花を撮っていると、別のおばちゃん二人組とご挨拶。 「あら、こんな所に花があったなんて。さすが写真を撮る人は見る目が違うわね~」

おばちゃんの言葉に気を良くしながら、今度は桜を楽しみます。 そのまま展望台まで行こうと思ったんですが、例の賑やかなおばちゃん達の笑い声が聞こえてきたので、流れる小川を眺めつつ、先に美術館に入ることにしました。 昔は小さかった建物も、今では後に立派な新館が建って、展示品の数もかなり増えているようです。 それに伴い、入場料も増えていましたが、まあ仕方ありませんね。

ここは主に、海老原喜之助、大嵩禮造、山下三千夫の絵画が展示されています。 生まれが順に、1904年、1934年、1948年となっていて、ちょうど20世紀の流れを見れるようになっていました。 そして、作品を観ていくと、その変化が実に良くわかって面白かったです。 海老原喜之助は、若い頃は普通の絵を描いていたのに、途中から象徴としての馬が登場するようになって、晩年はかなり抽象化が進んでいました。

大嵩禮造の場合は、なるべく無駄な描写を省いた具象画を描いていたのが、やがて具体的な形や陰影を持った抽象画を描くようになっていきます。 その変化は、もはや外の世界には細部を描写するに値するものが見当たらなくなって、自分の心の中に新たな世界を見出したかのようでした。 山下三千夫の場合はもっと極端で、最初から独特な世界を、絵画の中に作り上げていました。 まるで夢の世界に入り込んだような感覚が、とても強烈でした。

美術館を出ると、山の冷気が降りて、肌寒くなっていました。 湿った空気は、どことなく物悲しい雰囲気です。 もし、自然との調和の取れた懐かしい風景が、戦争で焼かれ、都市開発でビルが建ち、無機質で冷たい風景になってしまったとしたら、絵に描きたくなくなるのも無理はないのかもしれません。 でも私は、老朽化の進んだビルと真新しいビルの間に立ち、街と野山を自由に行き来しながら、そのどれをも懐かしむことができます。

もしかしたら、私は実に恵まれているのかもしれません。

トイレの美学

皆が使うものだから、皆で綺麗に使いましょう。

掲示板のご案内

K-Hyodo's BBSを、FC2に移設しました。

以前の掲示板は、海外からのスパム書き込みが多くて、とても困っていたんです。 ただでさえ書き込みが少ないのに、スパムの削除ばかりを繰り返していると、だんだん馬鹿らしくなってきます。 どうせ閑古鳥が鳴いてるんだから、このまま閉鎖してしまおうかとも思いましたが、せっかく今まで続けてきたんだし、掲示板を通して新しい出会いがあることだってあるし、というわけで、場所を変えて出直すことにしました。

とはいえ、私の活動場所は完全にWebページからブログへと移ってしまっているので、ブログのコメントさえあれば、わざわざ掲示板なんて要らないといえば、要らないんですよね。 ただ、ブログの記事とは関係ないことで伝えたいことがあったり、撮った写真を見てもらいたいという時には、やっぱり掲示板があると便利です。 でも、せっかく掲示板を移設したのに、誰も書き込みをしてくれないと寂しいので、皆さんの書き込みをお待ちしております。

まあ、無理して書いてもお互い面白くないので、気が向いた時にでも、ゆるゆるな気持ちでお願いしますね。

芸術と自分の今

美術史の勉強が、やっと現在に追いつきました。

実は、前に毛嫌いしていた「芸術からアートへ」の元になっていた本「“芸術”が終わった後の“アート”」(松井みどり著)を図書館から借りてずっと読んでいたんです。 どうして自分があんなに嫌悪感を感じたのか、その著者の本を読むことで、はっきりさせてやろうじゃないか、というわけです。 で、実際に読んでみると、実は80年代から90年代にかけての美術史の本だったんですよ。 何だ、これは自分が一番欲しがっていた本じゃないか。

この本によると、戦後の芸術は、とにかく前衛、前衛、前衛なんだそうです。 では、前衛って何だ、というと、最前線で戦うことです。 具体的には、時代の最前線で、強大な権力を持った体制と戦うことです。 そのため、押し付けられた価値観を嫌い、あの手この手で固定観念を打ち砕き、見えざる支配の手を暴き出そうと、批判的で攻撃的な活動を行ってきました。 私が「余計なお世話だ」と感じたのは、まさにこのことですね。

じゃあ、その体制って何だよ、ってことになるわけですが、当然、支配力の強い国家権力だったり、搾取する側である資本家だったり、石頭で口うるさい芸術の権威だったり、などが対象になりました。 芸術家達は、体制があれこれ奨励することをひとつひとつ摘み出したり、並べ替えたりすることで、その裏にある意味を暴き、体制からの開放を目標にしました。 女性解放運動や、同性愛者の自由運動などは、こうした時代の流れを良く表しています。

ところが、90年代に入ると、こうした活動に限界を感じるようになります。 そりゃあ、いつまでも理屈っぽいことばかりやっていては、せっかくの理論もただの屁理屈になり、芸術離れが進み、創る方も観る方も疲れてしまいます。 そこで、もっと身近で親しみやすいものを使って、注目度を高めて、相手に理解してもらいやすいように、工夫されるようになりました。 高飛車な物言いをやめて、親しみやすさをアピールするようにしたわけです。

それでも、いわゆる芸術業界は、前衛の姿勢を崩したわけではありません。 国家などの体制といった大掛かりなものから、日常的でありふれたものに対象が移ったとはいえ、依然として、固定観念の破壊と再構成という手順に固執しています。 そして、それこそが芸術の役割であり、それを行えるのが芸術の特権であり、それは限られた者だけに許された表現であり感情なのだ、といったようなことを、堂々と書いています。

結局、前衛という芸術自体が、すでにひとつの体制になってしまっているんですね。 芸術業界そのものが、あまりに前衛にどっぷりと浸かり過ぎていたために、のぼせ過ぎて湯船から出ることすらできなくなってしまったわけです。 もっとも、これはいわゆる美術評論家を中心とした芸術業界の話で、実際に創作に携わる芸術家達は、そういう業界の都合はお構いなしに、自分が良いと思うものを、どんどん生み出しているようですが、呆れた話ですよね。

JAROは、「うそ、おおげさ、まぎらわしい」広告には注意するように警告していますが、これは芸術にも、そのまま当てはまると思います。 私は、別に芸術業界に新しい運動を起こしてやろう、なんてことを考えているわけではありませんが、そういう前衛芸術に対して否定的な立場にいることがはっきりしただけでも、この美術史を学んで良かったと思っています。 だって、どうせ何かをやるんだったら、少しでも多く共感してもらいたいですからね。

やっぱり、人間素直が一番ですよね。

プロフィール

K-Hyodo

K-Hyodo

本名:兵頭 薫
鹿児島の30代男性
ソフトウェア作家を目指す

コメント・拍手は大歓迎!

K-Hyodo's Soft

どのソフトも、
Mac & Windows 両対応!

iKeyboard 3

本気で覚えるための、
キーボード練習ソフト。

ベクターソフトレビュー


PhotoMaster 2

撮影を楽しむための、
デジカメ写真管理ソフト。

ベクターソフトレビュー

Vector Best Online Soft of 2004


iKeyboard 2

ブログを読み返すための、
バックアップ表示ソフト

窓の杜 今日のお気に入り


マルチプラットフォームの統合開発環境REALbasicで開発しています。

Twitter

 

カレンダー

03 | 2007/04 | 05
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -

ブログ内検索

アクセスカウンター

読書メーター

K-Hyodoさんの読書メーター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。