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スナップ・スタイルと素人写真

スナップ・スタイルと普通の素人写真との違いは、一体どこにあるのでしょうか。

液晶画面を見ながらカメラ任せで撮影すれば、すべてスナップ・スタイルになるというわけではありません。 なぜなら、スナップ・スタイルは、ただ撮るだけでなく、実際に「掴み取る」というジェスチャーを行うからです。 はっとする光景を見つけたら、その光景のど真ん中に向かって真っ直ぐに腕を伸ばして、満身の力でむしり取るように、その光景を掴み取るのです。

実際、BP-400にバッテリーを2個入れたA1は重く、その重量は1kgにもなります。 それを片手で掴み取るように撮影するとなると、いくらホールディングストラップがついていても、かなりの力仕事です。 現に、私の右腕は軽い筋肉痛になっています。 その重みが撮影に与えている影響は、決して少なくありません。

もっとも、スリムなコンパクト・デジカメや、携帯電話のカメラを使う場合は、その軽さを活かした撮影をすれば良いだけの話です。 ただし、いくら軽快に撮れるからといっても、その光景のどこに感動しているのか、その原因を突き止めるための観察を怠ってはいけません。 ただ単に、漠然とカメラを向けるだけではいけないのです。

この場合の観察というのは、光景そのものに対してではなく、その光景を見ている自分自身に対してです。 目の前には、180度の広々とした光景が広がっています。 そして、自分はそのなかのどこかに、何らかの感動をしています。 視線をアンテナのように走査しながら、もっとも感度の高い方向に向かって、真っ直ぐに手を突き出すのです。

もしかしたら、写真には余計なものが写っているかもしれません。 場合によっては、露出がずれているかもしれません。 それでも、写真の中に、わずかながらでも感動の対象が写っていれば、きっとその感動が蘇ることでしょう。 そして、それに関連する様々なことが、連鎖的につながっていくのです。

スナップ・スタイルと素人写真との一番の違いは、この「観る力」にあるのです。

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スナップ・スタイルの行き着くところ

前回の写真を見て、あれっと思った人はいませんか?

今までスナップ・スタイルについて散々語ってきたはずなのに、撮れた写真は従来のスナイパー・スタイルのものと全然変わらないんじゃないの? そう、最初のうちは、スナップ・スタイルならではの写真を撮ろうと意気込んでいたわけですが、スナップ・スタイルに慣れてくるにつれて、いつも通りの写真を撮るようになってきたんですね。

実は、もっとスナップらしい写真や、いかにもなブレ・ボケの写真もあるんですが、これはと思う写真を集めてみると、やっぱり「自分の好きな写真」ばかりになってしまうのです。 結局のところ、いくら撮影のスタイルを変えたところで、自分の撮りたい写真が変わるわけではないんですね。

とはいえ、撮影スタイルによって、得手不得手があるのも事実です。 スナップ・スタイルは、印象や雰囲気を撮るのに最適です。 初めての場所や、家族や友人、恋人などと一緒に歩いている時など、意識が分散している時にはとても重宝するでしょう。 無理にスナイパー・スタイルで撮ると、うまく狙いが定まらなかったり、気まずい思いをすることになってしまいます。

一方、スナイパー・スタイルは、そのものの特徴や魅力を最大限に引き出すことができます。 精神を落ち着け、神経を尖らせ、澄み渡るような気持ちと、すべてを暴く観察力と、燃え上がるような情熱で、被写体と正面から向き合い、自己を同一化します。 この分野では、スナップ・スタイルは決してスナイパー・スタイルにはかなわないでしょう。

こうしたことは、始めから予測のつくことではあります。 しかし、予測だけでわかったつもりになることと、それを自分の手で確かめて、その結果を受け入れることとでは、まるで重みが違います。 私は、この一週間で、スナップ・スタイルで5回の撮影を行い、その撮影枚数は953枚にもなりました。 この一週間は、私にとって貴重な一週間でした。

皆さんも、疑問に思ったことは、どんどん試してみてくださいね。

パソコンで見る自分史(小学校編)

私が初めてパソコンに出会ったのは、小学校低学年の頃です。

当時、私は名古屋に住んでいましたが、京都の伯母の家に遊びにいった時、そこにNEC PC-6001があったのです。 それは従兄弟のもので、私は夜遅くまで、兄とスペース・インベーダーで遊んだものです。 その後、母が亡くなり、父親の転勤もあって、その親戚の家にしばらくお世話になることになりました。 幼かった私は、「これからは、毎日スペース・インベーダーができる」と、無邪気に喜んだのでした。

PC-6001は、電源を入れると、ROMに内蔵されたBASICが立ち上がるようになっていました。 スペース・インベーダーで遊ぶためには、ケーブルでつないだテープレコーダーにスペース・インベーダーの入ったテープを入れて、「びー、ががががが~」という「ぴー」の音を頼りに頭出しをしてから、再生ボタンと同時に「LOAD "invader"」と入力して、数分後に読み込みが終わったら、テープレコーダーを止めて「RUN」を入力しなければなりませんでした。

そうしているうちに、従兄弟が持っていたゲームは、すぐに遊び尽くしてしまいました。 でも、「マイコンBASICマガジン」という雑誌には、読者の投稿するゲームのプログラムリストが掲載されていたので、それを自分で入力することで、新しいゲームで遊ぶことができたのです。 ただ、プログラムの入力は非常に面倒で、兄と交代しながら、何時間もかけて入力していかなければなりませんでした。

その後、従兄弟が富士通のFM-77を購入したので、兄とお年玉を出し合ってPC-6001を買い取りました。 PC-6001には、「みんなで使おうBASIC」という、N60-BASICのプログラミングについて非常にわかりやすく書かれた説明書がついていました。 従兄弟に教えてもらいながら、画面に文字を表示したり、簡単な計算をさせたり、線や四角などの図形を描いたり、といったことを、少しずつ覚えていきました。

小学校中学年になると、画面に表示した「大」という文字をカーソルキーで動かすというプログラムなら、何も見ないでも入力できるようになっていました。 また、その頃には、市販のゲームも売られるようになっていて、「EGGY」「TINY XEVIOUS」などのゲームを買ってもらって、よく遊んでいました。

しかし、父が今の母と再婚してからは、家庭内でごたごたが続きました。 兄は反抗し、私は体調を崩して、毎日のように家族会議が開かれました。 そんな中、小学校高学年になった頃、私の体調不良はパソコンのやり過ぎだということになり、とうとうパソコン禁止令が出されたのです。

でも、そんなことでパソコンを諦める私ではありません。 こっそり押し入れからパソコンを持ち出し、テレビ画面のない状態で、ゲームミュージックのプログラムを入力して楽しんでいました。 親が留守の時には、テレビにつないでゲームを楽しんだのはいうまでもありません。

私の小学校時代は、まさにパソコンと共にあったといえるでしょう。

パソコンで見る自分史(中学校編)

中学校に入ると、クラブ活動で忙しくなりました。

兄と同じ陸上部に入部して、さらに顧問の先生が運営していた重量挙げのサークルにも入りました。 学校の授業が終わると、陸上部で砲丸投げの練習をして、それが終わると重量挙げの練習をして、家に帰るのは夜の9時になっていました。 練習に追われているうちに、小学生の頃の体調不良は、いつの間にか全快していました。

ただし、砲丸投げや重量挙げをしたかったわけではなくて、陸上部で成績の良かった兄の弟だという理由で、顧問の先生から誘われるがままに始めたのでした。 元々パソコン少年だった私は、あまり熱中することができず、いつも怯えるように練習していました。 「技術はあるのに、どうも成績が伸びない」と、顧問の先生も頭を悩ませていたようです。

そうしているうちに、次第に学校の成績が落ち始め、これは重量挙げのせいだということになり、自分一人だけ先に帰って勉強するように親に言われ、最後は受験のためという理由でやめさせられてしまいました。 ちゃんと勉強をしなかった私が悪いんですが、重量挙げをやめるのはかなり辛かったですね。 今でも、重量挙げの練習をしながら、先輩達から冷たい視線を浴びるという夢を見ることがあります。

こうして、重量挙げのサークルをやめたわけですが、その代わりに、パソコン禁止令が解かれることになりました。 もはや時代遅れのPC-6001でしたが、ベーマガ片手にせっせとゲーム・プログラムを入力していました。 しかし、この頃には、入力したプログラムを改造して、自機の数を増やしたり、ボーナスの点数を増やしたりといったことをするようになっていました。

そうしているうちに、自分でオリジナルのゲームを作りたい、と強く思うようになりました。 そして、手始めに「平安京エイリアン」を自分で一から作ってみることにしました。 でも、それがなかなか思うように作れないんです。 BASICの命令は、すでに一通り覚えているわけですが、それをどう使っていいのかがわからないんですね。

結局、ゲーム作りは断念することになったのですが、代わりに、キーボード練習用のプログラム作りに熱中することになります。 きっかけは、友人が学校に持ってきたPC-9801の説明書でした。 そこには、ホームポジションを基準にして指を上下に動かすという、ブラインドタッチの基本が書かれていました。 ずっと憧れだったブラインドタッチが、これで自分でもできるようになるんだ!

どうも私は、ゲームよりも実用プログラムの方が向いていたようで、あっという間に最初のバージョンが完成しました。 アルファベットをただ順番に入力して速さを競うという、ただそれだけのものでしたが、兄と競い合いながら練習しました。 アルファベットを4秒で入力できるようになる頃には、キー配列の表示や、ランダム入力、間違えた文字の復習などができるようになっていました。

オリジナルのプログラムを作れたこと、それが役に立ったことは、とても貴重な体験でした。

パソコンで見る自分史(高校編)

高校の受験が終わると、合格祝いとして、SHARP X1turboZを親に買ってもらいました。

世の中はすでに16bitが主力で、SHARPからもX68000が発売されていました。 しかし、時代遅れの中古品でも、初めての自分専用のパソコンです。 PC-6001と比べれば、何世代分も新しくて、自分にとっては十分に高性能パソコンだったのです。 実際、その性能は素晴らしいものでした。 豊富な機能に扱いやすいスクリーンエディタ、高速な5インチのフロッピーディスクに打ちやすいキーボード。 その感動は、今でも鮮明に覚えています。

高校では、担任の先生が顧問をしていた生物部に入りました。 運動部はもうこりごりということで安易に決めたわけですが、生物部員らしいことといえば、飼育していたモルモット、ハムスター、ニワトリなどの世話くらいで、同じクラスでもある友達と遊んでばかりいました。 実験室のテーブルと軟球を使った卓球もどきのスポーツを考案して、大騒ぎしては理科館の事務のおばちゃんに叱られていました。

ごたごたしていた家の中も、この頃にはすっかり落ち着いていました。 おかげで、私はパソコンに思う存分のめり込むことができました。 X1turboZで最初にしたことは、PC-6001用に作ったキーボード練習プログラムを移植することでした。 その高い描写性能を活かそうと画面表示に凝りに凝ったために、最初のメニューを表示するまでに何分も待たなければなりませんでしたが、おかげですんなりとX1turboZのBASICに慣れることができました。

X1turboZは、標準で高速に日本語を処理することができました。 しかし、ワープロソフトは付属していなかったために、せっかくの日本語処理能力を活かすことができませんでした。 そこで、簡単なワープロソフトを作ることにしました。 基本的な編集機能はBASICに内蔵されていたものを流用して、センタリングや右寄せ、文字の拡大や装飾などの機能を追加していきました。

自作ワープロの用途は、主に日記用でしたが、定期的に行われる漢字テストの対策用にも使いました。 国語の教科書から、出題範囲の漢字を抜き出して、それを並べていき、それらの漢字を使った例題を作ったら出来上がりです。 最初は、それを印刷して仲の良い友達に配っていたのですが、それが担任の先生に見つかって、クラス全員に配られることになりました。 そうなると、いい加減なものは作れない、というわけで、専用の漢字テスト対策プログラムを作ったりもしました。

学園祭でプラネタリウムを作ることになった時は、星の位置を決める担当になりました。 天文少年でもあった私は、星図から4等星までの明るさの星の座標と明るさをパソコンに入力して、その日の星の位置を正確に計算させることにしました。 何とかすべての星のデータを入力して、それを画面上に表示するところまではできたのですが、それを各パネルごとに切り分けて印刷するところまでは、時間が足りませんでした。 結局、締め切りには間に合わず、私は合わせる顔がなくて、学校をずる休みしてしまいました。 後で皆から大ひんしゅくを買ったのは言うまでもありません。

クラスには、私よりもパソコンに詳しい友人がいました。 彼は、能楽の家元の跡取り息子でありながら、パソコンに熱中するあまり、後にその座を弟に譲ってしまったという人物で、学校にはいつもポケコンを持ってきて、自作のゲームで遊んでいました。 ある時、その彼が一冊の本を貸してくれました。 BASICのプログラムリストを、C言語のように構造化された読みやすいものにしましょう、という内容の本で、私はとても大きな影響を受けました。

当時は、ちょっとしたC言語ブームになっていて、本屋にはたくさんのC言語関連の書籍が並んでいました。 ついに私は、意を決して、X1用のOSであるCP/M(14,800円)と、C言語(13,800円)を購入しました。 小遣い5,000円の高校生にはとても高い買い物でしたが、これがほとんど使い物にならない代物でした。 このC言語は、8bit用に機能縮小されたもので、一般的な書籍はほとんど役に立たなかったのです。

そこで目を付けたのがマシン語でした。 BASICは、プログラムをマシン語に翻訳しながら実行するために、処理速度が遅く、またパソコンのすべての機能を使うことができませんでした。 それが、マシン語を使えば、高速にすべての機能を使うことができるのです。 でも、マシン語は上級者だけに許された特別なもので、絶対に自分には無理だと思い込んでいました。

あるとき、本屋で「Z80 マシン語秘伝の書」という本を見つけて、親に買ってもらいました。 そこには、マシン語で使用するニーモニックが、わかりやすく解説されていました。 なんだ、自分にもわかるじゃないか。そう気づいた時の喜びはかなりのものでした。 でも、Z80のニーモニックがわかっただけでは、X1turboZでのマシン語プログラムは組めなかったのです。

マシン語は、パソコンのハードウェアを直接操作するために、その機種のハードウェアの知識が必要不可欠でした。 そこで、「X1+turbo マシン語読本」「X1-Techknow」「試験に出るX1」と本を買いそろえていき、やっと簡単なマシン語プログラムが組めるようになりました。 アセンブラを使わずに、ハンドアセンブルでニーモニックをマシン語コードに変換していたので、あまり大きなプログラムは組めませんでしたが、夢に見ることさえも許されないようなマシン語を扱えるようになって、とても興奮したものです。

高校時代が、私のパソコン人生でもっとも充実していたかもしれません。

パソコンで見る自分史(大学編)

大学に進学すると、学生寮に入ることになりました。

学生寮といっても、大学が管理運営する管理寮ではなくて、学生が自ら管理運営していく自治寮でした。 部屋も相部屋で、4人部屋を2~3人で使っていました。 寮生は、何らかの委員会に所属して、週に一度の委員会活動がありました。 月に一度は棟会という会議が開かれ、半年ごとの委員会活動の節目には、寮生全員が集まる寮生大会が行われました。 飲み会も多く、行事も多かったので、自然と寮生活が生活の中心になっていきました。

当然、X1turboZも寮に持ち込んだのですが、あまりいじっている時間はありませんでした。 しかし、ある日、ふとダイエーに立ち寄ると、そこにはX68000 PRO(定価298,000円)が、展示処分特価の6万円で叩き売りされているではありませんか。 さらに、いくつかのソフトもタダ同然の値段で投げ売りされています。 その圧倒的な人気にかげりが見え始めていたとはいえ、あの夢のパソコンが、手に届く値段で売られているとは…。

結局、その展示品のX68000 PROを買ってしまったわけですが、これまでのパソコンとはずいぶん勝手が違っていました。 PC-6001も、X1turboZも、電源を入れると最初にBASICが立ち上がったわけですが、このX6800 PROは、Human68kというOSが立ち上がるのです。 このHuman68k上でX-BASICというBASICを利用することもできましたが、かなりC言語に近いもので、実際C言語への変換が可能ということが売りになっていました。

寮には、高校時代にマイコン研究会に入っていた強者がいて、その伝手でいろんなものを提供してくれました。 空き部屋だった4号室を改造して、パソコン部屋兼マッチョクラブのトレーニングルームにしたりしました。 獣医の先輩に頼まれて、寄生虫に関する実験データを集計するプログラムを作ったこともありました。 その報酬は、焼き肉食べ放題というものでしたが。

X68000には、wp.xというワープロが標準装備されていました。 その後、投げ売りされていたMultiWordというワープロソフトも手に入れて、レポート作成や委員会活動で大活躍しました。 この頃は、NiftySurveなどのパソコン通信が全盛の頃で、たくさんのフリーソフトが作られていました。 パソコン通信はしていませんでしたが、本屋でフリーソフト集を買ってきて、いろんなソフトを試したものです。

このHuman68kはMS-DOS互換のファイルフォーマットを採用していたので、X68000 PROで作成した書類は、テキスト形式に変換して、今もMacの中に残してあります。 日記や手紙、レポートや議案書、中には当時の恋人への想いを綴った秘密の文章まであったりして、懐かしいというよりは恥ずかしいものが多かったりします。

X68000には、SX-WINDOWというウインドウシステムがありました。 しかし、SX-WINDOWのVersion 2を使うためには、メモリを増設する必要がありました。 当時、4MBのメモリの値段は4万円でした。 世間ではWindows 3.1が登場して、パソコンの性能は上がり、値段はずいぶん下がっていました。 X68000 PROのCPUは10MHzでしたが、すでに66MHzというとんでもない処理能力のパソコンが、驚きの10万円台で買えたのです。

ただ、いくら安くなったとはいえ、十何万という大金を一括で払えるような財力は、私にはありませんでした。 でも、分割払いという知恵をつけた私は、初のMacintoshとなるLC 630を、12回払いで購入してしまったのです。 そう、この瞬間から、Mac貧乏への道を転がり落ちることになるのです。

この頃から、パソコンを玩具として楽しむことから、道具として利用するようになっていきました。

懐かしの味、ナポリタン!

スパゲティといえば、やっぱりナポリタンですよね。

今では、パスタなんていう洒落た名前がすっかり定着してしまって、スパゲティはスパゲッティ、ゆで方はアルデンテ、なんとかナーラ、なんとかチーノ、などといったイタリアンな言葉が幅を利かせています。 うっかりパスタ専門店なんかに入ろうものなら、何を注文して良いのかさっぱりわからずに、サヨナーラ、ハズカチーノ、ということになってしまいます。

そんな旧世代のオジサンでも、安心して頼むことのできるパスタ、誰もが知ってる喫茶店の味、それがナポリタン・スパゲティなんですね。 私が知ってるパスタというと、ナポリタンの他には、カルボナーラとペペロンチーノくらい。 でも、お店でナポリタンを頼むのは何だが田舎者臭い感じがして、どうも恥ずかしいんですよね。

となると、家で作るしかないわけですが、ナポリタンの作り方が良くわからないんですよ。 レトルトのソースならキューピーが好きなんですが、原材料を見るといろいろ入っていて、いまいち良くわかりません。 そこで、ネットで調べてみると、実に簡単に作れることがわかりました。

要するに、スパゲティのトマトケチャップ炒めなんですね。 かつての家庭料理の定番、チキンライスと同じ作り方なんです。 そうか、懐かしの味はケチャップにあったか。 何だか妙に感動してしまって、思わずジーンときてしまいました。 よし、懐かしのナポリタンを、自分の手で作ってやろう!

まずは、たっぷりのお湯に塩を入れて、スパゲティをゆでます。 ナポリタンは、アルデンテなどといわずに、芯がなくなるまでしっかりゆでた方がそれっぽくなります。 ゆでている間に、タマネギ半分、ウインナー3本、しめじ半株、ピーマン2個を適当に切っておきます。 ゆであがったら、フライパンにたっぷりのオリーブオイルと刻んだニンニクを入れて、タマネギ、ウインナー、しめじ、ピーマンの順に炒めていきます。 火が通ったら、トマトケチャップをブチュ~っとたっぷり入れて、さらにゆでたスパゲティを投入します。 ついでに目玉焼きも作っておくと、さらにグッドです。

お皿に盛りつけたら、粉チーズとタバスコをたっぷりとかけていただきます。 うんうん、これだよ、これ。これこそが、本物のスパゲティの味というものだよ。 最近のお洒落パスタしか食べたことのない人も、コレナーラ、オイチイーノ!と大喜びすることでしょう。

あなたも、懐かしのナポリタン・スパゲティをぜひ作ってみてくださいね。

たまには詩でも作ってみませんか

詩って作ったことありますか?

ほとんどの人は、詩を作るどころか、詩を読むことも少ないのではないでしょうか。 歌謡曲には歌詞がついていますが、活字となった詩には、また特別な味わいがあります。 実は私は詩が大好きで、谷川俊太郎をはじめとして、宮沢賢治や新美南吉、武者小路実篤の詩を良く読んだものです。 中でも、大学生の時に出会った次の詩が、私のお気に入りです。

残尿感

夜寝る時に ベッドに入る
布団の中で ふと気付く
残尿感あり

冬の寒い夜 布団の温もり
便所に行こうか ちと迷う
残尿感あり

意を決して 便所へ向かう
体を震わせ ほっと一息
開放感あり

部屋へ帰って 布団にもぐる
明日は早いぞ 急いで寝よう
満足感あり

え、何これ、誰の詩?谷川俊太郎?まさかね~。 実はこれ、私のオリジナルの詩なんです。 1998年2月、冷え込みの厳しい冬の夜の、ほんの些細な出来事を、ささやかな詩にしてみたんですが、どうでしょう? 今でも密かに気に入っているんですが、駄目ですかね?

詩というと、どうもくすぐったい気分になってしまうのは、どうしてなんでしょうね。 谷川俊太郎の詩を読んでも、全然そんな気分にはならないのに、いざ自分で詩を書こうとすると、もうどうにも恥ずかしいんですよね。 以前、やなせさん(当時は夢水さん)が、「魔王の憂鬱」という詩を書いていましたが、これだけ開けっぴろげに詩が書けたら、どれだけ楽しいだろうと思うのです。

詩というのは、どうしても本心が見えてしまうんですね。 自分でも気づかないような本心が、言葉の端から、ちょろりちょろりと顔を出すんです。 その様子が、もぞもぞとして、どうにもくすぐったいんです。 でも、中には、綺麗な言葉を流れるように並べることができる人もいます。 それはそれで才能だとは思いますが、美辞麗句に本心が覆い隠されているような物足りなさを感じてしまうのです。

詩というのは、ただ感じたことを書くだけではなくて、その中に普遍的な事実と、十分な説得力が必要だと思うのです。 上の詩では、備えあれば憂いなし、ということを、誰もが一度は体験するであろう身近な出来事によって表現しています。 この詩を読んだ人は、寝る前にちゃんとトイレに行こうと思うだけでなく、何事も早めに行動しようと心に誓う、かもしれません。

もしかしたら、「こんな下品なものが詩といえるか、くだらない」という人がいるかもしれません。 でも、下品だからくだらないというのは、駄洒落にもなりませんよ。 もちろん、この詩が素晴らしい詩だとは思っていませんが、くだらない詩だとも思っていません。 上っ面だけの詩と比べれば、遥かに詩になっていると思っています。

本心を出すのが恥ずかしいのは、その本心を否定されたらどうしようという防衛本能が働くからです。 でも、それが苦痛にならないのは、本心を認められたいという願望もあるからです。 家庭や学校、職場などでは、本心は何かと出しにくいものです。 むしろ、本心を出すよりも、いかに本心を隠すかの方が重要だったりします。 しかし、そんな生活ばかりしていては、いつか自分でも本心がわからなくなってしまいます。

詩というのは、そんな本心を確かめる作業でもあるんですね。 当時の私も、まるで残尿感のようにまとわりつく不快感を、知らず知らずのうちに感じ取っていたのでしょう。 実際、この詩を書いた半年後には、大学院を休学することになりました。 こうした詩の効能にもっと早く気づいていればと、今になって悔しく思うのです。

というわけで、これを読んだ皆さんは、ぜひオリジナルの詩を書いてみてくださいね。

信仰の自由とカルトの自由

あなたは、何か信仰しているものはありますか?

現在の日本では、信仰の自由が保障されています。 どの宗教であろうと、どの宗派であろうと、自分の好きなものを選んで信じることができますし、信仰を持たないことも自由です。 ただし、信仰というものは、自分一人が信じていれば満足するというものではありません。 同じ信仰を持つ仲間を増やすために、あちこちで様々な勧誘が行われます。

そうした信仰の勧誘というのは、企業の宣伝活動と同じで、正当な権利です。 私のアパートにも、たまにキリスト教系の勧誘が来ますが、追い払うようなことはせずに、相手の話を聞いた上で丁寧にお断りしています。 私の高校が仏教系の学校だっただけに、どうも冷たくあしらうことができないんですよね。 ブッダン、サラナン、ガッチャーミー。

それはともかく、信仰の自由というのは、宗旨替えの自由でもあるんですよね。 誰かが仏教への信仰に目覚めるのが自由であるように、仏教徒がキリスト教徒になっても、イスラム教徒になるのも、やっぱり自由なんですね。 仲間が去っていくのは辛いことだけども、それを無理に引き止めることはできないのです。

しかし、中には教義を持って脱会することを暗に阻止しようとする集団があります。 盲目的な信仰を強要する、いわゆるカルト集団と呼ばれている組織です。 我々の神の教えに背けば、孫の代まで祟るだろう、と脅したり、神様のいう通りにしていれば、こんな素晴らしいことがあるんですよ、と煽てたり、その方法は様々です。

その目的は、自らの判断力を奪うこと、これに尽きます。 修行という名の下に、相手を極限状態に追いつめ、判断力が低下した時に、彼らに都合の良い教義を教え込む、マインドコントロールを行うわけですね。 すると、本人は自分の意志で行動しているつもりでも、実は彼らの言いなりになっているという状況が出来上がるわけです。

実は、あるカルト集団の勧誘を受けて、その本部のある施設まで見学に行ったことがあるのです。 そこでは、自給自足が行われていて、独自の食品工場や学校などの施設もありました。 そして、その学校の生徒が書いた文章を読んで、私は愕然としました。 そこに、子供達の個性はまったくありませんでした。 すべては、褒められるためだけに考えられた、本心を徹底的に隠された、美辞麗句の固まりだったのです。

もちろん、その組織がカルト集団であることは、事前の調べでわかっていました。 最初から入会するつもりもありませんでしたし、見学のみでセミナーに参加することはしませんでした。 ただ、その組織の持つ技術力というものを、自分の目で確かめてみたかったのです。 そして、私が期待していた方面とはまったく別の分野で、その技術力を目の当たりにしてしまったわけです。

その後、カルトやマインドコントロールについて、ずいぶん調べました。 さらに、MLM、いわゆるマルチまがい商法の勧誘を受けたりして、この問題がカルトだけにとどまらないことを知りました。 そして、世の中が、いかに自分達に従わせようという意図にあふれているか、ということに気づいたのです。

様々な企業広告、テレビドラマ、映画、小説、学校教育、そして家族間ですら、そうした意図の糸で張り巡らされているのです。 表現するということは、自分で体験したことを伝えることから、相手に何らかの感情を引き起こさせることへと変わってしまいました。 させること、させられることが当たり前になって、自分という存在が、どんどん希薄なものになっているのです。

いろんなブログに書かれた詩を読んでいると、希薄な空気の中でもがき苦しんでいる姿が見えてくるのです。 何か手応えのあるものをつかもうにも、周りはふわふわとした頼りないものばかりで、自分がどこにいるのかもわからない。 それでも、ぼんやりとした光だけは見えていて、その光に近づこうにも、どうすることもできないのです。

私が信仰しているのは、自分という存在なんですね。

自分自分というけれど

果たして、どこからどこまでが自分なのか、そこに線を引くことはできるのでしょうか。

「木を見て森を見ず」といいますが、人は自分一人だけで生きているわけではありません。 両親の間に生まれ、たくさんの人達に囲まれて育っていきます。 成長するにつれて、様々な人と出会い、お互いに影響を受けながら、さらに大きく成長していきます。 こうして、人はたくさんの体験を背負って、今を生きているのです。

しかし、人が背負っているのはそれだけではありません。 自分で気づいたこと、親から教わったこと、学校で習ったことなど、たくさんの知識も背負っています。 体験は、自分で手に入れた、雑多な情報の蓄積です。 一方、知識は、蓄積された情報から得られた理論です。 そして、体験と知識が合わさって、ひとつの経験となるのです。

経験を家にたとえるなら、体験はコンクリートで、知識は鉄筋です。 コンクリートが足りないと、隙間だらけでとても住めたものではありません。 逆に、鉄筋が足りないと、強度が不足してしまうので安心して住むことができません。 コンクリートも鉄筋もバランス良くそろうことで、強固で安定した家になるのです。

こうした経験の積み重ねが、自分を作っていくわけです。 しかし、人によっては、それぞれの経験を乱雑に放り投げたままにしているかもしれません。 また、経験をひとつずつ丁寧に積み上げていく人もいるでしょう。 こうした験の積み重ね方は、その人の性格だといえますね。

それでは、人は何のために、経験を積み上げているのでしょうか。 それは、外の世界で、自分が生きていくためです。 人は、外の世界との関わりがなければ、生きていくことはできません。 そこで、外の世界を自分の中に再現することで、外の世界とのやり取りを円滑に行っているわけですね。

ただし、外の世界と中の世界が一致することはありません。 外の世界はあまりに複雑で、自分の中にすべてを取り込むには、あまりに大きすぎます。 そこで、様々な体験や知識を使って、自分の生活に必要なだけの小さな世界を作り上げるわけです。 つまり、自分とは、外の世界から抽出して作られた、内なる世界のことなんですね。

そのため、自分のすべての言動は、外の世界に対して行われますが、実は内なる世界に向けられているのです。 だから、「あいつは間違っている!」といって怒ったとしたら、それは外の世界のあいつに怒っていても、間違っているのは自分の中のあいつなんです。 本当に外のあいつが間違っているかもしれないし、ただ単に自分があいつのことを良く知らなかっただけかもしれないのです。

結局のところ、私達は、半透明の鏡を通して、世界を見ているわけですね。 細胞が細胞膜を通して体液のやりとりをするように、私達は、自分を通して、世界のやり取りをしているわけです。 そして、細胞が人を作り、人が社会を作っているのです。 木が林になって森になるように、すべては連続してつながっているのです。

自分と世界とのつながりを、大切にしたいですね。

ペロペロッとペペロンチーノ

ペペロンチーノという言葉を覚えたのは、実は最近のことなんです。

2~3年ほど前、バイト先の後輩が、卒業旅行で一人イタリアに行ってきました。 そのお土産としてパスタをもらったわけですが、せっかくなので、オリーブオイルに塩コショウで軽く味付けしただけでいただきました。 で、そのことを後輩に話すと、「あ、ペペロンチーノにしたんですね」「へ、それってペペロンチーノっていうの?」というわけで、めでたくペペロンチーノを覚えたわけです。

ペペロンチーノは、正式にはAglio Olio Peperoncinoというそうです。 ニンニク(Aglio)とオイル(Olio)と唐辛子(Peperontino)のパスタというわけですね。 ということは、唐辛子の入ってないオリーブオイルのみのパスタは、実はペペロンチーノではなかったんですね。

それはさておき、今日はクリームソースのパスタを作ろうと思っていたわけですが、いざ冷蔵庫を開けてみると、何と牛乳がないではありませんか。 仕方がないので、またナポリタンにしようかなとトマトケチャップを取り出すと、もう中身がほとんどありません。 う~ん、これは困った。というわけで、やむなくペペロンチーノを作ることにしたのでした。

実は唐辛子もなかったんですが、これは豆板醤で代用することにしました。 パスタをゆで終わったら、フライパンにたっぷりのオリーブオイルと刻んだニンニクを入れて火にかけます。 ニンニクの色が変わったら、ウインナーとタマネギを入れて、タマネギの色が変わったら、シメジとピーマンを入れます。 塩コショウで軽く味付けしたら、ゆでたパスタを投入して、オイルをよくからめたら出来上がりです。

ペペロンチーノといと素うどんのイメージがありますが、やっぱり具をたくさん入れた方が美味しいですね。 タバスコと粉チーズをたっぷりかけていただくと、適度な辛さが食欲を刺激して、あっというまにペロペロッと食べ終わってしまいました。 さっぱりとした食感がまたいいんですよね。

というわけで、ペペロンチーノ、ごちそうさまでした!

夕暮れの駅の賑わい

今日は、いつもと違った道を散歩してみました。

しばらく雨の日が続いていましたが、昨晩から明け方にかけては、雷を伴った強い雨が降りました。 それで雨を降り尽くしたのか、昼からは綺麗に晴れて、とても気持ちの良い散歩日和になりました。 夕方に散歩に出かけると、雨上がりの澄んだ空気のせいか、いつもなら引き返すところを、さらに奥へと足を運ぶことにしたのです。

坂道をどんどん下っていくと、真っ直ぐに伸びる線路が見えてきました。 そして、古ぼけた駅舎と、帰りの電車を待つたくさんの人達。 OLさんにサラリーマン。学生の姿も見えます。 電車通学をしていた高校生の頃を、懐かしく思い出します。 今日も一日が終わった。でも、これからは自分の時間が始まるんだ。

ここは、JRと市電が平行して走っていて、山側がJR、海側が市電になっています。 市電の最新車両、ユートラムがやってきました。 降りてきた乗客達が、いそいそと家路につきます。 その向こうでは、若い女性の二人組が、電車に乗って遊びに出かけようとしています。

そんな日常を、駅はいつものように、静かな眼差しで見つめています。 昨日も、今日も、そして明日も、同じように繰り返される光景。 同じでありながら、ひとつとして同じもののない、日常の光景。 そのわずかな変化が、少しずつ、町並みを変えていきます。

町は、通りすがりの私を、そっと受け入れてくれます。

プロフィール

K-Hyodo

K-Hyodo

本名:兵頭 薫
鹿児島の30代男性
ソフトウェア作家を目指す

コメント・拍手は大歓迎!

K-Hyodo's Soft

どのソフトも、
Mac & Windows 両対応!

iKeyboard 3

本気で覚えるための、
キーボード練習ソフト。

ベクターソフトレビュー


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