秋の夕暮れ
2006/09/30 19:49 写真詩
私からあなたへ。文章と、写真と、ソフトウェア。
2006/09/30 07:37 写真集
昨日は、久々にぶらりとカメラを持って散歩しました。
ここ数日は穏やかな秋晴れの日が続いて、嬉しい限りです。 気温も下がって心地良い空気を感じますが、まだまだ日差しは強く、歩いているうちにうっすらと汗ばんできました。 現在の主力カメラであるR1を修理に出しているので、今日はA1が散歩のお供です。 このA1は新品で購入して1年半が経ち、すっかり手に馴染んだカメラです。 このところ出番が少なかったので、心なしかちょっと嬉しそうです。
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そんなA1の頑張りによるものなのか、写真を撮っていてとっても楽しいんですよ。 R1は優等生なんですが、まだ他人行儀なところがあるので、一緒にいてもどうも心が落ち着かないんですね。 言うことは良く聞いてくれるし、仕事はそつなくこなしてくれるんですが、どうも手応えが感じられないんです。 それが、A1だと、手にしているだけで何か起きそうな、不思議な期待感を感じるんです。
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これは恐らく、私の体がA1に対して絶対の信頼を置いているということなんでしょうね。 癖を知り尽くしているので、どう撮ればどう仕上がるかが、手に取るようにわかります。 もちろん、私の好みの範囲内ではありますが、安心できるぶん、いろんなものに目がいくようになるんですよ。 R1だとつい気負ってしまって、カメラを向けるのをためらってしまったりするんですよね。
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ご近所写真って、はっきりいって見慣れた光景ばかりだし、無理して撮る必要なんて全くないんですよね。 日常の中の非日常というわけでもなくて、日常の中の日常、それも日常の生活とは無縁の、無意識のうちに不要なものとして切り捨てられているような、そんな無用の長物ばかりを撮り続けているんだから変な話です。 で、そのどうでも良いようなもの達が、なぜか味わい深かったりするんですよ。
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それを飽きもせずに何度も繰り返していると、いつの間にか自分のスタイルみたいなのができてきて、撮りながら「ああ、またこんなの撮ってるよ」なんて思うんだけど、そのすぐ後に、さらに似たような写真を撮っちゃったりするんです。 もしかしたら、カメラの方もそのスタイルに慣れちゃって、「おいおい、あれも撮った方がいいんじゃないの?」なんて教えてくれてたりするのかもしれませんね。
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魂が宿るというのは、案外こういうことなのかもしれません。
2006/09/29 06:30 PhotoMaster
お待ちかね、PhotoMaster 2の最新スクリーンショットですよ。
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1ヶ月前のスクリーンショットと比べると、ボタンやメニューが増えているのがわかります。 ボタン類は整然と並んでいますが、上には各画面で共通のボタンが並び、下には画面ごとに異なるボタンが並んでいます。 従来のPhotoMasterでは、グループごとにまとまってはいたものの、画面を切り替える度にボタンがあちこち移動したりしていました。 ちょっとしたことではありますが、いつも同じ場所にボタンがあるというのは、とても安心できます。
これらのボタン、実はひとつもアイコンを使っていないんですよ。 アイコンというのは、ワンポイントして使う分にはわかりやすくて良いのですが、全てをアイコン化してしまうと、どれが何の機能なのかさっぱりわからずに混乱してしまいます。 アイコンの絵とにらめっこしたり、いちいちマウスカーソルをあてながらヘルプを表示させるくらいなら、最初から文字で表示した方が、はるかに便利だというものです。
また、ポップアップメニューには、アスペクト比なら「A:」、フィルター効果なら「F:」というように、機能の頭文字をつけるようにしました。 わざわざキャプションをつけるのはスペースがもったいないし、従来のように説明が全くないのもわかりにくいです。 基本的にポップアップメニューの項目は上級車向けの機能なので、頭文字だけでも十分わかってもらえるだろうし、初心者の人には、難しそうだから触らないでおこう、という抑制効果も期待できます。
PhotoMasterでは、ドラッグ&ドロップによる操作はなるべく行わないようにしています。 一番の理由は、REALbasic 5.5.4では、ドラッグ&ドロップのサポートが貧弱なので、ほとんど使い物にならないというのがあります。 それ以外にも、ドラッグ&ドロップは、上級者でも非常に神経を使う作業なので、あまり好ましくないという理由もあります。 ドラッグの途中でうっかりボタンを離してしまったり、マウスに触れた拍子に意図せずドラッグ&ドロップをしてしまった、なんてことは、誰もが経験したことがあるんじゃないでしょうか。
実は、これまでに寄せられた要望に、「Macライクなインターフェイスを」というものがいくつかあったんですよ。 恐らく、アイコンの使用とドラッグ&ドロップによる操作をできるようにして欲しいということだと思うのですが、上記の理由から、PhotoMaster 2ではどちらもサポートしていません。 確かにMacの世界では、アイコンやドラッグ&ドロップによる操作が直感的でわかりやすいと言われていますが、それはあくまでマウスの操作に習熟していることを前提とした話なんですよね。
PhotoMasterは、元々自分のために作ったソフトではありますが、シェアウェアとして公開するにあたって、パソコンの操作に不慣れな自分の父親が使うことを想定してインターフェイスを仕上げました。 アイコンの区別なんてつかないし、ドラッグ&ドロップどころかダブルクリックだってままなりません。 操作がわからないときは電話で指示することになるので、全てが目で見えて、言葉として理解できる必要があるのです。
これまでは、父親は単なる仮想ユーザーでしたが、この夏に新しいデジカメを購入したのをきっかけに、本物のPhotoMasterユーザーになりました。 そして、実際に電話で使い方を教えながら、こうしたデザインポリシーが間違っていなかったことを確信しました。 また、私はデジカメのヘビーユーザーであり、マウスならぬトラックボールの達人でもありますが、ドラッグ&ドロップよりも2クリック、あるいは1クリック&リターンキーの方が、安心して作業できます。
PhotoMaster 2では、この操作性にもっと磨きをかけたいと思っています。
2006/09/28 19:43 随想録
先日、ある事件の存在を知りました。
少し前に、バイト先の後輩から話だけは聞いていたのですが、まさか鹿児島でもこんな悪質な事件が起こるのかと驚いたものです。 6年ほど前、チラシ配りのバイトで市内のマンションにポスティングしていた時、下着泥棒が多発しているという張り紙を見て、鹿児島も物騒になったな、と思っていましたが、今回は家宅侵入、凶器による恐喝、そして婦女暴行ですからね。 これはもう、絶対に許されることではありません。
こうした犯罪行為そのものも腹立たしいわけですが、今回の逮捕が3回目で、しかも他にも20件以上の余罪があるというじゃないですか。 警察は一体何をしていたのか、そしてこの川密直人という男は一体どういう神経をしているのか、全く理解に苦しみます。 こうした犯罪が、被害者の女性に一体どれだけの心の傷を与えるのか、警察だって良くわかっているはずです。 男としても、そういう行為が気持ち良いとは、とても思えません。
私はパソコンの家庭教師みたいなこともやってるんですが、実はその生徒さんの身内の店でバイトしていた人が、今回の事件の被害者だったんです。 事件のあまりのショックに、バイトも辞めてしまって、カーテンが風で揺れただけでも怯えて震えているそうです。 自分勝手な、それも歪んだ欲望で、人の体や心を傷つける行為は、どのような理由があろうと、絶対に許されることではありません。
さらに、この川密直人という男、私と同じ町内に住んでいたんですよ。 もしかしたら、近所の道をすれ違ったり、同じ空気を吸っていたかもしれないと思うと、猛烈に頭にきます。 私の知ってるこの町は、こういう悪質な犯罪とは無縁な、長閑で穏やかなところです。 これまでも、ずっとそうでした。 そして、これからもずっとそうあって欲しいです。 人の出入りが多いために、運悪く馬鹿な男がやってきてしまっただけなんですよね。
こういう犯罪を防止するためには、一体どうすれば良いのでしょうか。 詳しいことはわかりませんが、彼は愛情を知らずに育ったんじゃないかと思います。 だって、愛情を注ぐことさえ知っていれば、彼女だってできるだろうし、こういう犯罪を犯す必要もなくなりますからね。 小さいうちから、家族、親戚、友達など、身近な人達から愛されていれば、きっとこういう事件は起きなかったと思います。
どんなに貧しくても、心だけは豊かでいたいですね。
婦女暴行撲滅キャンペーン標語:
- 体より 心の方が 気持ち良い
- ムラッときたら ひとりでやろう
- アダルトビデオ どうせ見るなら 和気あいあい
皆さんも、良い標語を思いついたらコメントに書いてくださいね!
2006/09/27 20:59 写真集
写真って、いろんなものを切り取ってできるものなんですよね。
被写体を切り取って、空間を切り取って、光を切り取って、時間を切り取って、自分を切り取って。 考え出すと、それぞれの組み合わせが無限にあって、きりがなくなります。 でも、不思議なもので、それを見た瞬間にピピッとくるものがあって、カメラを向けると、さらにいろんなイメージが湧いてくるんですよね。
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イメージが湧くといっても、そんなにはっきりしたものじゃなくて、線画のようなぼんやりとしたものなんです。 むしろ、ファインダーを覗きながら、あれこれカメラを操作していくことで、少しずつ写真ができていくんですよ。 だから、自分の腕というよりは、被写体との共同作業といった方がいいかもしれません。
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これらの写真は、同じ場所を、何枚か続けて撮ったものです。 気に入った場所があると、そこを続けて何枚か撮るわけですが、大体5〜6枚撮れば満足します。 それ以上撮ろうとしても、イメージが固まってきてしまって、面白みがなくなってしまうんですよね。 だから、美味しいと思える腹八分目でやめておくのがミソですね。
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同じ被写体で何通りも楽しめるなんて、写真って面白い!
2006/09/27 02:23 DiMAGE A1
DiMAGE A1は、撮っていて楽しいカメラですが、いろんな問題も抱えています。
A1には、悪名高き「緑かぶり問題」というのがあります。 これは、JPEGで撮影すると、なぜか緑っぽく写ってしまうというもので、価格.comの口コミ掲示板などでずいぶん叩かれたものです。 私は、自分のA1は大丈夫だと信じて使い続けていましたが、RAWで撮影するようになったことで、自分のA1も緑かぶりを起こしていたことを認めざるを得ませんでした。 その代わり、RAWで撮影したA1の画像は、同じカメラの画像とは思えないほど高画質で、とても満足していました。
ただ、色を決める一番の要因は、ホワイトバランスです。 A1のAWBは、ファームウェアを1.13jにアップデートすることで、ずいぶん安定するようになりました。 それでも、その構造上、AWBではショットごとに色にバラツキが出てしまいます。 そこで、プリセットのWBを設定するわけですが、昼光にすると、どうも青みが強いんです。 R1を買って撮り比べてみると、その差は歴然でした。 まさか、緑かぶりだけじゃなくて、青かぶりの問題まであったとは!
RAWであれば、とりあえずAWBで撮っておいて、撮影時の色温度とCC指数を見比べてから平均的な値で一括現像すれば、まずまずの色合いでバラツキのない写真を得ることが出来ます。 ただ、ただでさえ面倒な現像作業で、これ以上面倒な作業は行いたくありません。 そこで思いついたのが、CWBの活用です。 有り難いことに、A1にはCWBの専用ボタンがついています。 でも、CWBを正確に取るにはグレーカードを買って持ち歩かないといけません。
![]() R1 昼光 |
![]() A1 AWB |
![]() A1 昼光 |
![]() A1 CWB |
何とか、グレーカードを使わずに、手軽にCWBが使えないだろうか。 そう思って、白い紙でCWBを取った写真のRGB値をあちこち計測した結果、とうとうグレーカードの代用になるものを発見しました。 それは、何とアスファルトです。 日本全国、どこにでもあって、均一で、測定するためのある程度の面積があるもの。 アスファルトは、まさに理想的な存在ではありませんか。
アスファルトの見た目は全然白くなくて、むしろ黒かったりするわけですが、CWBは無彩色であれば問題ありません。 実は、アスファルトをピンポイントで測定すると、結構ムラがあったりするわけですが、カメラのCWBの計測時はある程度の領域の平均値を取るので、心配はありません。 下の写真は、アスファルトでCWBを取って撮影したRAWを、昼光で現像したものと、撮影時設定で現像したものです。 寒々しい印象が、ずいぶん暖かくなったでしょ?
![]() A1 昼光 |
![]() A1 CWB |
RAWとCWBを駆使して、A1の能力をフル活用してくださいね!
2006/09/26 22:53 写真集
今日は、久々に良い天気。外に出ないのはもったいない!
というわけで、カメラのキタムラでに行ってきました。 R1のセンサーとファインダーにゴミが入ってしまって、ずっと気になってたんですよね。 勝手についたゴミだから勝手に取れてくれないかな、なんて思って様子を見てたんですが、やっぱり駄目でした。 でも、今はR1がなくてもA1があるので、安心してR1を修理に出せます。 カメラが2台あるって素晴らしい!
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季節的には、爽やかな秋晴れってことになるんですが、鹿児島の秋晴れはまるで春の陽気のようです。 うきうきしながら自転車をこいでいると、そこら中で色とりどりの彼岸花が満開でした。 赤、白、黄色。 同じ赤でも、明るい赤とくすんだ赤があって、白も薄い赤や薄い黄色があったりして、見ていてとても楽しいです。 春のような陽気と彼岸花の組み合わせが、何だかとても可笑しく思いました。
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彼岸花といえば、とても綺麗なんだけど、ちょっと毒々しいイメージがあって、いまいち好きになりきれなかったりします。 特に、夕暮れ時の彼岸花は、そのままどこか知らないところへ連れて行かれそうな、そんな妖しげな雰囲気を漂わせています。 でも、今日の彼岸花は、元気はつらつ、とても健康的な一面を見せてくれました。 何だか、赤い彼岸花が運動会の赤白帽のように見えてきます。
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彼岸花を女性にたとえるなら、40歳を過ぎて、色気と貫禄を漂わせた大人の女性でしょうか。 すらっと伸びた手足に、すっと正した背筋。 体のラインを感じさせるタイトな服にロングスカート。 透き通るような白い肌と、目の覚めるような真っ赤な口紅。 若い女性には決して真似することの出来ない、独特の美しさがありますよね。 そういう意味では、秋が似合う花ですが、春の陽気に包まれた彼岸花も良いものです。
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どの季節でも、春の陽気に包まれていたいなぁ。
2006/09/24 11:48 バイク・エクストリーム
昨日は、ドラゴンさんの専属カメラマンをしてきました。
ドラゴンさんは、生業(せいぎょう)というチームを率いるエクストリーマー。 エクストリーマーというのは、バイクの曲芸乗りのことです。 曲芸乗りというと、何だかふざけて乗ってるみたいな印象がありますが、エクストリーマーは熱血の真剣勝負ですよ。 以前、ドラゴンさんの愛車を撮らせてもらったことがありますが、その時は止まったバイクを撮っただけ。 今回は、全開エクストリームで迫力満点でしたよ。
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ドラゴンさんのウイリーは、一度だけチラリと見せてもらったことがあったんですが、ぜひとも練習風景を見てみたいと思っていたんですよ。 夏の間によろしく、とお願いしていたんですが、ついにその機会がやってきたわけです。 よ〜し、写真を撮りまくるぞ〜、というわけで、A1とR1の2台体勢で練習場へと向かいます。 今回は、あらかじめ練習の雰囲気を知ってもらいたいということで、ドラゴンさんひとりだけの練習でした。
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準備運動をして、プロテクターを装着したら、いよいよ練習開始です。 私は、とりあえずR1を手にバイクを追っかけます。 最初は、ドラゴンさんがデモンストレーションを兼ねて、いろんな技を繰り出してくれました。 私は、それを遠くから眺めています。 何枚か写真を撮りましたが、練習の邪魔になるといけないなと思って、どうも気が引けます。 R1は広角よりだし、AFもちょっと頼りない感じです。
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休憩を機に、カメラをA1に持ち替えます。 設定は、Pモード、RAW、CWB、連写ノーマル、そしてC-AFです。 今回のバイク撮影では、A1の3D-AFとRAWの5連写が威力を発揮しました。 200mmの望遠が使えることもあって、少しずつ写真に迫力が出てきました。 でも、ファインダーを覗きながらの撮影では、どうもスピード感が出ない。 そこで、背面液晶を使ったスナップ・スタイルに切り替えたところ、ずっと迫力が出てきました。
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最初のはカメラに戸惑いがちだったドラゴンさんも、次第にカメラを意識することに慣れてきて、積極的に撮られてくれれるようになりました。 こちらも、連写のタイミングにも慣れてきて、スナップ・スタイルで積極的に写真を掴み取っていきます。 そうしているうちに、お互いに熱が入ってきて、かなり充実した時間を過ごすことが出来ました。 この日に撮った320枚の写真は、まさにドラゴンさんと私のコラボレーション作品ですね。
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ドラゴンさん、素晴らしい体験を、本当にどうもありがとうございました!
2006/09/22 18:38 随想録
毎日の晩ご飯の献立って、どうやって決めてますか?
慣れていない人は、まず何を作るかを考えます。 そして、レシピを見ながら必要な材料をメモして、買い物に行きます。 慣れてくると、手元にある食材から、作れそうな料理に決めます。 買い物は、その時々で、安売りしているものを適当に買ってきます。 こだわる人は、献立の栄養価を計算しながら、バランスの良い食生活を送れるような長期計画を立てます。 もちろん、食材の在庫管理もきっちり行います。
新婚ホヤホヤの若奥様は、旦那の好きな献立ばっかり出したり、無理して豪勢な献立を作ったり。 久々に実家に帰ったりした時なんかも、同じような状況になったりします。 最初のうちはそれでもいいんですが、いちいち献立を考えるのも面倒だし、余った食材が無駄になるのももったいない。 第一、知ってる献立なんてそんなにたくさんないし、好きなものばっかり食べてても飽きてくるし、栄養も偏っちゃう。
おばちゃん達は、スーパーの特売日が大好き。 何が安くなるかはわからないけど、出たとこ勝負で買っておけば、食費が安くなることは間違いありません。 余計なものまで買い込み過ぎて無駄にすることもあるけど、そこは長年の勘でうまく調節します。 冷蔵庫の中をのぞけば、作れる料理が頭の中にいくつも思い浮かびます。 それらを順に見比べながら、昨日は脂っこい焼き肉だったから、今日はさっぱり魚の煮付けにしようかな。
パソコンの献立ソフトを使えば、献立の悩みは全て解決。 月末には、来月分の献立表を作って、栄養バランスもカロリー計算もばっちりです。 これさえ食べていれば、病気知らずで元気モリモリ。 そんなある日、息子の部活の試合がありました。 その日のメニューは、カボチャの煮っ転がし。 お肉食べたいよ〜。ご飯もおかわり〜。 だ〜め、栄養バランスやカロリー計算が合わなくなるから、今日はこれで我慢しなさい。
問題:
この文章から学んだことをコメントに書きなさい。ただし、他人のコメントを参考にしてはならない。(字数制限なし)
2006/09/21 02:27 随想録
音楽のない人生なんてないんだそうですよ。
今ではiPodが流行っているというかすっかり定着してしまっています。 私が中学生の頃は、カセットテープのウォークマンが大流行。 みんな、音楽を聴くのが大好き! そして、やはり中校生の頃くらいから、カラオケが大ブームになりました。 そこら中にカラオケ屋さんができて、マイクを握り締めて大熱唱。 みんな、歌を歌うのが大好き! でも、私は聴くのは好きだけど、歌うのは大の苦手なんです。
話によると、うちの父親はかなりの音痴で、音楽の授業では、先生に「歌わなくていいから黙っとけ」と言われたんだとか。 そんな父親の遺伝によるものなのかどうか、私は歌が下手なんです。 はっきりそれを意識したのは、小学6年生の声変わりの時期。 ドレミファソラシドをどの音域まで発声できるかというテストがあったんですが、声変わりのせいか、自分でも情けなくなるくらい、音がずれたんです。 そのテストは、なぜか男女ペアで行われて、ペアを組んだ女の子に気があったりしたもんだから、余計に恥ずかしかったんですよね。
それ以来、歌を歌うのが恥ずかしくって、自信を持って歌えなくなっちゃったんです。 中学校では合唱祭なんてものがあったんですが、自分の声だけが浮いてるような気がして辛かったですね。 音階がずれるだけじゃなくて、音域の幅も狭くて、高音も出なければ低音も出ない。 仕方がないから、真ん中らへんの部分だけを申し訳なさそうに歌ってました。 この歌嫌いは今も続いていて、大学生の頃は、カラオケをどうやって断るか、ずいぶん苦労したものです。
そんな筋金入りの歌嫌いの私が、一人暮らしをするようになってからは、独り言と一緒に独り歌いをするようになったんですよ。 最初のうちは、良く聴く曲のサビなんかを「ん〜ん〜ん〜」とハミングする程度だったんですが、いつの間にか、その時の気分に合わせて、訳の分からないメロディを口ずさんでたりするんですよ。 そういえば、大学の植物学入門の講義で、マラソンの瀬古選手にそっくりの先生が、「チッチッチ〜、チキチキチッチッチ〜」という意味不明の呪文を唱えながらスライドを操作しているのを、笑いをこらえながら見ていたものです。
ほとんどは、どこぞの借り物のメロディーをアレンジした程度のものなんですが、その時の気分に応じて自然と口に出るのが、何とも不思議です。 具体的には、「プ〜ププップ、プ〜リプップ、プリプリプップップ〜」とか、「てってけてって、てってけてって、て〜てて〜の〜て〜」とか。 最近は、「ミンミコミッコ、ミ〜コミッコ、ミ〜イコッちゃん〜」と、飼い猫のミーちゃんの歌も多いです。
いつだったか、「おならぷっぷっぷぷりぷりぷりぷりぷぷっぷ〜、ぷりぷぷりぷぷりぷりぷぷっぷ〜」というのを無意識のうちに口ずさんでいたんですが、それを彼女に見られて大笑いされたことがあります。 あまりにバカな歌詞を大真面目で歌っていたのが猛烈にウケたんだとか。 でも、好きな彼女と一緒にいるときはやっぱり楽しいので、自然とそういう楽しげなメロディーが口に出るんでしょうね。
音楽っていうのは、そういうものなのかもしれませんね。
2006/09/20 17:16 随想録
しつこいようですが、またまたスピリチュアルのお話です。
どうやら、私はずっとスピリチュアルを誤解していたようです。 私はてっきり、あらゆる宗教の教義を統一したものがスピリチュアルだと思っていましたが、そうじゃなかったんですね。 スピリチュアルとは、スピリットすなわち霊魂崇拝のことだったんです。 人間には、肉体や精神、思考や感情といったものの他に、霊魂というものが存在していて、霊魂同士が会話し合ったり、死後も霊魂は消えずに残るという考え方のようです。
元をたどれば、古代のシャーマニズムに行き着くようですね。 大昔は、激しい儀式を行うことでトランス状態に入り、その中で霊との交信を図り、政の取り決めを行っていたようです。 シャーマニズムは、世界各国で見られ、日本でも邪馬台国で卑弥呼が鬼道を行っていたり、神道でも巫女がその役割を今に伝えています。 ところが、キリスト教や仏教などの各種宗教が勢力を広げるに従って、シャーマニズムは影を潜め、スピリチュアルとして細々と息を繋いでいたようです。
ところが、19世紀に入って、アメリカのニューヨーク州ハイズビルで、幼い姉妹が霊魂との交信に成功したというニュースが流れ、スピリチュアルが脚光を浴びることになったそうです。 元々、変な物音がするという評判の家だったらしいんですが、このフォックス姉妹がこの家に引っ越してきたら、やっぱりコツコツと変な音がする。 で、この音はこの家に住む霊魂の仕業に違いないということで、家族が霊との交信を試みたところ、音の回数によってイエスとノーを答えることに成功したんだとか。
この事件の面白いところは、この姉妹の体験談で終わらず、その様子をマスコミが大々的に取り上げ、リアルタイムで報道していたことです。 高名な学者達によって公開実験もされたようです。 そして、この問題は一般の人達だけでなく、いわゆる知識人の間でも大きな話題となりました。 ただ、注目が集まるにつれて金銭問題が絡んできたり、後に姉のレアがイカサマであることを暴露したり、それをまた否定したりして、その真偽のほどは明らかにはされていません。
この事件の真偽のほどはともかく、この事件がきっかけとなって、霊魂は本当に存在するのか、ということで大きな議論が巻き起こりました。 もし、この事件が事実だとすると、霊魂は本当に存在することになり、前世や死後の世界が存在することになります。 そして、生身の人間がそうした霊魂と交信ができることになるのです。 この事件を知った人達は、後に続けとばかりに、盛んに霊魂との交信会を開きました。 そして、中には霊魂との交信に成功して、膨大な量の通信記録を出版する人も現れました。
その後、宗教学の観点からスピリチュアルの交信記録を研究する人が現れたりして、スピリチュアルと様々な宗教が融合していきました。 私がスピリチュアルだと思ったものは、この頃に作られたものだったんですね。 本来のスピリチュアルというのは、あくまで霊魂との交信、いわゆるチャネリングを主な手段として、霊魂から様々なことを聞き出すのが目的のようです。 ですから、霊魂が何を言っているかということよりも、霊魂そのものの存在こそが重要なんですね。
はっきりいって、私は霊魂の存在は信じていません。 いや、霊魂に相当するものは存在するということは確信していますが、それはスピリチュアルのいうところの霊魂ではなくて、霊魂のように見える別の存在だと考えています。 かといって、霊魂の存在を全く信じていないかというと、そういうわけではなくて、お墓に行ったら何やら不思議な感覚がするし、人の生き死にで説明に困る体験をしていることも確かですし、霊魂が存在したら面白いだろうな、とも思います。
ある調査によると、霊魂の存在を信じている人の割合はほぼ半分だそうですよ。 あなたは霊魂を信じますか?
2006/09/20 01:40 随想録
心を落ち着けてみると、なあんだ、といった感じがします。
結局は、自分とは違う考え方をする人達もいる、ということなんですよね。 その考え方が、自分にとってどれだけトンチンカンなものに見えたとしても、それがその人にとっては揺るぎない信念だったりするわけです。 今回のスピリチュアル(1 2 3 4 5 6 7)についても、私は論理的な思考をするように心掛けていますが、逆に感じたことを素直に受け入れて、周りに感謝しながら生きている人達もいる、ということなんですよね。
こう書くと、全く相容れないみたいに見えますが、決してそんなことはありません。 私だって、論理的な思考だけで生きてるわけじゃなくて、誰かと出会ってその縁に感謝することもありますし、神社を訪れた時に神聖な空気を感じることもあります。 スピリチュアルな人達だって、スピリチュアルと名のつくものは何でもありがたがっているというわけでもないでしょう。 人の考え方の違いというのは、もっと緩やかなものだと思います。
もし、私にスピリチュアルの存在を教えてくれたみえこっち。さんと、直接お会いしてお話をしたのであれば、決して今回のように激しい議論を展開することはなかったでしょう。 みえこっち。さんとは長いお付き合いですし、お互いに信頼関係を築いてきましたから、お互いを認め合いながら、和気あいあいと談笑していたと思います。 でも、そういう会話と、ブログの記事とでは、まるっきり性格が異なるんですよね。
なぜなら、一対一の会話であれば、私は自分とみえこっち。さんのことだけを考えれば済みますが、ブログの記事にするとなると、不特定多数の人達に、一般化したスピリチュアルについて語ることになるからです。 ブログの記事にするということは、常連さんだけでなく、検索してやってきた見ず知らずの人達が参考にする可能性があるわけです。 実際、アクセス解析の結果を見ると、常連さんよりも、検索して訪れる人の方がずっと多いのです。
今回、スピリチュアルについて書くにあたって、スピリチュアルの世界が実に混沌としていることに驚きを感じました。 そして、中には、自分達を特別なものとして認識していたり、自己を正当化し過ぎて物事の判断がつかなくなっている人達がいることを知り、これは何とかしなければ、と思ったわけです。 ですから、ちょっと批判的な内容になってしまいましたが、スピリチュアルそのものを否定しているわけでもなければ、みえこっち。さんを個人的に非難しているわけでもありませんからね。
基本的に、私がブログの随想録を書くときは、物事を一般化して、論理的に納得のいく形にしてから載せるようにしています。 たまに、個人的な感想や、十分に考えがまとまっていないときは、ですます調ではなくて、口語表現によるつぶやきの形にしています。 こういうつぶやきは滅多に書きませんが、あえて自分をさらけ出すことで、同じように悩んでいる人がいたら、これを読むことでちょっとでも気が楽になるんじゃないかという期待を込めて、恥を忍んで書いています。
というわけで、自分のブログ記事についてフォローしてみました。
2006/09/19 15:21 随想録
言葉は、正しく使ってこそ、価値があるものです。
このところ、スピリチュアルについて調べていたわけですが、私にはどうも「行き過ぎ感」を感じるんですよね。 スピリチュアルの人達は、直観を大切にしましょうと言います。 それは、私も同意しますし、正しいことだと思います。 ただ、直感と直観を混同しているようなところがあるように思うのです。 ん、それってどう違うの? 直感は、感じたことをそのまま信じること、直観はあれこれ考えずに物事を捉えることです。
たとえば、初めて自転車に乗る練習をするとします。 直感は、乗りもしないうちから、「わあ、こんなの自分にできるわけないよ」とか「俺は絶対に自転車に乗れるようになるんだ」と感じることです。 ちなみに、「よし、今日一日で乗れるようになるぞ」というのは、直感ではなくて決意ですね。 さて、いよいよ、自転車にまたがって練習開始です。 でも、最初のうちは転んでばかり。 ところが、何回も転んでいるうちに、少しずつ遠くまで乗れるようになって、ある時を境に、急に転ばずに乗れるようになります。 これが直観です。
自転車に乗れるようになるコツというのは、いくつかあります。 でも、それを言葉で伝えて、言葉で理解しても、それですぐに乗れるようになるわけではありません。 やはり、繰り返し練習して、自転車に乗るという体験から学んでいかなければなりません。 そして、体がコツをつかんでから初めて、その言葉の意味を理解したり、その体験を言葉にしたりできるのです。 コツをつかむということは、自転車が教えてくれることに耳を傾け、それに素直に従うということでもあります。
小学6年生の頃、私は自分の自転車を改造することに熱中していました。 そして、自転車への愛情が深まるにつれて、自転車が自分の言うことを聞いてくれたらいいのにな、と思うようになりました。 下校時に、校門の前で自転車に念じると、自転車がひとりでに動き出して、校門まで迎えにきてくれるのです。 私は、そのシーンを想像しながら歩いて帰ったわけですが、そのシーンは実に生々しく、まるで本当のことのように思えたものです。
これは、私の直感の体験談ですが、実は私だけの問題じゃないんですね。 というのも、私は当時流行っていた「ナイトライダー」というテレビ番組に夢中になっていたからです。 その番組は、ハイテク装備の自動車が悪をやっつけるという話なんですが、なんとこの車、主人公の命令に従って自動操縦までこなしてしまうんですよ。 つまり、私の「自転車が迎えにきてくれたら」というのは、私の直観ではなくて、テレビ番組の受け売りによる直感だったわけです。
スピリチュアルの人は、「直観を心底信じていれば、それはいつか必ず実現する」と言います。 でも、校門の前でいくら自転車のことを念じたところで、自転車は絶対に自動操縦でやってきたりはしません。 その代わり、自転車の練習をする時に、自転車そのものに絶対の信頼を置いていれば、いつかきっと自転車に乗れるようになるでしょう。 もちろん、自動操縦の可能な自転車を目指して努力すれば、それも実現できるかもしれませんが、それは直観ではなくて決意です。
直観を得るためには、その元になる体験を何度も繰り返す必要があります。 そういう体験の繰り返しによって、脳内で得られた情報同士の結びつきが強くなったり弱くなったりしながら、少しずつ全体像が見えてくるわけです。 で、ある場所からある場所に太い情報の架け橋ができた瞬間に、必要な情報がうまく流れるようになります。 その瞬間が直観なわけですね。 つまり、直観というのは、未経験、あるいはわずかな経験だけで得られるものじゃないんです。
直観というのは、ひとつの方法論ですから、それが正しいものであれば、当然ながら論理の世界にも通用するはずです。 ところが、スピリチュアルの人達は、なぜか論理を拒みます。 恐らく、論理の組み立てが苦手だからこそ、スピリチュアルの直観という考え方に飛びついたのでしょう。 論理的な矛盾を指摘すると、訳の分からない専門用語を駆使しながら、この本を読めばわかると言います。 そう、小学6年生の私が、「ナイトライダーを観ればわかる」というのと同じですね。
もちろん、その逆もあり得ます。 科学を絶対視して、論理と批判を武器にして、曖昧な発言を一切認めないという、心の狭い人達も、やっぱりいます。 でも、そういう人達の自慢の論理は、難解なばかりで、何を言っているのか要領を得ませんし、実感も湧きません。 現実のことを論じているのであれば、当然、論理的にも感覚的にも納得のいくものになるはずです。 日常的な感覚の及ばない世界もあることは確かですが、それは日常生活では特に意識する必要のないことですよね。
それはともかく、スピリチュアルと出会ったことで、私は混同されがちな直感と直観、そして決意というものを明確にできたように思います。 これは、これまでそれほど意識してこなかったことなので、視野が広がったことになります。 また、普段の生活の中で、世界をより積極的に、より注意深く観察するようになりました。 さらに、スピリチュアルを反証しようとする中で、科学というものが、学校で習ったものよりもずっと先に進んでいるということを知りました。 これらのことに関して、スピリチュアルと出会えたことに、とても感謝しています。
これからは、生きることが少し楽しくなりそうです。
2006/09/18 21:31 写真詩
2006/09/17 19:41 随想録
何事も、依存してしまうと、身動きが取れなくなってしまいます。
人には、それぞれ立場もあれば、得意分野もあります。 あらゆる面で完璧にバランスの取れた人なんているわけがないので、皆それぞれ、いろんなところで、ちょっとずつ中心からずれています。 そして、お互いにずれたところを見つめ合いながら、自分の居場所を確かめ合っています。 時には、ずれによって摩擦が起こったり、ぶつかり合ったりすることもあるかもしれませんが、そういうことを繰り返しながら、少しずつ丸くなっていきます。
苦労して、バランスの取れた中心付近にたどり着いたと思っても、その中心は絶えず揺れ動いています。 せっかく中心にたどり着いても、そこにあぐらをかいていると、どんどん中心からずれていってしまいます。 どこを目指せば良いかわからずにオロオロと歩き回る人もいれば、中心を求めてさすらいの旅を続ける人もいるでしょう。 中には、中心でないどこかに安住の地を見つける人もいるかもしれません。
大切なことは、自分自身と、自分を取り巻く環境との間に、適切な共存関係が結ばれているかどうかです。 私は、私という個人でありながら、私という人間であり、私のいる環境の一部でもあります。 私がそのうちのどれかを拒んだところで、それは動かしようのない事実であり、受け入れていくしかありません。 でも、お互いの関係を良好にするための努力はできるはずです。
依存というのは、それらの関係を一方的に決めつけている状態のことです。 私は、私に働きかけることで、私自身を変えていくことができます。 私は、人間であることを意識することで、より人間らしくなることができます。 私は、環境との関わり合いを認識することで、環境に溶け込むことができます。 でも、私が私を、人間を、環境を、こういうものだと決めつけてしまったら、私はその決められた世界から抜け出せなくなってしまいます。
私は、批判的で、天の邪鬼な性格です。 もし、私が私をそういう人間だと決めつけてしまったら、批判的で天の邪鬼なだけの存在になってしまうでしょう。 でも、私は疑問があれば、その疑問をはっきりさせようと努力もしますし、何かに一目惚れすることだってあります。 猫のミーちゃんを見て、猫みたいな生活をしたいと思うこともありますが、私にはミーちゃんにはできないことができることを知っています。 ミーちゃんと同じ生活をすることもできますが、その生活には決して満足できないということも知っています。
感覚を研ぎすますことで、新しい発見をすることもできれば、論理的な思考によって、それが正しいかどうかを判断することもできます。 直感で素晴らしい発見をすることもあれば、安易な思いつきで深く傷つくこともあります。 熟慮を重ねることで答を導き出すこともあれば、知識を振り回すことで空回りすることもあります。 自分一人で感じ、考え、悩むこともあれば、誰かと同じ時間を過ごすこともあるし、場所を変えてヒントを探すこともあります。
全てを受け入れるというのは、こういうことなんじゃないのかなぁ。
2006/09/17 06:11 随想録
昨夜、私に魔が差しました。そして、大切な人の気持ちを傷つけてしまいました。
詳しいことは書けませんが、私は、相手にあることを強要しようとしました。 それは、私が望んでいたことではなかったにもかかわらず、ふとした思いつきで、相手の気持ちを深く考えないまま、それを実行してしまいました。 幸い、相手が不快であるという態度を示してくれたおかげで、私は自分の過ちに気がつくことができました。 疲れていたとか、気持ちが浮ついていたとか、割り込みが入って集中力が切れてしまったとか、いろんな原因がありましたが、これは間違いなく私の責任です。
私は、自分を恥じ、深く反省しました。 でも、おかげで、忘れかけていた大切なことを思い出すことができました。 それは、決して人を操作しようとしてはいけない、ということです。 たとえ、絶対の真理を発見したとしても、それを誰かに強要させるようなことがあってはいけないのです。 第一、本当にそれが真実であるのなら、特に強要しなくても、相手は自然に受け入れてくれるはずです。
死刑が確定したばかりの麻原彰晃ですが、彼らが何をしてきたか、覚えていますか? マインドコントロールとか、サブリミナル効果とか、いろんな言葉が流行りましたよね。 彼らは、信者に苦行を行わせることで、心の免疫力を下げさせ、そこに繰り返し教団の教義を吹き込むことで、信者を思い通りに操っていました。 これは、絶対にしてはならないことだというのは、皆さんも同意していただけると思います。
言葉には、非常に大きな力があります。 そのため、相手に大きな力を与えることができるわけですが、細心の注意を払わないと、誰かを傷つけてしまうこともあります。 それだけでなく、使い方によっては、相手を誘導したり、操作しようとすることもできてしまいます。 健全な世界では、共通のルールとして、もしくは暗黙の了解として、言葉による誘導や操作は禁止されています。 でも、中には、その掟を破る人達もいます。
その最も良い例が、宗教です。 神の名の下に、あれはするな、これもするな、あれはこうしろ、これはこうしろ、などと、事細かに指図してきます。 そして、信者達は、それをありがたがって、盲目的に従います。 模範を規定することによって、社会に秩序をもたらすことは、とても大切なことです。 宗教の戒律が、社会の秩序に貢献したことは、間違いないでしょう。 でも、それは適切な対話の中で行われるべきことであり、強制したり、操作したりということがあってはいけません。
先日、私は「神との対話」という本を読みました。 神とありますが、特定の宗教というわけではなくて、どの宗教にも属さない、いわゆるスピリチュアルに属する本です。 この本に書かれている内容自体は、とても納得のいくものであり、私自身の言葉で説明ができるだけの理解をしたつもりです。 ただ、この本の書き方、言葉の使い方がどうにも気に入らないんですよね。 そう、読み手を操作しようとする言葉の使い方をしているのです。
もっとも、この本に限らず、宗教関係の書物というのは、いわゆる禅問答による間接的な問いかけが多いようです。 言葉だけでは真実をそのままの形で伝えることはできない。だから相手に問いかけるのだ。というわけです。 芸術の世界でも、同じ理由で、言葉による解説を嫌いますよね。 「学び」と「気づき」は、彼らの大好きな言葉です。 有り難いお言葉を学んで、そこから得られる気づきに感謝しましょう、というわけです。
確かに、その主張には一理あります。 でも、「神との対話」では、言葉巧みに読者を誘導し、言葉に従わせようとします。 この本には、365の短文が載せられているわけですが、全ては比喩的な言い回しで、疑問系の中に、いくつかの断定的な文を忍び込ませています。 これはどう?それはどう?あれはどう?そう、それはこれだ。 こういうやり取りが、延々と続いていくわけです。 意図的なものかどうかはともかく、原理的にはサブリミナル効果によるマインドコントロールと同じです。
結局、演繹法による論理の構築を避けて、帰納法による知識の埋め込みをしているわけです。 普通の文章であれば、日常的な言葉を使うことで、ひとつひとつの言葉が、読み手の経験を呼び起こし、自らの体験の中から、その文に込められた意味を探ることができます。 しかし、その文章が神や宇宙、善や悪といった抽象的な言葉だけで構成されていると、具体的な体験を呼び起こすことなしに、その言葉それ自体がひとつの体験となって、読者に記憶されていきます。
するとどういうことが起きるでしょうか。 現実世界で何かを体験する度に、その体験を暗示している一文が呼び起こされ、その言葉を再び体験することになります。 全ての文は抽象的な言葉による比喩表現なので、何かを体験する度に、これらの言葉が存在を増していくことになります。 そのため、この手のやり口にはまり込んでしまった人達は皆、「有り難いお言葉」ということを言うわけですね。
つまり、本の内容としては、言葉ではなく直感に従えと言っておきながら、この本を読んだ読者は、この本に書かれた言葉を直感として想起してしまうという、構造的な矛盾を抱えているわけです。 オウム真理教が、「サティアン」とか「ポア」だとか、馴染みのない独自の言葉を積極的に使っていたのは、非日常の世界を演出することで、同様の無限ループを作り上げ、本来の意図を覆い隠そうとしていたからなんですね。
こうして考えてみると、私自身、こうした無限ループに陥ることがあります。 実際、昨夜の私は、独りよがりな論理の無限ループに入り込んでしまっていました。 科学の世界も、スピリチュアルの世界も、結局は世界の一部を切り取っているに過ぎないんですよね。 これらの世界に接することで開眼することは素晴らしいことだと思います。 でも、特定の世界に閉じこもってしまうと、たちもち無限ループに入り込んで、独善的になったり、誰かを操作しようとしたりしてしまいます。
無限ループに陥らないように、注意しましょうね。お互いに。
2006/09/16 20:54 随想録
私達は、現実の世界を生きています。
そして、私達は、いくつかの感覚器官をうまく使いながら、自分のいる世界を感じ取っていきます。 さらに、感じたことを頭で処理して、記憶したり、加工したりしながら、日々の生活を送っています。 こうした毎日の積み重ねを通して、外の世界に似た世界を自分の中に作り上げていきます。 すると、自分の経験の平均値によって、世界の理想像ができていきます。
たとえば、誰かに挨拶をして、相手がにこやかに挨拶を返してくれたとします。 そうすると、挨拶は気持ちの良いものだと感じて、次の人にも挨拶をしたくなります。 次の人も挨拶を返してくれたら、その次も、さらにその次も、やっぱり挨拶をすることになるでしょう。 そういう環境に育った人は、挨拶をするのは当たり前であり、挨拶をする世界を理想とするようになります。
もし、二回目の挨拶で、相手に無視されたら、勝敗は一勝一敗ですから、とりあえず、あと一回だけ試してみようと思います。 次の挨拶でも無視されたら、一勝二敗になって、挨拶には懐疑的になります。 それでも、一勝はしているわけですから、ダメ元で挨拶してみます。 すると、今度は挨拶をしてくれて、ほっと胸を撫で下ろしたりします。 そういう環境に育った人は、挨拶は相手を見てするものであり、その選択眼を身につけることが理想になります。
残念ながら、最初っから最後まで連敗続きの人がいたとしたら、その人はどう思うでしょうか。 そう、「挨拶なんてするもんじゃない、するだけ無駄だ」と考えるでしょう。 そして、「そんな役に立たない風習なんてやめてしまえ」と言って、挨拶のない世界を理想とするようになります。 あなたの今の状況と過去を振り返れば、きっとどれかに当てはまることでしょう。
ちょっと待った、それは違う! そう、この平均説は、大体合ってるけど、例外だってあります。 だって、挨拶の仕方って、人それぞれ、その時々で違いますよね。 運良く最高の挨拶に出会った人もいれば、逆に挨拶をしたことで最悪の事態に巻き込まれてしまった人だっているでしょう。 そういう「会心の一撃」によって、戦況が大きく変わることは、現実では良くあることです。
もし、あなたが、どんな時でも「会心の一撃」を出せる挨拶使いになれたとしたら、どういうことが起きるでしょう? あなたの周りの人は、あなたの挨拶攻撃をかわすことができずに、挨拶好きになるか、逆に挨拶嫌いになる人達が増えることになります。 これは、あなたの挨拶の攻撃力が増すに従って、あなたの挨拶が周りに与える影響も大きくなることを意味します。 つまり、あなたは自分の挨拶能力を正義に使うか、それとも悪に使うか、究極の選択を迫られることになるわけです。
言い換えると、あなたは自分の挨拶に責任を持たなければならない、ということです。 これは、挨拶に限ったことではありませんから、結局は「自分の行動に責任を持て」ということになります。 これって、ことわざにもならないくらいの、当たり前のことですよね。 でも、こうして考えを辿っていくと、その言葉の重みをどしりと感じますよね。 もし、同じことを「神は全てを見通し、汝は選択あるのみ」なんて言い方をしたら、ほとんどの人は敬遠してしまうでしょう。
また、いくら自分は優秀な挨拶使いだと思っていても、それを決めるのは自分ではなくて、周りの人です。 自分のできることは、誰に挨拶しても恥ずかしくないように、日々挨拶の腕を磨くことだけです。 挨拶の腕が良ければ、皆が挨拶を返してくれるし、腕が悪ければ、皆が避けていくことでしょう。 これは、自分だけの問題じゃなくて、自分と、自分を取り巻く人達との問題なのです。
これはスピリチュアルなんかじゃなくて、私自身が経験して、考えたことですからね。お間違えのないように。
2006/09/16 06:58 随想録
ちょうど6年前の9月のことです。
当時、頻繁にメール交換をしていた人に、「知恵熱」というタイトルで、こんなメールを出したことがありました。
最近は知恵熱の状態になっています。
Sさんに初めてメールを出した頃から、ようやくソフト開発の具体的な 見通しがつくようになりました。
それがきっかけとなったのか、自分が今までに気の向くままに蓄えてきた 小説、心理学、倫理・哲学、有機農業、認知科学、映画、芸術、中国思想 などの知識が、自分の頭の中で猛烈な勢いで再構成されているようです。
それらが自分の体験と結びつき、内部で留まっていたものが外部のものを 取り込むようになってきました。
寝ても醒めても頭が常に回転していて、脳内のテキストエディタに誰かが 黙々と文章を打ち込んだりしています。
旅での出会いに触発されたのかもしれません。
初めての体験に、当時の私は「これが悟りというものなのか」と、深い喜びを感じていました。
大学院を中退して1年が経ち、逃げ込んだ農業の真似事に限界を感じて、自分に残された唯一の道はソフト作りしかないんじゃないかと、日々思い悩んでいた頃です。 当時の私は、活字中毒というほどではありませんでしたが、図書館に通って、興味のある本を手当り次第に借りて読んでいました。 この時までは、私の頭の中では、あらゆるものが、それぞれ別の引き出しに入っていました。 でも、それが突然、引き出しの中身が放り出され、全てがひとつにまとまったのです。
今思うと、それこそ当たり前のことなんですが、当時の私には、ものすごい体験でした。 それぞれの分野の人達が、それぞれの場所から、中央に向かって穴を掘り進んでいます。 私は、それまで、誰かの掘った穴を覗き込んでばかりいましたが、どの分野も同じものを目指していることに気がついて、その全体図を思い描くことができるようになったわけです。 真上から全てを見下ろす視点を手に入れたわけですね。
もちろん、本によって得られた知識同士がくっついただけではありません。 それまでの20数年間の経験も、その全体図の中に組み込まれていきました。 そして、この全体図は普遍のものではなくて、常に変化していることにも気がつきました。 山の頂上から大きな岩が転がり落ちて、斜面をゴロゴロと転がっていき、いろんなものにぶつかっては分裂して、たくさんの石ころになりながら、さらにどんどん転がっていくわけです。
そう、私という人間は、その分裂した石ころのひとつなんですね。 私は、生まれながらにして、いや、生まれる前から、時間という斜面を転がり続けているわけです。 途中、速度が落ちたり、勢いが増したり、何かにぶつかって跳ね飛ばされたりするかもしれません。 自分がどの道を通るのか、それは転がってみないとわかりません。 でも、転がれば転がるほど、転がり落ちる先の見当がつけやすくなります。
今、南の斜面を転がっているとして、いくら北の斜面に行きたいと思ったところで、それは無理な話です。 しかし、辛抱強く、一定の方向に舵を取り続ければ、いつかは北の斜面にたどり着くかもしれません。 もちろん、真っ直ぐ南の斜面を転がり落ちることもできるでしょう。 でも、途中で窪みにはまり込んだり、障害物に引っかかってしまっては、どこにたどり着くこともできません。 自分にできることは、転がり続けるために、舵を取ることだけです。
うまく舵を取るためには、ただ重力に任せるだけじゃなくて、転がり落ちる速さを考慮に入れつつ、目の前の障害物をしっかり見極めなければなりません。 先人達が残した「障害物を避ける方法」が役に立つこともありますが、これから先、同じ障害物だけだという保証はありません。 常に、自分の力で、障害物を見極めて、それを避けていかなければならないのです。 自動操縦に身を任せることもできますが、もちろん身の保証はありません。
スピリチュアルというのは、どうやらこのことを言っているようですね。
2006/09/15 16:46 随想録
誰かと話をしていて、どうも話が噛み合ないな〜、なんて思ったことはありませんか?
せっかく自分がノリノリで話してるのに、妙に相手が引いていたり、ちょっとした一言で相手が急に怒り出したり。 そこまで極端じゃなくても、会話が空回りしているような気がしたりすることは、結構あるんじゃないでしょうか。 これは、会話だけじゃなくて、ブログのコメントでも同じですよね。 特に、自分の考えとは違う考え方に出会った時、その人のコミュニケーション能力が問われるように思います。
実は、このことは「アサーティブ能力」として、すでに研究されています。 アサーティブ能力には、正当な権利主張、自己信頼、自己開示、受容性、断る力、対決、という6つの要因があると言われています。 正当な権利主張とは、カメラを買ったら初期不良だった時に、泣き寝入りをせずに、ちゃんと販売店に行って商品を交換してもらう能力のことです。 旦那に暴力を振るわれた時に「やめてください」と言うのも同じことですね。
自己信頼とは、誰かと意見の相違があった時に、自分の意見を信じることです。 買ったばかりのカメラが壊れていたけど、「あなたが壊したんじゃないのか」と言われたらどうしよう? でも、説明書に書かれた通りの使い方しかしていないのであれば、自信を持って初期不良の交換を交渉するべきですよね。 暴力を振るわれた時だって、「私が気に障ることをしたのかもしれない」じゃなくて、「痛いからやめて」と言うべきです。
自己開示は、自分から積極的に働きかけることです。 販売店にまで行ったのはいいものの、カウンターの前でモジモジしているだけでは、初期不良の交換はしてもらえませんよね。 店員さんにちゃんと話しかけないことには、何も始まりません。 「あの〜、初期不良の交換をして欲しいんですけど〜」と言う勇気が必要なわけです。 相手の暴力に耐えているだけでは、問題は何も解決しませんよ。
受容性とは、相手の言うことを最後まで聞いて、言うことを正しく理解することです。 店員さんに「ぶつけたり水につけたりしていませんか?」と聞かれて、「お前は俺を疑うのか!」と逆上して店を飛び出しても、何にもなりませんよね。 落ち着いて考えれば、「無茶な使い方をした場合は交換できないという意味だな」とわかるはずですし、素直に「そういう使い方はしていません」と答えれば済むだけの話です。 「お前は俺を馬鹿にしただろう」「私はこんなにあなたを愛しているのに!」では、会話の意味が噛み合っていませんよね。
断る力は、相手の要求が自分の要求に合わなかった時に、相手の要求を断ることです。 「メーカー修理になりますがよろしいでしょうか?」「買ったばかりなのにどうして何週間も待たなければいけないんですか?それは嫌です」 断るからには、相手の言う内容を理解して、それに対応した形で、その理由を添えて答えるのがベストです。 「俺が悪かった!さあ、俺をぶってくれ!」「あなたの気持ちは十分わかったから、あなたをぶつ必要はないわ」
対決とは、相手が過ちを犯した時に、それに真っ向から立ち向かうことです。 初期不良の交換の交渉が成立して、店員が間違った商品を持ってきてしまった時は、「それ違いますよ」と指摘しますよね。 グレードの低い商品と間違えた時だけでなく、高級品と間違えた時にも、やっぱり対決しなければなりません。 「あんた、私という人がいながら、あんな女作って、どういうつもり!」「ひゃああ、ゴメンナサイ〜!」
実際には、こういうアサーティブ能力を発揮するまでもなく、ばっさりと切り捨てることもあるかと思います。 でも、それはアサーティブが通用しなかった時の最後の手段ですね。 あんまりバッサバッサと切りまくっていると、あなたの周りは草一本生えない荒野になってしまいますよ。 逆に、アサーティブばかり気にしていても、一向に楽しい会話はできないでしょう。 あれ、おかしいな、と思った時は、アサーティブの状況を確認してみてください。
アサーティブ能力は、転ばぬ先の杖ではなくて、縁の下の力持ちなんですね。
2006/09/14 19:41 PhotoMaster
難航中のPhotoMaster 2の開発ですが、少しずつ完成に近づいてきています。
前回、撮影日リストとイベントリストという2系統の入力を、どうやってひとつにまとめるかで悩んでいたんですが、やっと理論的な整合性を持たせることができました。 操作の流れ自体は、最初から漠然としたものを持っていたわけですが、それをプログラムするには、どこにデータを置いて、どこで処理を行うかとか、細かいところできっちりとつじつまを合わせないといけないので大変です。
データの流れをはっきりさせることができたので、それまで保留にしていた部分を一気に作り上げます。 今回、2枚の写真を横に並べることができるようになったわけですが、どの写真をどこに表示するかということに関しては保留のままだったので、きっちりと実装しました。 一覧リストでは、写真の絞り込みや向きの回転、ゴミ箱の移動ができるようになって、だいぶ写真管理ソフトとしての形ができてきました。
PhotoMaster 2では、写真の絞り込みで履歴を残すようにしました。 たとえば、ブログに載せる10枚の写真を選ぶ時、100枚から50枚を選び、その50枚からさらに20枚を選び、それをさらに10枚に絞り込む、という作業を行います。 従来のPhotoMasterでは、一度絞り込んだ後に絞り込みを解除すると、全ての写真を表示してしまいましたが、PhotoMaster 2では、10枚まで絞り込んだ後に、その前の20枚や50枚の状態に戻せるようになったのです。
また、写真の向きの変更や、撮影日時の修正、ゴミ箱に入れたり戻したりといった作業に対して、取り消しとやり直しができるようになりました。 どのソフトでも当たり前のように備わっている機能なんですが、実は従来のPhotoMasterには実装できていなかったんですよ。 今のところ、直前の作業のみの対応ですが、やっと世間並みになって胸を撫で下ろしているところです。
残りの作業は、イベントリスト、フィルター効果、書き出し、印刷、ウインドウレイアウトの調整で、環境設定と初期設定ファイルの読み書きが終われば、ひとまず完成です。 その後、動作テストと説明書作成という地獄の作業が残っているわけですが、ここにきてようやく完成が見えてきたという感じです。 今月中には、一通り実装したいと思っていますが、私の見積もりは全く当てにならないからなぁ。 遅れに遅れてしまって、本当に申し訳ないです。
もうあと一息、この勢いに乗って、一気に頑張るぞ〜!
2006/09/14 04:10 随想録
ちょっと困ったことになってしまいました。
昨日書いた記事で、スピリチュアルに対してわずかながらに理解できたような気がしたので、ちょうど良い機会だというわけで、本腰を入れてスピリチュアルについて調べてみることにしました。 まずは、インターネットで「スピリチュアル」を検索してみると、でるわでるわ、ものすごい数がヒットしました。 ところが、リンク先をクリックしていくうちに、私の気持ちはどんどん落ち込んでいきました。
検索結果の件数から、スピリチュアルというものが、現代社会において一大文化を築いていることは間違いないようです。 私はテレビを見ないので知らなかったのですが、江原啓之という人が、テレビ番組等でスピリチュアルを広めているようですね。 それはともかく、一口にスピリチュアルと言っても、その守備範囲は広く、占いから霊媒、霊視、心霊治療、前世療法、ヒーリング、カウンセリング、癒し、次元移動、遠隔透視、波動エネルギー、パワーストーン、ダイエット、美肌、バストアップ、旅行、引っ越し、などなど、非常に多岐に渡ります。
私はてっきり、スピリチュアルというのは、地球全体をひとつの生命体と見なすガイア理論を元にした、もっと科学的なものだと思っていたんですが、どうやら非科学的なものの寄せ集めになってしまっているようですね。 確かに、科学的に証明されていなかったり、理論立てて説明できないことでも、そうだったらいいなぁと思うことはあります。 心霊治療だろうと、波動エネルギーを使おうと、それで幸せになれるのなら、それでもいいのかな、とも思います。
信仰の自由が認められているように、誰が何を信じようと、それはその人の自由です。 でも、残念ながら、私にはスピリチュアルを信じることはできないようです。 なぜなら、納得できるだけの理論的な根拠がなく、私の経験を満足させるだけの実感も得られないからです。 もちろん、まだネットの検索結果を流し読みしただけなので、今の段階でそう断言することはできません。 ただ、ちょっと期待していただけに、がっかりしたというのが正直なところです。
もっとも、検索結果を注意深く見てみると、それらがスピリチュアル人気にあやかろうとしている、似非スピリチュアルが多いようです。 スピリチュアルを、唯物論的な肉体に対する精神という意味で捉えるのであれば、私という人間の精神が存在している以上、これは動かしようのない事実ですし、自分自身の精神についてより深く知りたいという意思もあります。 でも、私の知っているこの精神と、いわゆるスピリチュアルとが、とても同じものだとは思えないのです。
とにかく、今はスピリチュアルについて知らなすぎるので、とりあえず図書館で本を借りてみようと思います。 知っての通り、私は天の邪鬼な性格なので、スピリチュアルを鵜呑みにすることはまずないでしょう。 でも、関わりを持った以上、曖昧な状態のままで放置するのは嫌なので、きっちり勉強してみます。 もしかしたら、これが写真の幅を広げるきっかけになるかもしれませんからね。
それにしても、このスピリチュアル人気は、一体どこからくるんでしょうね。