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パソコンで見る自分史(大学編)

大学に進学すると、学生寮に入ることになりました。

学生寮といっても、大学が管理運営する管理寮ではなくて、学生が自ら管理運営していく自治寮でした。 部屋も相部屋で、4人部屋を2~3人で使っていました。 寮生は、何らかの委員会に所属して、週に一度の委員会活動がありました。 月に一度は棟会という会議が開かれ、半年ごとの委員会活動の節目には、寮生全員が集まる寮生大会が行われました。 飲み会も多く、行事も多かったので、自然と寮生活が生活の中心になっていきました。

当然、X1turboZも寮に持ち込んだのですが、あまりいじっている時間はありませんでした。 しかし、ある日、ふとダイエーに立ち寄ると、そこにはX68000 PRO(定価298,000円)が、展示処分特価の6万円で叩き売りされているではありませんか。 さらに、いくつかのソフトもタダ同然の値段で投げ売りされています。 その圧倒的な人気にかげりが見え始めていたとはいえ、あの夢のパソコンが、手に届く値段で売られているとは…。

結局、その展示品のX68000 PROを買ってしまったわけですが、これまでのパソコンとはずいぶん勝手が違っていました。 PC-6001も、X1turboZも、電源を入れると最初にBASICが立ち上がったわけですが、このX6800 PROは、Human68kというOSが立ち上がるのです。 このHuman68k上でX-BASICというBASICを利用することもできましたが、かなりC言語に近いもので、実際C言語への変換が可能ということが売りになっていました。

寮には、高校時代にマイコン研究会に入っていた強者がいて、その伝手でいろんなものを提供してくれました。 空き部屋だった4号室を改造して、パソコン部屋兼マッチョクラブのトレーニングルームにしたりしました。 獣医の先輩に頼まれて、寄生虫に関する実験データを集計するプログラムを作ったこともありました。 その報酬は、焼き肉食べ放題というものでしたが。

X68000には、wp.xというワープロが標準装備されていました。 その後、投げ売りされていたMultiWordというワープロソフトも手に入れて、レポート作成や委員会活動で大活躍しました。 この頃は、NiftySurveなどのパソコン通信が全盛の頃で、たくさんのフリーソフトが作られていました。 パソコン通信はしていませんでしたが、本屋でフリーソフト集を買ってきて、いろんなソフトを試したものです。

このHuman68kはMS-DOS互換のファイルフォーマットを採用していたので、X68000 PROで作成した書類は、テキスト形式に変換して、今もMacの中に残してあります。 日記や手紙、レポートや議案書、中には当時の恋人への想いを綴った秘密の文章まであったりして、懐かしいというよりは恥ずかしいものが多かったりします。

X68000には、SX-WINDOWというウインドウシステムがありました。 しかし、SX-WINDOWのVersion 2を使うためには、メモリを増設する必要がありました。 当時、4MBのメモリの値段は4万円でした。 世間ではWindows 3.1が登場して、パソコンの性能は上がり、値段はずいぶん下がっていました。 X68000 PROのCPUは10MHzでしたが、すでに66MHzというとんでもない処理能力のパソコンが、驚きの10万円台で買えたのです。

ただ、いくら安くなったとはいえ、十何万という大金を一括で払えるような財力は、私にはありませんでした。 でも、分割払いという知恵をつけた私は、初のMacintoshとなるLC 630を、12回払いで購入してしまったのです。 そう、この瞬間から、Mac貧乏への道を転がり落ちることになるのです。

この頃から、パソコンを玩具として楽しむことから、道具として利用するようになっていきました。

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パソコンで見る自分史(高校編)

高校の受験が終わると、合格祝いとして、SHARP X1turboZを親に買ってもらいました。

世の中はすでに16bitが主力で、SHARPからもX68000が発売されていました。 しかし、時代遅れの中古品でも、初めての自分専用のパソコンです。 PC-6001と比べれば、何世代分も新しくて、自分にとっては十分に高性能パソコンだったのです。 実際、その性能は素晴らしいものでした。 豊富な機能に扱いやすいスクリーンエディタ、高速な5インチのフロッピーディスクに打ちやすいキーボード。 その感動は、今でも鮮明に覚えています。

高校では、担任の先生が顧問をしていた生物部に入りました。 運動部はもうこりごりということで安易に決めたわけですが、生物部員らしいことといえば、飼育していたモルモット、ハムスター、ニワトリなどの世話くらいで、同じクラスでもある友達と遊んでばかりいました。 実験室のテーブルと軟球を使った卓球もどきのスポーツを考案して、大騒ぎしては理科館の事務のおばちゃんに叱られていました。

ごたごたしていた家の中も、この頃にはすっかり落ち着いていました。 おかげで、私はパソコンに思う存分のめり込むことができました。 X1turboZで最初にしたことは、PC-6001用に作ったキーボード練習プログラムを移植することでした。 その高い描写性能を活かそうと画面表示に凝りに凝ったために、最初のメニューを表示するまでに何分も待たなければなりませんでしたが、おかげですんなりとX1turboZのBASICに慣れることができました。

X1turboZは、標準で高速に日本語を処理することができました。 しかし、ワープロソフトは付属していなかったために、せっかくの日本語処理能力を活かすことができませんでした。 そこで、簡単なワープロソフトを作ることにしました。 基本的な編集機能はBASICに内蔵されていたものを流用して、センタリングや右寄せ、文字の拡大や装飾などの機能を追加していきました。

自作ワープロの用途は、主に日記用でしたが、定期的に行われる漢字テストの対策用にも使いました。 国語の教科書から、出題範囲の漢字を抜き出して、それを並べていき、それらの漢字を使った例題を作ったら出来上がりです。 最初は、それを印刷して仲の良い友達に配っていたのですが、それが担任の先生に見つかって、クラス全員に配られることになりました。 そうなると、いい加減なものは作れない、というわけで、専用の漢字テスト対策プログラムを作ったりもしました。

学園祭でプラネタリウムを作ることになった時は、星の位置を決める担当になりました。 天文少年でもあった私は、星図から4等星までの明るさの星の座標と明るさをパソコンに入力して、その日の星の位置を正確に計算させることにしました。 何とかすべての星のデータを入力して、それを画面上に表示するところまではできたのですが、それを各パネルごとに切り分けて印刷するところまでは、時間が足りませんでした。 結局、締め切りには間に合わず、私は合わせる顔がなくて、学校をずる休みしてしまいました。 後で皆から大ひんしゅくを買ったのは言うまでもありません。

クラスには、私よりもパソコンに詳しい友人がいました。 彼は、能楽の家元の跡取り息子でありながら、パソコンに熱中するあまり、後にその座を弟に譲ってしまったという人物で、学校にはいつもポケコンを持ってきて、自作のゲームで遊んでいました。 ある時、その彼が一冊の本を貸してくれました。 BASICのプログラムリストを、C言語のように構造化された読みやすいものにしましょう、という内容の本で、私はとても大きな影響を受けました。

当時は、ちょっとしたC言語ブームになっていて、本屋にはたくさんのC言語関連の書籍が並んでいました。 ついに私は、意を決して、X1用のOSであるCP/M(14,800円)と、C言語(13,800円)を購入しました。 小遣い5,000円の高校生にはとても高い買い物でしたが、これがほとんど使い物にならない代物でした。 このC言語は、8bit用に機能縮小されたもので、一般的な書籍はほとんど役に立たなかったのです。

そこで目を付けたのがマシン語でした。 BASICは、プログラムをマシン語に翻訳しながら実行するために、処理速度が遅く、またパソコンのすべての機能を使うことができませんでした。 それが、マシン語を使えば、高速にすべての機能を使うことができるのです。 でも、マシン語は上級者だけに許された特別なもので、絶対に自分には無理だと思い込んでいました。

あるとき、本屋で「Z80 マシン語秘伝の書」という本を見つけて、親に買ってもらいました。 そこには、マシン語で使用するニーモニックが、わかりやすく解説されていました。 なんだ、自分にもわかるじゃないか。そう気づいた時の喜びはかなりのものでした。 でも、Z80のニーモニックがわかっただけでは、X1turboZでのマシン語プログラムは組めなかったのです。

マシン語は、パソコンのハードウェアを直接操作するために、その機種のハードウェアの知識が必要不可欠でした。 そこで、「X1+turbo マシン語読本」「X1-Techknow」「試験に出るX1」と本を買いそろえていき、やっと簡単なマシン語プログラムが組めるようになりました。 アセンブラを使わずに、ハンドアセンブルでニーモニックをマシン語コードに変換していたので、あまり大きなプログラムは組めませんでしたが、夢に見ることさえも許されないようなマシン語を扱えるようになって、とても興奮したものです。

高校時代が、私のパソコン人生でもっとも充実していたかもしれません。

パソコンで見る自分史(中学校編)

中学校に入ると、クラブ活動で忙しくなりました。

兄と同じ陸上部に入部して、さらに顧問の先生が運営していた重量挙げのサークルにも入りました。 学校の授業が終わると、陸上部で砲丸投げの練習をして、それが終わると重量挙げの練習をして、家に帰るのは夜の9時になっていました。 練習に追われているうちに、小学生の頃の体調不良は、いつの間にか全快していました。

ただし、砲丸投げや重量挙げをしたかったわけではなくて、陸上部で成績の良かった兄の弟だという理由で、顧問の先生から誘われるがままに始めたのでした。 元々パソコン少年だった私は、あまり熱中することができず、いつも怯えるように練習していました。 「技術はあるのに、どうも成績が伸びない」と、顧問の先生も頭を悩ませていたようです。

そうしているうちに、次第に学校の成績が落ち始め、これは重量挙げのせいだということになり、自分一人だけ先に帰って勉強するように親に言われ、最後は受験のためという理由でやめさせられてしまいました。 ちゃんと勉強をしなかった私が悪いんですが、重量挙げをやめるのはかなり辛かったですね。 今でも、重量挙げの練習をしながら、先輩達から冷たい視線を浴びるという夢を見ることがあります。

こうして、重量挙げのサークルをやめたわけですが、その代わりに、パソコン禁止令が解かれることになりました。 もはや時代遅れのPC-6001でしたが、ベーマガ片手にせっせとゲーム・プログラムを入力していました。 しかし、この頃には、入力したプログラムを改造して、自機の数を増やしたり、ボーナスの点数を増やしたりといったことをするようになっていました。

そうしているうちに、自分でオリジナルのゲームを作りたい、と強く思うようになりました。 そして、手始めに「平安京エイリアン」を自分で一から作ってみることにしました。 でも、それがなかなか思うように作れないんです。 BASICの命令は、すでに一通り覚えているわけですが、それをどう使っていいのかがわからないんですね。

結局、ゲーム作りは断念することになったのですが、代わりに、キーボード練習用のプログラム作りに熱中することになります。 きっかけは、友人が学校に持ってきたPC-9801の説明書でした。 そこには、ホームポジションを基準にして指を上下に動かすという、ブラインドタッチの基本が書かれていました。 ずっと憧れだったブラインドタッチが、これで自分でもできるようになるんだ!

どうも私は、ゲームよりも実用プログラムの方が向いていたようで、あっという間に最初のバージョンが完成しました。 アルファベットをただ順番に入力して速さを競うという、ただそれだけのものでしたが、兄と競い合いながら練習しました。 アルファベットを4秒で入力できるようになる頃には、キー配列の表示や、ランダム入力、間違えた文字の復習などができるようになっていました。

オリジナルのプログラムを作れたこと、それが役に立ったことは、とても貴重な体験でした。

パソコンで見る自分史(小学校編)

私が初めてパソコンに出会ったのは、小学校低学年の頃です。

当時、私は名古屋に住んでいましたが、京都の伯母の家に遊びにいった時、そこにNEC PC-6001があったのです。 それは従兄弟のもので、私は夜遅くまで、兄とスペース・インベーダーで遊んだものです。 その後、母が亡くなり、父親の転勤もあって、その親戚の家にしばらくお世話になることになりました。 幼かった私は、「これからは、毎日スペース・インベーダーができる」と、無邪気に喜んだのでした。

PC-6001は、電源を入れると、ROMに内蔵されたBASICが立ち上がるようになっていました。 スペース・インベーダーで遊ぶためには、ケーブルでつないだテープレコーダーにスペース・インベーダーの入ったテープを入れて、「びー、ががががが~」という「ぴー」の音を頼りに頭出しをしてから、再生ボタンと同時に「LOAD "invader"」と入力して、数分後に読み込みが終わったら、テープレコーダーを止めて「RUN」を入力しなければなりませんでした。

そうしているうちに、従兄弟が持っていたゲームは、すぐに遊び尽くしてしまいました。 でも、「マイコンBASICマガジン」という雑誌には、読者の投稿するゲームのプログラムリストが掲載されていたので、それを自分で入力することで、新しいゲームで遊ぶことができたのです。 ただ、プログラムの入力は非常に面倒で、兄と交代しながら、何時間もかけて入力していかなければなりませんでした。

その後、従兄弟が富士通のFM-77を購入したので、兄とお年玉を出し合ってPC-6001を買い取りました。 PC-6001には、「みんなで使おうBASIC」という、N60-BASICのプログラミングについて非常にわかりやすく書かれた説明書がついていました。 従兄弟に教えてもらいながら、画面に文字を表示したり、簡単な計算をさせたり、線や四角などの図形を描いたり、といったことを、少しずつ覚えていきました。

小学校中学年になると、画面に表示した「大」という文字をカーソルキーで動かすというプログラムなら、何も見ないでも入力できるようになっていました。 また、その頃には、市販のゲームも売られるようになっていて、「EGGY」「TINY XEVIOUS」などのゲームを買ってもらって、よく遊んでいました。

しかし、父が今の母と再婚してからは、家庭内でごたごたが続きました。 兄は反抗し、私は体調を崩して、毎日のように家族会議が開かれました。 そんな中、小学校高学年になった頃、私の体調不良はパソコンのやり過ぎだということになり、とうとうパソコン禁止令が出されたのです。

でも、そんなことでパソコンを諦める私ではありません。 こっそり押し入れからパソコンを持ち出し、テレビ画面のない状態で、ゲームミュージックのプログラムを入力して楽しんでいました。 親が留守の時には、テレビにつないでゲームを楽しんだのはいうまでもありません。

私の小学校時代は、まさにパソコンと共にあったといえるでしょう。

デジカメで見る自分史(後編)

自己紹介の3回目で、いよいよ現在に追いつきます。

MINOLTA DiMAGE 5

PowerShot A60でマニュアル撮影を楽しんでいた頃、なぽちゃんのホームページを見つけました。 それまで、自分で写真を撮るばっかりで、周りに写真を趣味にしている人もなく、人の写真を見ることもなかった私にとって、そのホームページの写真は、ものすごい衝撃でした。

そのページの写真は、MINOLTAのデジカメで撮られたものでした。 A60購入時の調査では、写りは素晴らしいけど値段も素晴らしく高いということで、あっさりと対象外にしていたわけですが、ふとオークションで値段を調べてみたら、ずいぶん値下がりしていました。 320万画素のDiMAGE 5が、たったの2万円。定価は10万円ですよ。

ちょうど、PhotoMaster評価版のフィードバックで、複数のカメラの扱いについての意見が寄せられていたこともあり、思い切って落札しました。 初めてのハイエンド、憧れのMINOLTA。大口径レンズにマニュアルズーム。大きなグリップにコマンドダイヤル。 もうすっかり舞い上がってしまいました。

上品で控えめな色合い、そこに本物の風景が広がっているかのような写実的な描写。 どこにレンズを向けてシャッターを押しても、全部絵になってしまう、素晴らしいカメラでした。 A60は撮影の技術を教えてくれましたが、DiMAGE 5は、撮影の楽しさを教えてくれました。 そして、その感動は、PhotoMasterに魂として込められていきます。

MINOLTA DiMAGE 7Hi

彼女との遠距離恋愛が始まり、辛いほどに自分の時間が増えました。 いずれは彼女の後を追って、住み慣れたこの鹿児島の地を離れることになるかもしれない。 そういうわけで、自分のお気に入りの場所を、できるだけ写真に収めることを決意します。

一方、PhotoMasterがめでたく正式版となります。 初めてのシェアウェアで不安でしたが、数は少ないながらも登録があり、その評価も非常に好意的なものでした。 自分の作ったソフトを、喜んで使ってくれる人がいる! それは、それまでずっと孤独の中で作業を続けてきた私にとって、何よりの喜びでした。

DiMAGE 5は十分気に入っていましたが、上位機種のDiMAGE 7Hiの存在が気になり、試しにオークションで落札してみました。 AFを始めとして、全体的に動作が軽快になり、操作性もずいぶん改善されて、快適なものになっていました。 しかし、絵作りが鮮やなものに変更されていて、どうも不自然さを感じたので、すぐにオークションで転売してしまいました。

MINOLTA DiMAGE 7UG

絵作りはDiMAGE 5が好みだけど、操作性はDiMAGE 7Hiのほうが良い。 この2つの特徴を併せ持ったカメラはないものか…。それがあったんです。 DiMAGE 5の上位機種である、DiMAGE 7を有償アップデートしたモデル、DiMAGE 7UG。 オークションでは、以前のDiMAGE 5の落札価格とさほど変わらない値段にまで下がっていたので、これ幸いと買い替えました。

操作方法自体は、DiMAGE 5/7Hi/7UGともに大きな違いはないので、この頃には、ほぼ思い通りにカメラを扱うことができるようになっていました。 自分のお気に入りの場所はだいたい撮り尽くし、新たな場所を探すようになっていました。 石像の魅力にはまり、神社巡りをするようになったのも、この頃からです。

カメラが手に馴染むに従って、PhotoMasterも落ち着いてきたので、iKeyboardの開発を再開します。 PhotoMasterのおかげで技術力も向上し、一旦離れることで、現状を冷静に判断することができるようになりました。 iKeyboardを内容ごとに分割し、シリーズ化することで、iKeyboardの開発は一気に動き出しました。

MINOLTA DiMAGE A1

iKeyboardも公開間近というところで、DiMAGE 7UGが壊れてしまいました。 修理に出すと、1~2万円はかかるということでした。 ちょうどこの頃、DiMAGE A1の値下がりが続き、底値ともいえる4万円台までなっていました。 修理代を払ってお気に入りの7UGを使い続けるか、保証のついた新品A1を買うか、ずいぶん悩みました。 詳しくは「A1ドタバタ購入記」に書いた通りです。

ところが、DiMAGE 7Hiほどではないにしろ、どうも色が濃いんですね。 ボディの質感や操作性は最高なんですが、撮れた写真がどうも気に入らない。 DiMAGE 7UGからずいぶん進歩したと思える部分も多いだけに、なんとも複雑な心境です。 最終的には、「パラメータの設定にオドロイタ」に書いたように、パラメータの設定を変更することで、好みの画質にすることができました。

無事に公開を果たしたiKeyboardですが、注目度は高いわりには、どうも反応が良くないんですね。 少しずつ登録はあるのですが、どういうわけか、フィードバックがないんです。 値段が高過ぎたのか、ヘルプが不十分だったのか、練習効果が感じられなかったのか、ローマ字や単語の練習ができないからなのか。 いくつか要因は推測できても、フィードバックがないので原因が特定できないでいます。 とにかく、いろんなことを試していくしかありませんね。

そういうわけで、現在に至ります。 DS-7からA1まで、期間にすると9年を振り返ったわけですが、こうして見てみると、自分でも驚くほど、いろんなことがありました。 これからも、もっといろんなことが起きると思いますが、どうぞよろしくお願いします!

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デジカメで見る自分史(中編)

前回に引き続き、デジカメに絡めた自己紹介の2回目です。

FUJIFILM FinePix 6800Z

FinePix 1500は、とても気に入っていたんですが、資金難のために友人に売ってしまいました。 その後、彼女と出会い、お金にも余裕ができたので、新しくデジカメを買いました。 コンパクトなFinePix 6800Zにするか、ハイエンドのFinePix 6900Zにするか迷ったのですが、すぐに手に入るという理由で6800Zに決めました。

初めてのズームレンズだったんですが、歪みがひどく、四隅も像が流れて、レンズにも性能があることを知りました。 6900Zにすれば良かったかなと後悔することもありましたが、彼女と付き合うのに忙しくて、撮るのはデートの写真ばっかりだったので、コンパクトな6800Zで良かったのかもしれません。

その後、ミーちゃんとも出会い、iKeyboardも評価版という形で公開を果たし、新しい喜びに満ちた時代でしたね。 ただ、知人の結婚式が重なり、わずか半年で6800Zはご祝儀へと変わってしまいました。

FUJIFILM FinePix A201

その後、やっぱりデジカメが欲しい、ということで、エントリークラスの安いFinePix A201を買いました。 単焦点のパンフォーカス。マクロの切り替えは機械式。 液晶パネルも小さくて暗く、暗部がつぶれやすくてノイズも多い。 6800Zと比べると見劣りするスペックでしたが、やっぱり写真が撮れるというのはそれだけで嬉しいものです。

彼女との付き合いも落ち着いてきて、一人で写真を撮ることも増えてきました。 ミーちゃんもすっかり大きくなって、あまり手間もかからなくなってきました。 去勢手術も済まして、オスなのにどこか女の子っぽいミーちゃんです。

一方、iKeyboardは、評価版のフィードバックを元に改良を重ねていきましたが、アイデアは出尽くし、要求は増えるばかり。 仕様書はどんどん複雑化していくのに、それを実装する技術が追いつかず、いつになったら完成するのか、焦りを感じ始めます。

Canon PowerShot A60

それでも、何とかiKeyboard 評価版6を公開して、自分へのご褒美ということで、デジカメを買い替えました。 A201への不満は日に日に増して、兄の結婚式の時、父親のCyberShotの写真を見て、もう我慢できなくなってしまいました。 それは、私のFUJIFILM信奉が崩壊した瞬間でもありました。

限られた予算で、時代に合った高画質で、本格的なマニュアル撮影も楽しめる、本当に満足のいくデジカメを求めて、徹底的に調査をしました。 あらゆるメーカーの機種をリストアップして、手に入る全てのサンプル画像をダウンロードして、ひとつずつ候補を絞っていきました。 そうして、最後に残ったデジカメが、PowerShot A60でした。

しかし、購入後の印象は、あまり良いものではありませんでした。 そのままだと、色がべったりと濃く、一方で明るく軽い印象があり、何ともバランスの悪い画質でした。 あんなに苦労したのに、機種選びを失敗したか! もちろん、ここで引き下がるわけにはいきません。 あれこれ研究した結果、カラーモードをすっきりカラーに、測光方式を中央部重点平均測光に、露出補正を常に-0.3にすることで、なんとか納得のいく仕上がりになりました。

でも、それで満足のいく写真が撮れるわけもなく、ついにマニュアル撮影の挑戦を決意します。 もちろん知識はゼロに等しいので、困った時の図書館頼み、というわけで、また猛烈な図書館通いが始まります。 撮影枚数は劇的に増え、それまで1年かかって撮影した枚数を、1ヶ月で撮ってしまうようになりました。

本を読んで、撮って試して、写真を念入りに見比べる、という毎日が続きました。 それまで、FUJIFILMのFinePix Viewerというソフトを使っていたのですが、写真の整理には便利だったんですが、写りの確認となるとまったく役立たずでした。 CanonのImageBrowserやiPhotoも似たようなもだったので、ある結論に至ります。 欲しいものがなければ、自分で作ってしまおう!

そういうわけで、わずか1ヶ月という短期間で、PhotoMasterの試作品が出来上がります。 これはいける!という手応えを感じて、iKeyboardの開発を休止、PhotoMasterの開発に専念して、半年後には評価版の公開に漕ぎ着けました。

A60のマニュアル機能とPhotoMasterのおかげで、光を思い通りに捕らえることができるようになりました。 朝もやの爽やかさや、木漏れ日に映る葉の美しさ、そういったものを思い通りに撮れるようになったのです。 写真撮影の幅がぐっと広がり、ものの見方もずいぶんと変わりました。

さあ、次回はいよいよ後編です。 完結編じゃないですよ(笑)。

デジカメで見る自分史(前編)

そういえば、このブログでまだ自己紹介をしていませんでしたね。

せっかくですので、私のデジカメ使用歴と合わせて、当時の写真を紹介しながら、自己紹介をしていこうかと思います。 デジカメの機種が多いので、前編・中編・後編の3回に分けていきます。

FUJIFILM CLIP-IT DS-7

記念すべき最初のデジカメ。初のマイカメラでもあります。 小学生の頃、正確にはMINOLTA α-7000の登場以来、ずっと写真には興味があったのですが、貧乏学生だった私には一眼レフは高嶺の花。フィルム代や現像代などのランニングコストを考えると、とても手が出ませんでした。

そんな時、DS-7が発売になりました。 ランニングコスト不要で、画期的な高画質。何とか手の届く値段で、メディアの交換も可能。 これはまさに自分のためのデジカメじゃないか!ということで、発売後すぐに手に入れました。 もう嬉しくて嬉しくて、どこに行くにもDS-7を持っていって、目に入るものは何でも撮っていました。

それでも、使い続けていくうちに、だんだん被写体が絞られていきました。 学生寮に住んでいたので、寮の行事はもちろんのこと、飼っていたハムスターも良く撮っていました。 それ以外では、圧倒的に空の写真が多かったですね。 特に日の出や夕焼けの写真は、時間になるとじっとしていられなくて、自転車で良い撮影場所を探して走り回ってました。

FUJIFILM CLIP-IT 50

その後、研究室に入り、先生に言われるまま大学院に進学したわけですが、これが自分の人生を大きく狂わせることになります。 先生は農学部でも有名なトラブルメーカーで、私も不条理な出来事にたくさん巻き込まれました。 一方、私も負けないくらいの世間知らずで、融通の利かない人間だったため、先生と大喧嘩をして、一年の休学の後、大学院を中退してしまいました。

きっかけは、「お前は農業のことをわかっていない」という先生の一言。お前に言われたくねーよ。 そういうわけで、農業について猛勉強しました。 日本の農業の歴史や、現在の農業の問題点、今ほど有名ではなかった有機農業などなど。 そして、最後にたどり着いた究極の答が、自然農法でした。

今思えば、全く経験のない分野の知識を詰め込んだために、知恵熱に浮かされている状態だったんですね。 俺は農家になって究極の自然農法を目指すんだ!ということで、畑を作り始めました。 デジカメもCLIP-IT 50に買い替えましたが、ほとんど農作業の記録用でした。 自分で作った野菜は小振りでしたが、とっても美味しかったですよ。

OLYMPUS CAMEDIA C-860L

残念ながら、付け焼き刃はこぼれ、メッキははがれ、あっという間に挫折を味わうことになります。 起死回生の県庁の試験にも落ちて、お先真っ暗の状態に陥ってしまいました。 何もかも失って、最後に自分に残された唯一の希望、それがパソコンでした。

富士通の派遣社員として働いたり、パソコン教室の立ち上げに参加したりして、少しずつ自信を取り戻していきました。 パソコンなら、小学生の頃からの付き合いですし、経験も知識も人並み以上に持っています。 よし、自分にしか作れないような、凄いソフトを作ってやろう!

それから、私の本当の人生が始まったように思います。 心機一転、狭い四畳半の部屋から、現在の九畳の部屋に移り、iKeyboardの開発をスタートさせました。 この頃から、頻繁に図書館に通うようになりました。 以前の反省から、できるだけ幅広い分野の本を読むように心掛けました。

本当はFinePix 1500を買うつもりだったのに、安さにつられてC-860Lを買ってしまいました。 安物買いの銭失いと言いますが、当時のデジカメはFUJIFILMが一歩リードしていたため、格の違いというものを思い知らされました。

FUJIFILM FinePix 1500

結局、C-860Lは、ほんの数ヶ月で手放して、本命のFinePix 1500を手に入れました。 ちょっと回り道をしてしまいましたが、それによって自分の進むべき道が見えることもあるわけですから、それもまた経験ですね。 FinePix 1500は、画質・質感ともに大変満足のいくものでした。

パソコンの知識や経験は豊富でしたが、プログラムに関しては、昔のBASICと、C言語をかじった程度だったため、全くの手探りの状態でした。 そんな中で、REALbasicという開発環境と出会い、一気に道が開けてきました。 従来のBASICに、構造化やオブジェクト指向などの最新技術を取り入れ、さらにはMacとWindowsのクロスプラットフォーム対応ということで、私にとってはまさに夢のようなソフトでした。

孤独な作業ではありましたが、一歩一歩、確実に進歩していることが実感できたので、とても充実していました。 そのせいか、写真にも気持ちの余裕が出てきたように思います。

長々と書いてしまいましたが、まだまだ続きます。 次回もお楽しみに!

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本名:兵頭 薫
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