地味でもいいじゃない

今さらながら、自分は地味な男だなぁと、つくづく思います。

テレビは見れば面白いけど、わざわざ見るほど好きではないし、スポーツだって、観るのもやるのも苦手です。 服装だって、ほとんど無地だし、大人しい色ばかり。 人付き合いは嫌いじゃないけど、どちらかというと、一人でいるほうが好き。 自分を理解してくれる人がいたら嬉しいけど、いなくてもさほど困らない。 誰かに喜んでもらえたら嬉しいけど、自分一人で楽しめれば、それに越したことはない。 そんな感じで、良くも悪くも、あくまでマイペースなんです。

マイペースだからといって、動作が遅いとか、性格が大人しいかというと、ご存知の通り、そんなことはありません。 これはと思った時には、自分でも驚くくらいに素早い行動をとるし、気分が乗ってる時には、やかましいくらいに騒ぎ立てます。 それじゃあ、何に対して熱くなってるのか、その興味の対象は何かというと、これがまた、ものすごく地味なんです。 これはもう、熱血地味宣言をするしかありませんね。

私が、この鹿児島の地を気に入って離れようとしないのは、ここに本物の地味な世界が息づいているからでもあります。 少しずつ減ってきてはいるものの、セピア色の懐古趣味ではなくて、フルカラーの現実として、日々の生活が今もひっそりと行われています。 そして、私自身も、その地味な世界の住人の一人として、その世界の一部になっています。 だからこそ、私はその世界に引き寄せられて、世界は私を受け入れてくれるのかもしれません。

今の世の中は本物志向だそうですが、本物の本物は、わざわざ本物であることを主張することはありません。 結局、本物であることを自己主張するということは、偽物を本物らしく演出しているということを、暗黙のうちに証明しているようなものです。 私は、本物の地味人間として、この本物の地味な世界を、親しみを感じながら歩き、写真に撮っていきます。 撮れた写真も地味な写真になりますが、地味な世界を撮ったんだから、地味でなければ困ります。

派手には派手なりに、派手な良さがあります。 同じように、地味には地味なりに、地味な良さがあります。 ただ、派手は派手なだけに、実に良く目立ちますが、地味は地味だけに、なかなかその存在に気づきません。 たとえ、地味なものに気がついたとしても、その地味さ故に、すぐに忘れ去られてしまうでしょう。 でも、それでいいんです。 なぜなら、あまり注目されてしまうと、地味が地味でなくなってしまうんですから。

だからこそ、地味な世界は、その良さがわかる本物の人達だけが、ひっそりと楽しめば良いのです。

MacPeopleの画像ビューアー特集

MacPeople 5月号で、PhotoMasterが紹介されました。

記事の対象になったのが、現行バージョンの1.51だったので、これがPhotoMaster 2であれば、もっと違った評価になっていたんじゃないかと残念ではありますが、やっぱり特集記事で紹介してもらえたのは嬉しいですね。 これまでも、何度か雑誌で紹介してもらったことはありますが、そのほとんどは新着ソフトレビューという形で、こういう専門分野の特集記事で紹介されるのは初めてなんですよ。

記事の流れとしては、冒頭のYes/Noチャートから、画像ビューアーを「ブラウジング」「管理能力」「レタッチ機能」「スピード」ネット画像」「個性派」という6種類に分類して、合計17のソフトを紹介しています。 PhotoMasterは、「管理能力」に分類されていて、LEAFO、Stackroomに次いで、3番目に紹介されていました。 各ソフトは、「管理」「速度」「プライスパフォーマンス」「対応形式」「機能」の5項目によるレーダーチャートによって評価されていて、PhotoMasterは、ややバランスの悪い評価になっていました。

残念ながら、字数の制限もあって、ほんの触り程度にしか特徴が書かれていませんでしたが、こうして他の競合ソフトと並べてみると、それぞれの性格の違いが見えてきて面白いですね。 LEAFOは、とにかく従来のアルバムのコンセプトをそのまま継承したソフトで、スライドショーでiTunesの音楽を鳴らしたり、見た目のカスタマイズができたり、親しみやすいソフトになっています。 Stackroomというソフトは初めて知りましたが、iTunesの操作感覚をそのまま画像ビューアーに持ち込んだもののようです。 雑多な画像ファイルを効率良くカタログ化するには、なかなか便利なソフトみたいですね。

さて、我がPhotoMasterですが、他の比べると明らかに硬派な作りになっていることが良くわかります。 ヒストグラムやExif情報の表示など、単なる画像ビューアーではなく、写真を写真としてチェックできるようになっているところが、他とは違う大きな特徴ですね。 他のソフトでは、写真はパソコンに取り込まれた時点で単なる画像になってしまいますが、PhotoMasterでは、撮影という能動的な活動によって得られた結果として、写真を写真として扱いたいんですよ。

そういうわけで、MacPeopleの記事を見て来られた皆さん、近日中にPhotoMaster 2 評価版4を公開しますので、そちらのほうもぜひ試用してみてくださいね!

進め!ご近所探検隊!(後編)

桜島の絶景を堪能してから、さらに奥へと進んでいきます。

ものものしいフェンスの間をくぐるようにして進むと、今度はうっそうとした木々の中を進んでいきます。 一体、この道の先には何があるのか。そもそも、この道は一体何のためにあるのか。 ただ単に、山を管理するためのものだとしたら、あまりに道が出来過ぎているような気がします。 もしかしたら、東福寺城に何か縁のあるものが残っているのかもしれない。 言葉にできない期待感が、胸いっぱいに広がります。

すると、急に足元に石段が見えてきました。 おお、やはり、ここには何かある! そして、上を見上げて、さらに驚きました。 鳥居だ!こんなところに神社がある! 急いで石段を上ると、鳥居はボロボロになっていましたが、一目でわかるほどに、隅々まで手入れが行き届いていました。 この手の神社には、ほとんど放置されたようなものが多いんですが、この神社は今もはっきりと生きていました。

入ってすぐの右手には、三宝荒神と水神が奉られていました。 神社には、どこもそれなりの神々しい空気があるものですが、ここの空気はかなりのものです。 狛犬は小柄で可愛らしい顔をしていましたが、なぜか前足が溶けたように細くなっています。 その横の手水屋には、何と明和三年と刻まれていました。 西暦に直すと、1766年ですよ! 驚くなかれ、今から250年近く前から続いている、立派な神社だったんです。

神社の建物は、木造の拝殿があり、そこから少し離れた場所に、石造りの本殿がありました。 境内はとても綺麗に掃き清められていて、あちこち足跡をつけて歩き回るのが申し訳ないくらいです。 拝殿の中を覗かせてもらうと、そこは生活感が漂うほどの現役ぶりで、またまた驚いてしまいました。 奥には「摩利支天狗」「摩利支天宮」という文字が見られました。 どうやら、「摩利支天」という神様を奉っているようです。

見晴らしの良い場所で、初めての景色を楽しんでいると、意外にも参拝客がやってきました。 二人のおばさんと、一人のお兄さん。 話を聞くと、ここはごく少数の身内だけがお参りにくる神社なんだそうです。 せっかくのご縁だということで、皆さんのお参りにご一緒させていただきました。 初めて聞く神道の祝詞?に感動。 とても気さくな人達で、いろんな神社情報を教えてもらいました。

冒険と、絶景と、出会いと、神様の与えてくれたご縁に感謝!

進め!ご近所探検隊!(前編)

今日は、とても素晴らしい冒険ができましたよ!

最初は、多賀山公園の桜の開花状況でも見に行こうかと思って、多賀神社の入り口まで来てみたんですが、裏口ともいえるこの場所も、今では少々食傷気味。 確かもう一本、裏から上る道があったよな。 そう思って探してみたものの、なぜか見つかりません。 そうしているうちに、明らかに行き過ぎと思われる場所まで来てしまいました。 でも、後戻りするのも悔しいので、初めてのこの場所を探検してみることにしました。

多賀山公園は、海側に東郷平八郎の墓と銅像があり、その裏にはアコウの記念樹、さらに裏には多賀神社があります。 山を奥に進むと、桜の名所として有名な桜閣園があり、その奥には東福寺城跡があります。 今はそこで行き止まりになっていますが、昔は、東福寺城がずっと奥まで続いていたそうです。 もしかしたら、ここから山の登り口があるかもしれません。 私は期待に胸を高鳴らせながら、奥へと進んで行きました。

途中、家の前を掃除しているお婆さんがいたので尋ねてみると、この先に山に上る階段があるということでした。 見ると、ぐるりとえぐれた山の中に、うねうねとした階段が続いています。 ただ、手前には「急斜面地崩壊危険区域」という県の看板がものものしく立っています。 でもまあ、お婆さんも行けるって言ってたから、大丈夫なんだろうな。 というわけで、階段をどんどん上っていきます。

この階段が、また何とも不思議な形をしていて、まるで空間が歪んでいるかのような錯覚に陥ります。 手すりが付いていなかったら、この階段を上るのは至難の業です。 傾斜はなかなか急で、上に行くにつれて、階段の幅も狭くなっていきます。 でも、青空と新緑に囲まれて、とても良い気分です。 それにしても、どうしてこんなところに階段があるんだろう。 ご丁寧に、真新しい手すりまで付いてるし。 そうしているうちに、ついに頂上が見えてきました。

階段の先には、どど〜んと桜島が見えていました。 うひゃ〜、こりゃあすごい! まさか、ここで桜島が拝めるとは思っていなかったので、私は有頂天になってしまいました。 足元は切り立っていて、写真を撮る時も、思わず足がすくんでしまいました。 私もあちこちを見て回ってきましたが、ここは間違いなくNo.1の桜島絶景スポットですね。 これは大発見!これこそ、無計画な冒険の醍醐味ですね! そうか、私はこの感動を待ち望んでいたのか!

道は、ここで左手に折れて、さらに奥へと続いていました。 もちろん、私もさらに奥へと進んだのでした。

自分の世界を広げたい

最近、自分の世界の小ささを感じることが良くあります。

昔は、自分の好きなものを、自分の好きなように撮って、自分の撮った写真を惚れ惚れしながら、何度も繰り返し眺めたものです。 ブログを始めてからは、自分の写真を気に入ってくれる人がいることを知り、自分の写真を人に見せる楽しみを知りました。 そして、それが励みになって、写真の腕もずいぶん上がりました。 無駄撮りが少なくなって、良いと思える写真の割合が、ずいぶん増えました。

でも、いくら上手に撮れていても、同じような写真ばっかり撮っていると、やっぱり飽きてきちゃうんですよね。 もちろん、ご近所写真は、私のライフワークみたいなものなので、これからもずっと撮り続けていくことでしょう。 ただ、それ以外の写真も、もっと開拓していきたいな、と思うのです。 言わば、ご近所写真は白ご飯みたいなもので、おかずのレパートリーをもっと増やしたい、というわけです。

私の写真のテーマは、お気に入りの場所を撮ることから始まって、そこから神社巡りや石像探しへと発展したものの、それからご近所写真へと逆戻りして、ずっと停滞していました。 最近になってようやく、アコウの木をはじめとした植物のヌード写真や、アメフラシの観察日記という、新しいテーマが生まれてきましたが、もっともっと、いろんな新しいことに挑戦していきたいな、と思うのです。

そして、もっともっと、力のある写真を撮れるようになりたいんです。

電灯の役割

電灯は、ただ明るければ良いというものじゃない。

絵との間合いをつかもう

忘れないうちに、芸術鑑賞で気づいたことを、あれこれ書いておきますね。

絵画を鑑賞する時には、その絵ごとに、適した間合いがあるんですよ。 絵の大きさは、絵によって違います。 だから、同じ距離から眺めていては、全体を見渡せなかったり、縮こまって見えたりします。 では、全て同じ大きさに見えるようにすれば良いかというと、そうでもないんですよ。 全体を見渡せる位置から、一歩踏み出した方が良い絵もあるし、一歩引いた方が良い絵もあるんです。

そのひとつの基準になるのが、キャンバスの布地の模様です。 これがはっきり見えてしまうと、絵が絵の具の固まりに見えてしまいます。 でも、あんまり離れてしまうと、絵の迫力がなくなって、ただの額縁の絵になってしまいます。 間合いをうまくつかめると、絵がひとつの光景として、ぐわっと目の前に広がってきます。 絵画は本物を見ないと意味がない、なんて言いますが、絵の大きさも重要な要素になっているということなんでしょうね。

絵と自分との間合いがつかめたら、今度は、絵の作者とその対象との間合いというのもわかってきます。 写真の場合は、被写体との距離や、レンズのズームによって、被写体との間合いを決めますが、絵の場合も、似たような間合いの感覚というのがあるようなんです。 対象の大きさと、その周辺の余白、背景との位置関係、そういった要素が影響し合っていて、それが作者と対象との心理的な距離を表しているみたいなんです。

洋画の場合は、その作者と対象との関係が実にはっきりしていて、とても直線的です。 でも、それが日本画になると、途端にそれが曖昧になります。 ただ、それで絵が面白くなくなるかというと、そういうわけではなくて、全く違った面白さがあるんですよ。 対象が適度に分散していて、注意がふわふわと揺れ動いて、曲線的なんですね。 洋画のような鋭さはありませんが、全体の雰囲気とバランス感覚が素晴らしいんです。

ものの見方というのは、絵も、写真も、肉眼も、あまり変わらないのかもしれませんね。

芸術の食わず嫌いを治す

どうやら、私は芸術に対して妙な先入観を持っているようです。

それは、芸術に対する複合観念、つまり、コンプレックスですね。 芸術を芸術として素直に認めることができずに、芸術を別の体験と組み合わせて覚えているために、芸術と聞いてその体験を連想してしまい、ひねくれた見方をしてしまうわけです。 コンプレックスを治すためには、生の芸術体験をどんどん増やして、過去の体験を隅に追いやっていくしかありません。 というわけで、早速、美術館通いをすることにしました。

市立美術館に入ると、いきなり「年間パスポートのご案内」が目に入りました。 なんと、2回分の入場料で、一年間も美術館に入り放題。 気になるお値段は、驚くなかれ、たったの400円。 さすが市立、サービス満点。 でも、裏を返せば、美術館なんて、せいぜい年に2〜3回しか来ない、ということなのかもしれません。 一年間に、5〜6回の企画展が行われるので、それらを観に行くだけでも、十分に元が取れますね。

入場する時に、受付のお姉さんに作ったばかりの年間パスポートを見せると、「本日お作りいただいたんですね。誠にありがとうございます」と、妙に感謝されてしまい、何だか偉くなった気分。 これなら、次も来たくなっちゃうなぁ。 入り口の横には、印象派から現代までの大まかな流れが、収蔵品の写真と共に解説してありました。 展示の順序も、歴史の順に並んでいるようです。

最初は、長閑な田舎の風景画です。 うんうん、こういうのはわかりやすよね〜。 しばらく眺めていると、絵の具のでこぼこが気になってきます。 絵は写真のような完全な平面じゃなくて、微妙に立体になっているんですね。 でも、良く見ると、でこぼこのところもあれば、そうでないところもあります。 ああそうか、近くのものはでこぼこにして、遠くのものはぺちゃんこにして、奥行きと立体感を出しているんだ。

一見すると、何の変哲もない、女性の肖像画があります。 斜め横からの構図で、女性の顔も、特にこれといった表情もなくて、これが写真だったら、絶対につまんないだろうな。 そう思った時、ふと女性の目に妙な存在感があることに気がつきました。 他の部分と比べて、二つの目だけが、異常なほどに細かく描き込まれているのです。 まるで、目の部分にピントを合わせたかのようです。 そして、伏し目がちの目の周りは、ほのかに紅潮していました。なるほど〜。

お次は、椅子に座っている女性の絵です。 はっきりいって、絵のタッチは雑で、女性の顔も、かなりいい加減です。 女性は、わずかに腰をひねっていて、ハイヒールを履いた足が、ややだらしなく伸びています。 ヘタウマというわけでもないし、中学生の描いた絵みたいだな。 ところが、今度は女性の太ももに目がいって、離れなくなってしまいました。 そうです、お尻から太ももにかけての部分だけが、妙に生々しく描かれていたのです。 このスケベ〜。

観客は少なく、子供にあれこれ解説していくお母さんや、物知り顔でさっさと眺めて行くおばさん、仕事の空き時間を潰しにきたサラリーマン、ソファに座って頭を抱えている若者、ぽかんと口を開けて眺めるお爺さんなどが、ちらほらといるだけです。 そんな中、私はニヤニヤしながら、一枚一枚、じっくりと眺めていきました。 何だ、結構、芸術が好きなんじゃないか。 こういう芸術だったら、いくらでも楽しめそうだな。

今回の一番の収穫は、絵を写真として観ることで、絵が絵として浮かび上がってくる、ということです。 絵の元になる光景を、写実的に想像することで、なぜその光景をその通りに描かなかったのか、ということがわかってきます。 すると、その絵の特徴がわかってきて、結果的に、その絵で何を描きたかったのか、ということがわかってくるのです。 これは、絵を絵として眺めているだけでは、ずっと気がつかなかったかもしれません。

皆さんも、ぜひ美術館に足を運んで、芸術を楽しんでみてくださいね!

桜の開花速報

オオシマザクラは、ただいま一分咲きでございます。

芸術なんて糞喰らえ

はっきり言うと、私は芸術が嫌いです。

それはもう嫌いで、大嫌いといってもいいくらいです。 なんでこんなに嫌いなんだろうと、自分でも不思議なくらい、吐き気がするくらいに大嫌いなんです。 それほどの芸術嫌いが、どうして写真を撮ってるんだ、という人がいるかもしれませんが、私は自分の写真が芸術作品だなんて全く思っていませんし、そうしたいとも思いません。 何があっても、芸術家にだけはなってやるもんかと、固く心に誓っているくらいです。

写真を撮る人、絵を描く人、音楽を奏でる人、そういう人達のことは、むしろ好きなくらいです。 でも、「芸術」とか「作品」という言葉を振り回す人は、大嫌いです。 だから、私の撮った写真に対して、「良い作品ですね」などと言われると、内心カチンときてしまいます。 もちろん、それで相手に怒鳴り散らすような馬鹿な真似はしませんが、作品扱いされると、とても悲しくなってしまいます。

恐らく、そこには、私の芸術に対する、決定的な誤解があるのでしょう。 実際、ここには書けませんが、思い当たることがいくつかあります。 自分にとって、ただそれが好きだから、好きなことに対して一生懸命になるのは、素晴らしいことです。 でも、だからといって、それを他人、特に幼い子供に強制的に押し付けたり、それを理解できない相手を馬鹿にしたり、そういうことをするのは間違ってるし、激しい憤りを感じるのです。

結局、芸術というのは、相手の感情を揺さぶるために、技を競い合うことなんですよね。 芸術によって、感情を揺さぶられてしまった人達は、芸術を愛し、その技を賛美するようになります。 そして、中には、自分も芸術家になって、誰かの感情を揺さぶりたいと思う人も出てきます。 そうして、芸術愛好家達の独自の集団が形成され、やがて他所との差別化を図るようになります。 すると、勘違いする人が増えてくる訳です。

そう考えると、芸術というのは、実に迷惑な存在です。 路上パフォーマンスなんて、いくらもっともな理由を考えたとしても、結局は、ただの自己主張が強いだけの、目立ちたがりやですよね。 昔は、芸術というだけで、みんなが有り難がってくれたけど、今は誰も見向きもしてくれない。 だから、美術館を飛び出して、宣伝活動をしなくちゃならなくなったわけです。 喜んでくれるのは、芸術に理解のある人だけ。 あれ、芸術って理解するものだったっけ。

本当は、私も芸術を好きになりたいんだと思います。 でも、私の普段の生活の中で、いわゆる芸術作品と接する機会はまずありませんし、わざわざ接する機会を作りたいとも思いません。 なぜなら、わざわざ他人の芸術作品を観なくても、私の周りには、私の好きなものがたくさんあるんですから。 近所のありふれた光景も好きだし、アコウの木やアメフラシだって大好きです。 いちいちうるさい芸術作品なんか、全く必要としていないんです。

もしかしたら、芸術とは、作品を観ることじゃなくて、創ることに意味があるのかもしれませんね。

嘘と、正直さと

口は嘘をつき、目も耳も、嘘をつく。だからこそ、自分は正直でいたい。

いつの間にか、春の草花

いつの間にか、春の草花が元気な姿を見せていました。

今月はずっと、アメフラシを追っかけていたので、野原の春の訪れに、さっぱり気がつきませんでした。 それではと、カメラを持って近所を散策してみたんですが、これがまた、全く気分が乗らないんですよ。 ハマダイコンの花や、大好きなオドリコソウの花を見ても、不思議と、気持ちが動かないんです。 もちろん、綺麗だなぁ、とは思うんですが、でも、それだけ。 物足りなさだけが、心に残ります。

それでも、綺麗だなぁ、と思ったものは、まるで熟練工のように、体が自動的に動いて、自分好みに撮っていきます。 ほぉ〜、これは大したもんだ。 まるで他人ごとのように感心しながら、淡々と撮り続けます。 写真撮影とは、被写体との対話を楽しむものだ。 確かにその通りなんですが、無言の対話というのは、結局のところ、思い込みによる、勝手な解釈に過ぎないのかもしれません。

草花は、ただひたすらに、自分のために生えています。 人間のことなど、まるで無関心です。 それでも人間は、勝手に綺麗だとか、可愛いだとか言って、そういう草花を有り難がります。 そう感じるのは自由だし、そう感じられるのは、とても素晴らしいことだと思います。 でも、どんなに綺麗に写真を撮っても、その綺麗さは、決して実物にはかなわないし、写真を見た時の感想が、そのまま実物に通用するわけでもありません。

撮影者である私自身は、実物の光景も知っているので、写真を見ながら、実物を思い出すことができます。 でも、写真しか知らない人は、写真の綺麗さと、実物の綺麗さの区別をつけることができません。 そして、写真が綺麗であればあるほど、相手は現実との違いに苦しむことになります。 写真を現実から切り離して、純粋に写真として楽しめれば、それで良いのかもしれませんが、それでは、一体何のために写真を撮っているのかと、今度は馬鹿馬鹿しく思えてきます。

一枚の写真なんて、所詮その程度のものなんだよなぁ。

ネコフラシ・ミーちゃん

飼い猫のミーちゃんまでアメフラシに見えてしまう、今日この頃。

ミーちゃんの不満

アメフラシもいいけど、オレのことも忘れるなよ。

アメフラシよ、永遠に

そろそろ、このアメフラシ・シリーズを、一旦終了しようと思います。

もっともっと、この愛らしい生き物のことを知りたいという気持ちは、今も変わりません。 むしろ、その気持ちはどんどん大きくなっています。 ただ、少し気持ちが大きくなり過ぎたようです。 これまでは、ずっと写真を撮るだけで済んでいましたが、今回、直接手で触れたということは、これからは、彼らに対して、自分の行動に責任を持たなければならない、ということでもあります。

また、最初にアメフラシを発見してから、これまでに撮った写真の枚数は、1,600枚を超えます。 とりあえず、やれることはやり尽くした感もあるし、そろそろ、これまでの活動をじっくりと見直す時期なんじゃないか。 そんな気がしています。 今はただ、実物のアメフラシに感動するばかりで、果たして、その感動が写真に込められているかというと、とても写し込めてないように思うのです。

私がどうして、アメフラシに惚れてしまったのか、その理由はまだわかりません。 でも、彼らからは、実にたくさんのことを学びました。 もちろん、彼ら自身のことも数多く学びましたが、それ以上に、学ぶとはどういうことかということを、肌で実感できたように思います。 これまでの一連の記事から、少しでも、学ぶことの楽しさや面白さを感じて、自分もやってみたい、なんて思ってもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。

これから始まる、アメフラシ・シリーズ第二章を、楽しみにしていてくださいね。

愛の絆は強いのだ

ついに、交尾中のアメフラシを見つけましたよ。

潮が完全に引いてしまう前に、海藻の隙間を注意深く覗いていきます。 すると、あちこちにアメフラシの背中が見えるので、そっと海藻をのけて、様子をうかがいます。 そんなことを繰り返していると、二匹のアメフラシの姿を見つけました。 一匹は丸くうずくまり、もう一匹が、にゅっと首を伸ばして、その上に覆い被さっています。 こ、これは、もしかして、交尾の真っ最中じゃないのか。

しばらく、じっと様子を見ていましたが、両者まったく動く気配はなく、ひたすらじっとしています。 しびれを切らして、申し訳なく思いつつ、上のアメフラシをつかんで引き離そうとすると、ピッタリくっついて離れません。 やっぱり、交尾中だったようです。 一見すると、後背位、いわゆるバックの体勢のように見えますが、男性器は首の横に、女性器は背中についているので、微妙に状況が異なります。

人間の場合は、腰を前後左右上下に激しく動かして、積極的に快感を得ようと奮戦するわけですが、アメフラシの場合は、本当に気持ち良いの?と聞きたくなるくらい、じっとして動きません。 でも、人間にもポリネシアン・セックスという、挿入したままじっとしているという伝統性技があるので、やはり、彼らなりに快感を得ているんでしょうね。 その証拠に、メス役のアメフラシに「良いところなんだから邪魔しないでよ」と睨まれてしまいました。

人間との一番の違いは、その結合力の強さですね。 オス役のチン力が凄いのか、それともメス役のマン力が強いのか。 その強さは、オス役を引っ張り上げても、メス役がそのままぶら下がってついてきてしまうくらいです。 それでも、さすがに重さに耐えきれなかったのか、しばらくすると、メス役がぽとりと落ちてしまいました。 その時、白くて口髭よりも長い男性器を見ることができましたが、すぐにしゅるしゅると引っ込めてしまいました。

せっかくのお楽しみを邪魔してしまって、本当にごめんなさいね。

スキンシップを楽しもう

デートを重ねた後に、したくなることって、な〜んだ?

そう、答は、スキンシップです。 今日の目標は、アメフラシとスキンシップを図ることです。 これまで、手と手が触れ合ったり、なんてことはあったんですが、ドキドキしまくりのおっかなびっくりで、すぐに手を引っ込めてしまってたんですよね。 でも、今日は覚悟を決めて、ガッチリと手を握ってやろうじゃないか、というわけです。 そして、できることなら、肌と肌とを重ね合わせてみたい…。

午前中にちょいとした用事を済ませてから、急いで海へ向かうと、ちょうど満潮でした。 階段に腰掛けて、弁当を食べながら、潮が引くのを待ちます 食べ終わってから海を覗いてみると、若いアメフラシが、モリモリと海草を食べています。 そ〜っと手を伸ばしてみますが、あとちょっとのところで届きません。 それは、二人の心理的な距離の差なのか。さあ、勇気を出して、もっと手を伸ばすんだ。 あっ、しまった!レンズが濡れちゃった!

慌ててレンズを拭いてから、今度は足を使ってすくい上げる作戦に変更しました。 足先でちょんちょんとつついて、丸くなったところを足の甲ですくい上げます。 そして、そのボールを高々と掲げて「採ったど〜!」。 しばらくすると、恐る恐る顔を出して、少しずつ体の力を抜いて、元の姿に戻っていきました。 そこで、桜島を背景に記念撮影。 でも、ちょっと体が伸び過ぎ〜。

その体は、吸い付くような餅肌で、グミのような弾力がありました。 裏からはヌルヌルの粘液が出ていて、とても滑りやすかったです。 最初のうちは、そのヌルヌルに抵抗があったんですが、慣れてくると、これがまた気持ちいいんですよ。 足の上を這わせたりしたら、病み付きになっちゃうかも。 いじられることに慣れてきたのか、彼の体はどんどん伸びていきます。 ここだけ読んだら、安っぽいエロ小説みたいですね。

背中には半透明の薄い貝殻をしょっていて、先祖が巻貝だったことを伝えています。 触ってみると、薄いプラスチックのようで、強めに押さえるとペコペコと反り返る感触がありました。 ヒレの中に隠れている内臓のようなものは、実はエラだったんですよ。 最後に、二人並んで記念撮影。 満面の笑みと、逃げ出そうと必死な様子の対比が面白いですね。 だいぶお疲れだったようで、海に戻してもしばらくはプカプカと浮いたままでした。 ごめんね〜。

スキンシップに付き合ってくれたアメフラシくん、どうもありがとうございました!

再生

一つの生が終わり、多くの生が育っていく。

蟹の死

蟹は横に歩くが、彼はもう動かない。

アメフラシから性を学ぶ

この記事以来、「ヌード写真」を求めてやってくる人が急に増えました。

まあ、気持ちはわからなくもないですが、こうしつこいと、うんざりしてくるのも事実。 でも、素っ裸のお姉ちゃんが浜辺で寝そべってるのを期待したら、素っ裸のアメフラシが浜辺で寝そべってるんだから、皆さんきっと驚いていることでしょう。あはは、ざまあみろ。 でも、中には本気で「ヌード写真の本質」を求めている人もいるかもしれず、そういう人達は、アメフラシのヌード写真をどう受けとめたんだろうかと、ちょっと気になるところではあります。

それはともかく、昨日はついに、二匹のアメフラシが海藻布団の中で、仲睦まじく寄り添っている場面を発見しました。 といっても、交尾の真っ最中というわけじゃないようですが、とても幸せそうです。 でも、お尻から糞が出て、もう一方の顔にかかっています。スカトロです。 でも、糞の色が緑なので、全然汚らしさは感じません。 ちなみに、アメフラシは両性具有の雌雄同体で、何匹かで輪になって交尾するそうですよ。 つまり、ホモで、レズで、輪姦ですね。

こうしてみると、人間界の異常性欲というのは、アメフラシ界では正常性欲だったりするわけです。 この正常と異常の違いはどこから来るかというと、産まれてくる子供の扱いが違うからです。 アメフラシは小さなプランクトンとして産まれるので、すぐに魚達に食べられてしまいます。 だから、物量作戦に出る必要があって、性にもおおらかなわけですね。 一方、人間の場合は、産むことよりも育てることの方が大仕事なので、性に対しても責任を負うことになるわけです。

そう考えると、今時の人達が、現実の女性よりも、ビデオやアニメ、アイドルやキャンギャルなどの、理想化された存在に心酔してしまうのも、わかるような気がします。 性欲は人並みにあるんだけど、生身の人間を相手にするには、いろいろと面倒臭い。 そんなに無理しなくても、世の中にはもっと手軽で安全な「性の娯楽」があるわけだし、そうした商品化されたファンタジーの世界の方が、ずっと住み心地が良いわけです。

もちろん、そういう世界は楽しいし、経済効果も高いので、それはそれで結構なことです。 現実の性の戦いに敗れた人達にとっては、それらが自分の欲求を満たすための重要な役割を果たすこともあるでしょう。 やる気満々の若い人達であれば、それらをおかずにすることはあっても、主食にすることはないでしょう。 でも、小さい頃からそういう世界に慣れ親しんで来た人達からは、現実の性を学ぶ機会を失わせる危険性があるかもしれません。

そういう内気な人には、親や周りの人が、ちゃんとフォローしてあげた方がいいんでしょうね。

死への階段と海底都市

今日は海へと向かう途中で、悲しいことに気づいてしまいました。

いつも階段で撮っているアメフラシ達。 もしかしたら、産卵を終えて力尽き、静かに死を待っているんじゃないかと。 いつもの場所に向かうと、満潮を過ぎて、少しずつ潮が引いているところでした。 まだ堤防のコンクリートが濡れているので、満潮時からどれだけ水位が下がっているのかが一目で分かります。 階段では、上段の方から少しずつ乾き始めていました。

上段では、昨日と全く同じ位置に、アメフラシがいました。 その皮膚は黒ずみ、一匹のハエがブンブンと飛び回っていました。 彼は、死んでいました。 良く見ると、階段の隅の方でも、何匹かが同じようにして死んでいます。 いままで、呑気な奴らだと笑って見ていましたが、もしかしたら、とんでもない考え違いをしていたのかもしれません。 彼らは、彼らの世界で、必死に生きていたのです。

中段に目をやると、ここにも、ほとんど動かないアメフラシがいました。 上半身が黒ずみ、下半身のヒレはだらりと垂れ下がり、内臓が丸見えになっています。 それでも、その皮膚にはわずかに水気があり、生気がありました。 恐らく、力のない者は、満潮時に潮に流されて、そのまま上段に取り残されてしまうのでしょう。 彼は、かろうじてまだ生きていますが、明日はきっと、さらに上の段へと昇っていることでしょう。

生き物の生の儚さを痛感して、思わず泣きそうになります。 でも待てよ、ということは、下段にはもっと若くて活きのいい連中がいるはずだ。 そう思って下の段を見た時、私は目を疑いました。 何とそこには、幻想的で美しい、海藻の海底都市が広がっていたのです。 これまで、干潮の時ばかり来ていたので、こんな素晴らしい世界があったとは、まったく気がつきませんでした。

その海底都市では、立ち並ぶ海藻のビル群を縫うように、若いアメフラシが、元気に、気持ち良さそうに泳いでいました。 ああそうか、これが彼らの本来の姿だったんだ! 潮が引いてくるにつれて、海底都市の天井は少しずつ低くなっていきます。 そして、潮が完全に引いてしまった時、彼らは、海藻を布団にして、すやすやと眠りにつくのです。 やがて潮が満ちるのを夢見ながら。

今日は、生命の神秘を実感した一日でした。

卵の色に関する考察

昨日は、アメフラシの卵を中心に撮ってきました。

先日、立派な卵を見つけたので、もしかしたら他にもあるかもしれない、ということで、防波堤内をぐるりと一周してきました。 すると、あるわあるわ、もうお腹いっぱいになるくらいに、あちこちに卵が産みつけられていました。 とにかく、卵を見つたら、手当り次第に写真を撮っていったんですが、どうも卵には色の違いがあるようだ、ということがわかってきました。

まるでパスタやソース焼そばみたいな濃い褐色のものもあれば、ラーメンや塩焼きそばのような白いものもあります。 中には、色の違うものが混ざり合ってたり、ムラがあるものもあります。 そういえば、これまで見てきたアメフラシにも、色白のものもいれば、色黒のものもいました。 もしかしたら、卵の色と体の色に、何らかの関連があるのかもしれません。 こ、これは大発見かも?

割合としては、白いものが多くて、全体の7割くらいでしょうか。 でも、白と褐色の2種類にきっちり分かれているかというと、そういうわけでもなくて、同じ卵の中でも色の違いがあったりします。 中には、白と褐色と中間のピンクっぽいのもあったりして、カルボナーラとナポリタンとタラコスパがひとつの皿に盛られているようでした。 もしかして、アメフラシはパスタが大好物なんでしょうか。

夜になって、バイト先の後輩に、温泉に浸かりながら、今日のことを話していたら、ふとあることに思い当たりました。 鶏の卵には、黄身と白身がある。 黄身は栄養タンクみたいなもので、実は白身が本体だ。 卵が成長するにつれて、黄身の栄養が消費されてしぼんでくる。 卵の鮮度を見るには、黄身の盛り上がりを見れば良い。 ということは、アメフラシの卵の色の違いは、もしかしたら、この黄身の消費によるものじゃないのか?

本当は、白身が本体というのは間違いで、黄身の一部に胚があって、これが本体なわけですが、黄身の大部分が栄養分であることに違いはありません。 もし、この仮説が正しければ、褐色の色の濃い卵は、生まれたばかりの卵で、色の白い卵は、孵化寸前の卵ということになります。 でも、アメフラシ自体は褐色なので、逆に体ができてくるにつれて褐色になるんじゃないか、ということも考えられます。

これは、卵の定点観測をする価値がありそうですね!

命の紐

それは、複雑に絡み合い、繋がっていく。

春の新色

今年の春の新色は、アメフラシ・グリーンで決まりよ!

表現って何だろう

このところ、ずっと写真史について勉強していたのには、訳があります。

といっても、そんな大層なことじゃなくて、写真集という新しいことを始めるに当たって、何か安心できる証拠が欲しかったんです。 自分では最高に楽しいと思っていても、他の人達や、いわゆる写真の最前線の人達からは、横を向かれたり、鼻で笑われたりするんじゃないか。 そんな不安があって、それを思うと、どんどん心が萎縮してしまうんです。 だからこそ、それを吹っ切るために、それなりの理論武装がしたかったんですね。

写真史を学ぶといっても、自分が生まれる前のことは、その本を信じるしか方法はありません。 自分が生まれてからのことは、自分のこれまでの経験の、その背景となることがらが理解できて、なるほどと感心していました。 でも、写真史として載っているのは、いわゆるポストモダニズムの1990年くらいまでで、それ以降のことは、ほとんど触れられていませんでした。

最新動向を知るには、やっぱり雑誌が一番。 ということで、図書館でカメラ雑誌を手に取ります。 ちょうど木村伊兵衛賞の特集があったので、それをじっくりと読んでみます。 なんだ、お偉いさん達も、自分と同じようなことを感じて、同じようなことを考えてるんじゃないか。 そう思ってホッとしたものの、どことなく違和感。どうも臭う。オヤジ臭さが鼻につく。 何かこう、根本的なところで、大きく違う気がするんです。

お偉いさんだけに偉そうだとか、この賞がどれだけ凄いかという自画自賛ぶりに呆れるとか、そういったことを差し引いたとしても、やっぱりどこか変だ。 で、どこが変なのかというと、その「まず写真ありき」の姿勢に、猛烈な違和感を感じるわけです。 では、写真という枠を取っ払ったらいいかというと、そうでもない。 結局それは、「まず表現ありき」というところに間違いがあるんじゃないかと思うのです。

同じ雑誌の別のページに、「芸術からアートへ」といった内容の記事がありました。 芸術とアートがどう違うのか、その記事からは良くわかりませんでしたが、カタカナの「アート」は、どうやら私には受け入れ難い概念らしいということはわかりました。 変な話ですが、ある写真集を手に取ってページを開いた時、猛烈な不快感を感じて慌てて本を戻し、まるで汚いものを触ったかのように、両手を服に擦り付ける時があって、それと同じ感覚なんです。

こういう一種のアレルギー反応が、どうして起こるのか。 自分でもとても不思議なんですが、事実なんだから仕方ありません。 ただ、その原因のひとつに、相手の気持ちが読めないというのがあることは、間違いないと思います。 確かに、その作品を通して、何らかの刺激は得られます。 でも、だから何?それがどうしたの? あなたは一体、私に何を伝えたいの? 結局、浮ついた言葉ばかりを並べる似非宗教家と、やってることは変わらないんじゃないのかなぁ。

誰が、何を、どう感じたのか。 それがあるから、納得したり、共感したりできるんじゃないのかなぁ。

憧れと満足と

うわぁ、凄いなぁ
うわぁ、高いなぁ
うわぁ、綺麗だなぁ

尊敬する、憧れの人
若者達は、興味津々
元気良く、騒ぎ立てる

でも本当は、もうよれよれ
壁にもたれて、息も絶え絶え
天の迎えに、自ら手を差し伸べる

おいおい、それでいいのかよ
うんうん、これでいいんだよ
この高さになれば、お前にもわかるさ

個性豊かなアメフラシ達

お待たせしました。アメフラシの定点観測の時間です。

今日もまた、図書館に寄った後に、与次郎の防波堤へと向かいます。 最初に見つけたアメフラシは、防波堤の北端にいましたが、南端の方がたくさんいるようです。 北から南へと見ていったので、今日はハズレかな〜、と諦めかけてたんですが、最後の最後にどっさりと見つけました。 手すりの影が落ちて、どこか愁いを帯びたものもいれば、だらしなくひっくり返っているものもいて、相変わらず賑やかです。

アメフラシを追い続けていると、次第にそれぞれの違いが見えてくるようになります。 若くてツヤツヤしたのもいれば、老いて黒ずんでいたり、よぼよぼになったものもいます。 なるほど、アメフラシにも個性があるんだな〜。 とその時、ギョッとするほどに見事な、美形のアメフラシを見つけてしまいました。 おお、これは抜群の美しさです。 あまりに完璧過ぎて、どこか近寄り難い雰囲気を漂わせています。

最後のアメフラシは、内臓むき出しのまま、べったりと眠りこけていました。 美形のアメフラシを見た後だけに、その様子は余計にだらしなく見えます。 私はイタズラ心を我慢しきれなくなって、このアメフラシをドボンと海に沈めてみました。 彼は、ヒレをひらひらさせながら、まるで抗議するかのようにこちらを見ています。 あ、怒ってる。ごめんね〜。 でも、水中のアメフラシは、とても優雅な動きをしていました。

今日はすっかり潮が引いていて、ごつごつとした岩場が露出していました。 岩場の上では釣りをしている人がいたりして、とても楽しそうです。 そうだ、コンクリートの階段だけじゃなくて、岩場のアメフラシも撮ってみたいな。 そう思って、岩場を探してみると、いましたいました。何と一カ所に三匹もいましたよ。 その先には、岩の間から背中だけが少しだけ見えているのもいました。

再びもとの場所に戻ってみると、さっき海に落としたアメフラシが、海の中からこちらを見ていました。 そういえば、刺激を与えると白い液体を出すんだったよな。 海の中で白い液を出すところを見てみたかったので、落ちていた木の枝で、ちょんちょんと刺激を与えてみます。 すると、アメフラシはカメのように首を縮めて、フグのように丸くなりました。 残念ながら白い液体は出してくれませんでしたが、これは大発見です!

また、岩場でアメフラシの卵も見つけました。 まるでラーメンか塩焼きそばみたいですね。 中にはこれを食べる人もいるそうですが、世間一般で海ソーメンとして売られているのは、まったく別の海藻ですので、くれぐれもお間違えのないようにお願いします。 良く見ると、あちこちに海ソーメンが産みつけられていて、これなら当分はアメフラシの撮影に困ることはなさそうです。

撮影に付き合ってくれたアメフラシの皆さん、今日もどうもありがとう!

廃墟に見る現実感の喪失

今から3年ほど前、霧島に一人旅をしたことがあります。

明治の駅舎が今も残る嘉例川駅を降りて、歩くこと30分。 目的地のラムネ温泉についた私は、その荒れ果てた姿に唖然としました。 たまたまテレビで炭酸温泉の存在を知り、それが鹿児島にもあるということで、とても楽しみにしていただけに、とても残念でした。 実は、「ラムネ温泉 仙寿の里」という新しい温泉が、この少し北側にあったんですが、当時の私には知る由もなく、そのまま廃墟見物となったのでした。

廃墟は、人工物として生まれ、諸々の理由でその役目を終え、再び自然に還っていく過程にある建造物です。 そこには、朽ち果てていく物悲しさもあれば、華やかだった頃の面影が残っていたりして、独特の侘び寂び感があります。 かつては、ごく一部のマニアの世界だった廃墟写真も、いつの間にかその勢力を広げ、その代償として、かつての魅力を失いつつあります。 それでも、廃墟に現代の人々を魅了する力があることは、間違いありません。

時代の流れからわかることは、プロパガンダの対立による競争から、利潤を追い求める競争に変わり、実感できる目標を見失った競争に反感を抱いたり、疲れ果てた人達が、自分たちに似た境遇としての廃墟に魅力を感じているということです。 競争力を失い、無慈悲にもリストラされた建造物達。 そうした廃墟に自分達を重ね合わせ、共感を得ることがあったとしても、それは当然の成り行きだといえるでしょう。

前進することは大切なことですが、時には自分の歩みを振り返ることも必要です。 過去を振り返ることで、現在の自分の立ち位置が見えてきて、それが未来への活力へとなります。 時には、過去が自信を与えてくれることもあるでしょう。 時には、過去が現実を浮かび上がらせ、希望を与えてくれることもあるでしょう。 何よりも大切なことは、自分が今という時間を生きているということを、現実のものとして感じ取ることです。

これは、写真の世界にもそのまま当てはまります。 無限の広告写真に囲まれて、グラビア写真に恋する男達に、その一員になろうとする女達。 そうして演出された世界が、新たな現実として成立している世界。 風景写真ですら、もはや現実の風景とはかけ離れた世界へと迷い込んでしまっています。 写真は現実にはなり得ませんが、現実感の喪失に大きく加担していることは確かです。

そういう意味で、写真は現実に対して、大きな責任を負っていると思うのです。

水彩画を観て写真を想う

アコウの木を撮った後に、市立美術館によってきました。

美術館では、第25回鹿児島水彩展が開催されていたので、入場無料につられて入ってみました。 会場を一目見て驚いたのは、展示されている水彩画のひとつひとつが、実に個性豊かでバリエーションに富んでいることです。 以前、南日本写真展を観た時は、似たような写真が並んでいて詰まらない思いをしましたが、こちらは観ていてとても楽しかったです。 中には、中学生の絵みたいなのもありましたが、その眼差しがとても温かで良かったりするんですよ。

それでも、何枚も続けて絵を見ていると、次第に目が慣れてきて、徐々に退屈してきます。 その気持ちは伝わってきたとしても、ある程度の緊張感のないものは、絵としてはあまり良くないんじゃないかな。 そんなことを考えながら観ていると、いきなりドカ〜ンと迫力のある絵が出てきて驚きました。 女の人が椅子に座ってるだけの絵なんですが、その構図には適度な緊張感があり、明暗の使い分けもうまく、それらが遠い眼差しをした彼女の顔に、独特の表情を与えていました。

それ以来、次の区画に入る度に、全体を見渡しながら、これはと思う絵を探すようにしたんですが、やはり、独特の世界観で、大胆に描かれた絵というのは、明らかに輝いて見えるんですよ。 描いた人には申し訳ないんですが、机の上の静物なんかを淡々と描いた絵みたいなのは、どうもぱっとしないんですよね。 いくら対象が静物だとしても、やはりそこに何らかの動きがないと、観る側の心も動いてはくれません。

中には、一見すると地味なんですが、どことなくふわふわとしていて、眺めるにつれてぐんぐん引きつけられてしまうような絵もあったりして、絵の奥深さを実感しました。 大満足で家に帰ってから、今日撮った写真を眺めていると、やっぱり絵画と写真は別物だな、と思いました。 写真は現実とは違うけど、絵画よりはずっと現実に近いことに違いはありません。 写真をより現実に近づける努力をしてみるのも、無駄じゃないように思います。

絵で描けることは、絵に描けばいい。写真に撮りたいものを、写真に撮ろう。

自生するアコウの図

今日もまた、アコウの木を撮ってきました。

例の写真集の話ですが、「近所の風景」「アメフラシ」「アコウの木」の中から、順番に公開していこうと考えています。 「近所の風景」は安心して観れますが、「アメフラシ」は見た目のインパクトが強く、「アコウの木」はそれらのバランスが良いので、今のところ、最有力候補になっています。 脈打つような力強さと、自然の安らぎ、そして厳しさ。 その個性的な風貌と生態は、独自の魅力にあふれています。

これまで、アコウの木は、多賀山公園の記念樹、鴨池緑地と街路樹と撮ってきたわけですが、今日は新たに、鶴丸城跡の城壁にあるアコウの木を撮ってきました。 ちょうど鹿児島県立図書館と黎明館の間にあるこのアコウの木は、他の木を絞め殺さずに、自力で生えています。 こんな逞しい木が、古い城壁の側面からモリモリと生えているんですから、その光景はかなり異様です。

それでも、アコウの木の前を通る人達は、さほど気にする様子もなく、そのまま素通りしていきます。 それでも、私がカメラを構えて写真を撮り始めると、初めてその存在に気づいたかのように、アコウの木にチラリと視線を向けていきます。 中には、信号待ちの間、アコウの木にぶら下げられた案内板を興味深げに読んでいく人もいます。 あ、写真を撮るということは、もしかしたら、路上パフォーマンスのひとつなのかもしれないなぁ。

そう思ってから、私の中で、写真を撮るということの意味が大きく変わってきていることに気がつきました。 昔はただ、良い写真を撮りたいという一心で、撮り続けていました。 そして、ある程度満足のいく写真が撮れるようになると、それを自分で眺めることが大きな楽しみでした。 でも今は、自分の写真で、あるいは自分が写真を撮るということで、誰かに働きかけたいという気持ちが強くなっているんです。

それは、ただ自分の写真を見てもらいたいという自己主張じゃなくて、自分の写真を通して、新しい視点を提供したいんです。 普段何気なく見過ごしている不思議なものや興味深いものを、じっくりと見つめ直してもらいたい。 そしてできれば、その面白さを共感したい。 こうしたことは、これまでにも繰り返し書いてきてるんですが、それがより明確になってきてるんですよ。

これは、写真集を出すぞという決意が、良い方向に作用しているんじゃないかと思っています。

憧れの白いタンポポ

写花星人さんから教えてもらった白いタンポポ、ついに見つけましたよ!

死神の舞い

彼は、死神
生き物の、生を奪う
時には激しく、時には穏やかに
しかし彼は、無表情のまま
ただ静かに、生を奪う

役目を終えると、彼は舞う
表情を変えずに、彼は舞う
その舞いは、死者のため
その舞いは、自分のため
ただ静かに、彼は舞う

歴史の中のぐるぐる

このところ、ずっと写真史を勉強し直していたんですが、やっと整理がついてきました。

写真は、絵画とカメラ・オブスクラとの間に生まれました。 カメラ・オブスクラは、レンズを通して目の前の風景を平面に映し出すことができたので、絵画はその能力に惚れ込んでいました。 絵画は、映し出された像を頼りに、遠近感のある緻密な絵を書くことができましたが、写真が生まれたことによって、その像を直接記録することができるようになったのです。 絵画は、我が子の才能を見抜き、英才教育を施します。

写真は、絵画の期待に応えて、すくすくと成長していきます。 ところが、思春期を迎える頃には、絵画の言うことに違和感を感じるようになります。 自分は自分だ。親の言うことなんて知ったことか。 そうして反抗期に入った写真は、悪ガキ同士で集まって、盗んだバイクで走り出したり、ナイフみたいに尖っては、触るもの皆傷つけたりしました。 写真は、そんな荒れた生活の中で、被写体を盗む技術や、鋭いカメラアイといった、自分自身の特徴をつかんでいきました。

自分を知り、落ち着きを取り戻した写真は、自分の可能性を確かめてみたくなります。 とりあえず、自分の身の回りのことであれこれ試してみますが、もっと大きな世界に出たいと痛切に感じるようになります。 そんな時、世界大戦が勃発し、写真はここぞとばかりに兵隊に志願して、戦場へと旅立っていきます。 戦場は、想像を絶する世界でしたが、それだけに、写真の能力が大いに役に立ちました。

しかし、戦争が終わり、戦争が何も生み出さなかったことに落胆した写真は、虚無的で否定的な気持ちに襲われます。 今まで自分がしてきたことは何だったのか。全くの無意味だったんじゃないか。 過去のしがらみを捨て、狭い世界から抜け出さないと。 やがて立ち直った写真は、世界各地の未開の地を旅して、新しい世界観を追い求めるようになります。 また、自分一人の力の限界を知り、様々な仲間と手を組むようになります。

戦争の傷も癒え、新たに力がみなぎってくると、積極的に経済活動へと関わっていきます。 商品の魅力を伝え、新しい価値観を提供し、相手の購買意欲をくすぐっていく。 それは、写真にとって、とてもやりがいのある仕事でした。 しかし、そこには自分の居場所はなく、自分は大勢の中の一人でしかありません。 世界は複製された同じものであふれかえり、心の支えになるようなものもなく、ただ流されるばかり。

それでも、やっぱり自分はここにいて、時には自分であることを確認したくなる自分がいる。 写真は、インターネットやデジタルカメラと出会うことで、自分の確認作業という新たな役割を与えられました。 人気のケータイだけど、私のは他のとちょっと違うの。いいでしょ。 どうってことのない、ありふれた風景だけど、私にとっては思い出の詰まった大切な場所なのよ。 写真は、その主人との結婚生活を、なかなか楽しんでいるようです。

私も、今という時代の中の一人なのは、間違いないようです。

いつもの写真を楽しもう

今日は、久しぶりに近所をのんびりと撮影してきました。

ここ最近、少し重たい写真が続いていたので、息抜きみたいなものですね。 あれこれと一生懸命になるのは素晴らしいことですが、あんまり根を詰めると視野が狭くなってしまって、撮るのも観るのも面白くなくなってしまいます。 そんな時は、いつもの見慣れた近所の風景を、何も考えずに好きなように撮るのが一番です。 これが、まるで温泉に浸かっているかのように、気持ちがいいんですよ。

良く「集中しなさい」とか「集中力が足りない」なんて言いますが、集中力には二種類あると思います。 ひとつは、何らかの対象に意識を向ける集中力で、もうひとつは、自分自身を見つめる集中力です。 アメフラシや木々の写真は、それらの存在に意識を集中して撮っていますが、近所のお散歩写真は、ただひたすらに自分自身に忠実に撮っています。 どちらも集中して撮ってることには変わりありませんが、実は全く違います。

やりたくもない勉強に集中するのは不可能です。 興味のあることを調べる時は、とても集中しやすい代わりに、とても疲れてしまいます。 でも、自分自身に集中している時は、集中しているという自覚がなく、なぜだかとても気持ちが良いのです。 面白いのは、そうした撮る側の気持ちが、撮れた写真にも表れることです。 自分のために撮った写真というのは、自分で言うのもなんですが、伸び伸びとしてとても気持ちが良いですね。

アメフラシのように、新しくてまだ慣れていない被写体では、目では見えていても、心の中に判断する材料がないので、常に迷いながらの撮影になります。 すると、撮影が終わった瞬間から、その時の経験が猛烈な勢いで、心の中に再構成されていきます。 そして、撮れた写真を眺めながら、心の中に生まれつつあるアメフラシを、より理想的なアメフラシに近づけていきます。

ここに載せたような光と陰と影の写真は、アメフラシと同じようにして、少しずつ作り上げていった、私の心の景色でもあります。 そして、その景色は、撮影を繰り返す度に、少しずつ広がっていきます。 新入りのアメフラシは、まだこの景色に溶け込めずにいますが、いつの日か、同じ心の住人として、ぽかぽかとした日差しを浴びながら、気持ち良さそうに昼寝することになると思います。

そうやって、少しずつ自分の心の景色を広げていきたいなぁ。