たまに、「何この人、偉そうに…」と思う人がいます。
別に本人は偉ぶってるつもりはなくても、端で聞いていると、やっぱり偉そうに思えます。
そういう人の話は、聞いていても面白くないし、何だか説教されているような気分になってしまいます。
逆に、どんなに辛辣なことを言っていても、ついつい話に引き込まれてしまって、話してくれてどうもありがとうと思えることもあります。
この違いは、一体どこからくるのでしょうか。
以前、「眼の仕組みと写真の見方」に書いたように、目に入ったものをそのものとして認識するためには、網膜から得られた視覚情報だけでなく、それまでの経験から得られた概念も重要な役割を果たしています。
人の会話も同じで、その意味を認識するためには、視覚や聴覚によって得られた言語情報だけでなく、それまでの文脈や経験などが密接に関わってきます。
人はそれぞれ異なる経験をしてきているので、当然ながら形成される概念も異なってきます。
しかし、人は得られたデータを概念によって判断します。
つまり、同じデータを与えられたとしても、それをどう判断するかは、その人の概念によって変わってくるわけです。
「人それぞれ」というのは、「人それぞれの概念」というわけですね。
会話をするということは、入力されたデータを、概念によって処理して、その結果を出力するということです。
こうして、お互いにデータを交換し合うことによって、共通の概念を形成していくことが、会話の目的になります。
そのためには、より相手が処理しやすいように、データを出力することが重要になってきます。
つまり、何を元に、どう考えて、この結論に至ったのかを、順序立てて説明する必要があるわけです。
たとえば、あなたの撮ったトマトの写真があるとします。
Aさんは、それを見て「綺麗!」と言いました。
Bさんは、「色が鮮やかで綺麗ね」と言いました。
Cさんは、「このトマト、新鮮でとても美味しそう」と言いました。
Aさんがそう言ってくれるのは嬉しいんですが、どこが綺麗だと感じたのかがはっきりしません。
Bさんの言い方だと、「色が鮮やかだったら何でもいいのか」ということになってしまいます。
Cさんの場合は、「ああ、この写真を気に入ってくれたんだな」ということがよくわかります。
AさんやBさんよりも、Cさんのような言い方をした方が好ましいことは確かですが、多少舌足らずでも、さほど悪い印象は受けません。
でも、もし「トマトはこうあるべきだ」とか「トマトらしさが良く出ているね」と言われたとしたらどうでしょう。
前者は自分のトマトに関する概念を否定されたような気分になりますし、後者は褒め言葉のようですが全く要領を得ません。
そして、どちらもとても偉そうに思えます。
偉そうな人というのは、自分の概念をそのままの形で相手に伝えてしまっているんですね。
場合によっては、意図的に自分の概念を相手に押し付けようとしていることもあるでしょう。
「最後は声のデカイ奴が勝つんだよ。ワハハ」などと言っている人は、会話の目的というものを完全に取り違えているわけです。
それで一時的に相手を言い負かすことはできても、いずれ調整能力に優れた集団に追い抜かれることになるでしょう。
自分の概念を作り上げていくことは、それだけ心を豊かにすることにつながるわけですが、独りよがりで孤立した概念は、誰にも受け入れられることなく朽ち果てていくことでしょう。
自分の経験を通して、人との関わりの中で、共通の概念を形成していくこと、その中での自分の役割を把握することが、本当の豊かさになっていくのです。
最近、こういうことをよく考えます。