写真の構成要素

写真を撮影する時の過程を順番に見ていきましょう。

被写体
まず、撮影の対象となる被写体が必要です。 写真が光を記録するものである以上、被写体にも光が当たっている、もしくは自ら発光している必要があります。
レンズ
被写体からの光を集める働きをします。また、ピント合わせの役割もあります。レンズの焦点距離によって画角が変わり、レンズを向ける方向によって構図が変化します。レンズの性能によっては、色が滲んだり、像が歪んだりすることもあります。
絞り
被写体からの光の量を制御します。また、絞り値によって、被写界深度(ピントの合う範囲)も変化します。
シャッター
被写体からの光を記録する時間を制御します。動きのある被写体の場合、その写り方が変化します。
センサー(フィルム)
被写体からの光を記録します。感度を変えることで、より少ない光を記録することができますが、ノイズも増えてしまいます。
露出
絞り値、シャッター速度、感度の組み合わせによって、記録する光の範囲が変化します。カメラによって自動制御する場合、測光方式(分割測光・中央重点平均測光、スポット測光)によって露出が変わってきます。また、自動露出の値を基準にして、露出補正を行うこともできます。
現像
センサーによって記録されたデータを画像処理することによって、写真を作り出します。ホワイトバランスの設定によって色合いが変化します。また、コントラスト、彩度、シャープネスの設定によって調子も変化します。RAW形式で記録することによって、撮影後にパソコン上で自由に写真を調整することもできます。

これらをまとめると、写真には「構図」「ピント」「露出」という3つの要素があることがわかります。 このうち、構図は、若干のレンズの制約はあるものの、ほぼ撮影者の自由に任されます。 一方、ピントは、ほとんどのカメラにAFが搭載され、速度的な制約はあるものの、精度的にはカメラ任せでもさほど心配いらなくなっています。 露出も、カメラのAEでも被写体を確認できるだけの精度はありますが、記録できる光の範囲に制約があるため、見た目通りにならないこともあります。

視点を変えて、目的別にまとめてみると、「被写体」「カメラ」「撮影」「写真」という4つの要素が見えてきます。 とにかく、興味の対象が写っていることに価値を見出す人。 カメラやレンズなどの機材に興味を持ち、それらを所有することに喜びを感じる人。 撮影という行為そのものに喜びを感じ、そのための被写体やカメラを探しまわる人。 写真という独自の世界に惚れ込んで、作品作りに熱を上げる人。

これらの要素は、お互いに関連し合っているので、どれかひとつだけを取り出してみても、あまり意味はありません。 ただ、これらの要素を理解することで、自分の立ち位置を知ることができます。 相手との関係を知ることによって、無用なトラブルを避けることもできます。 私は、露出と撮影を大切にしていますが、構図と写真を大切にしている人だっています。 お互いの違いを知ることができれば、お互いの共通点だってわかってきますよね。

お互い、気持ち良く写真撮影を楽しめれば最高ですね。

写真を進化論的に考えてみる

写真には、様々な要素が絡んできます。

進化論的に考えてみましょう。 まず、そこに人がいて、興味の対象があります。 次に、人がその対象を記録することを考え、絵画や彫刻、文章などが生まれます。 そしてついに、対象を自動的に記録するための道具として、カメラが生まれます。 その対象は被写体となり、カメラで撮影することによって、写真として記録されます。

この中には、「人の記録欲求」「記録機械としてのカメラ」「撮影対象としての被写体」「カメラによる撮影」「撮影された写真」という、5つの要素が含まれています。 生物にとって、外界を的確に把握することは、生存に有利に働くことになるので、記録しようとする欲求は大切な本能だといえるでしょう。 特別な能力が要求される絵画などと違い、写真はカメラさえ手に入れれば、極めて高い描写力が得られるので、より少ないコストでより大きなメリットが得られます。

カメラを手にすることで、カメラを持たない人よりも記録という面で有利になるので、人はカメラを活用することを考えます。 対象をより精密に描写することで、より多くの情報を得ることができます。 その写真を他人に見せることで、その情報を共有し、その社会の知識レベルを向上させることができます。 また、それによって、自分の社会的な地位を高めることができます。 ただし、不適切な写真を公開してしまうと、社会的なフィードバックが働き、その地位を失うことになります。

その一方で、個人的な弱点を補うために、あるいは社会的に認められない要求を満たすための代償行為として、写真が利用されることもあります。 社交性に乏しい人が、異性への性的な欲求を満たすために、異性を隠し撮りしたり、自分の反社会的な行為を記録することによって、その行為を正当化したりするわけです。 これらの行為は、満たされない欲求→代償行為→自己正当化→新たな要求という悪循環に陥り、自己中心的な思考が強化される危険性があります。

「趣味の写真は、本人が楽しめればそれで良い」と言う人がいますが、前者と後者では、結果がまるで変わってきます。 同じアニメ好きの撮影好きでも、宮崎駿になるか、宮崎勤になるかは、その姿勢に大きな違いがあるのです。 見て不快になる写真というのは、そのほとんどが代償行為や自己正当化による写真です。 具体的な説明はできなくても、写真に込められたその意図を認識した瞬間に、不快な気分になるように思います。

趣味の写真といえども、その社会性は見失わないようにしたいですね。

植物の緑を見る

ニコラス・ハンフリーの「赤を見る」を読み終わりました。

人は、赤いスクリーンを見た時、何を見ているのか。 というたとえ話を元に、意識の謎に迫ります。 話の内容は、前回読んだ「喪失と獲得」と重なる部分が多く、新しい発見よりも理解を深めるという読み方になりました。 ただ、話の流れが、仮説を立て、それを検証しながら、新しい仮設を立てる、といった繰り返しなので、最初のうちは「それは違うんじゃないの?」と混乱することもありました。

人は、ただ赤い波長の光を知覚するというだけじゃなく、それに対応する形で、能動的に「赤を見る」という行為によって、感覚を生み出しているという主張は理解できるんですが、その順番がどうも納得いかなかったんですよね。 本文中では、その順番を以下のように書いています。

  1. 外界の対象aが感覚器官a'に刺激を送る
  2. この感覚刺激を元に、何らかの低次元の複製として、感覚bを作り出す
  3. その感覚の属性を読み出す p(b)
  4. 読み取った結果を基にして、外界の事実を再構築する p(a)

つまり、赤いスクリーンaは、網膜に映り込んだ時点で赤い波長の光という知覚a'になり、このa'というキーワードによって感覚bが生成され、意識の内部でp(b)として認識され、aはp(a)として解釈されるのです。 当然、a ≠ p(b)であり、p1(b1) ≠ p2(b2)になり、p1(a) ≠ p2(a)となるので、全てを正確に見ることはできないし、人によって感じ方も見え方も変わってくるというわけです。

これが、赤いスクリーンじゃなくて、一枚の写真だったらどうでしょう。 写真aは、網膜上でa'となり、感覚bを生み出しますが、その感覚bとは無関係に、常に写真aはp(a)として見えているように思えるのです。 私が写真物語でやっていたように、写真aに異なる解釈を与えることによって、新たな感覚b'が生まれることはありますが、写真aの見え方p(a)自体は変わらないんですよね。

そんなことを考えていたら、次の章でこのモデルを訂正していました。 aがa'になった後、bとp(a)が別々に生成されるというのです。 この新しいモデルなら、さっきの私の疑問も解決することができますね。 私はただ、先のモデルに対して、感覚として違和感を感じただけでしたが、本書では、様々な実験や症例を元に、新しいモデルの正当性を検証しています。

私は植物を撮る時、その妖しげで魅惑的な世界に惹かれて写真ph(a)を撮ることが多いんですが、ファインダーに写る像f(a)を撮っているわけじゃなくて、それによって得られる感覚bを撮っていたんですね。 人によっては、a ≒ ph(a)となるような撮り方をしたり、f(a) ≒ bとなるような撮り方をしたり、ph(a) ≒ b'となるような撮り方をしたり、いろんな写真の楽しみ方をしているんですね。

私の場合、ケータイカメラはただaが写っていさえすれば良く、α-7 DIGITALではa ≒ f(a) ≒ ph(a)という写実性を重視して、DiMAGE 7UGではf(a) ≒ ph(a) ≒ bという感覚を大切にして撮っているようです。 どれもそれなりに楽しいんですが、やっぱりf(a) ≒ ph(a) ≒ bとなるD7の撮影が、圧倒的に楽しいですね。 ケータイカメラは1枚撮れば満足しますが、α7Dは800枚とっても満足しないし、D7では100枚も撮れば満足感でお腹いっぱいになります。

これからも、ph(a) ≒ bとなるように頑張ろうっと。

色の感覚と自然淘汰

同じ赤い色を見ていたとしても、君と僕とでは、違う色を見ているんだよ。
もしかしたら、君にとっては赤い色でも、僕にとっては青や緑になるかもしれないんだ。

この話を最初に聞いたのは、小学生の高学年の時です。 新卒の担任の先生は、恐らく「人によって感じ方は違ってくるんだよ」ということを伝えたかったのでしょう。 でも、当時天文少年だった私は、この話にどうにも納得がいきませんでした。 物理的に同じ波長の光を見ているんだから、赤が青や緑になるわけないじゃないか。 青空が夕焼けのように真っ赤に見えたとしたら、その人はきっと晴れの日が嫌になるに違いない!

この話は、大学生になっても耳にしたことがあります。 この頃になると、私も「そういう学説があるんだろうなぁ」という感じで、釈然としないまま、理解しているフリをしていました。 人はそれぞれ感じ方や考え方が違うんだから、色の感じ方が違っても当然なのかもな。 友人の恋人の家で飲み会をした時、その色彩感覚に唖然としたことがあります。 こんなパステルカラーの部屋に住んでたら、俺は気が狂ってしまう!

でも、写真を撮るようになって、それをネットで公開するようになってから、やっぱり色の感じ方はそれほど大きく変わらないんじゃないかと思うようになりました。 なぜなら、誰にとっても、青空は爽やかで活動的だし、赤い夕日はどこか情熱的で感傷的です。 人によって、爽やかさを好んだり、情熱的なものを好んだりすることはあっても、青空を見て胸がキュンとしたり、夕日を見て胸がスカッとする人は、あまりいないでしょう。

どうやら、ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインという哲学者が、「一部の人間が赤についてのある感覚を持ち、他の一部の人間が別の感覚を持つという仮定は、検証不可能ではあるが、可能である」と書いたのが、発端のようです。 要するに、物理的な刺激と、それを脳が知覚することで得られる感覚は、別の存在となるので直接比較はできないよ、と言ってるだけなんです。 「そういう仮定も可能だ」と言ってるだけなのに、いつの間にか「そういう説」にすりわかってしまってたんですね。

このように、色の感覚というのは、物理的な刺激を脳が処理した後の、加工済みの刺激なんですね。 その途中で、様々な情報が切り捨てられたり、付け加えられたりして、人それぞれに違った感じ方をする可能性が出てくるわけです。 ただ、進化心理学によると、この過程において、自然淘汰によって獲得された様々な処理が行われてるらしいんです。 青が安全色、赤が警戒色というのも、信号機のせいじゃなくて、信号機がそれを利用しているんですね。

もしかしたら、写真を撮るということは、隠された処理を解き明かすことなのかもしれませんね。

マクロ写真について考える

今日は写真を撮らなかったので、水滴写真を集めてみました。

プアマンズ・ストロボを使ったマクロ写真。 しかも、接写リングを使った高倍率。 さらに、綺麗な水滴写真です。 本当に綺麗ですよね。 本当に綺麗だなぁと思うんですが、残念ながら、この手の写真というのは、撮るのも観るのも、すぐに疲れちゃうんですよね。 もしかしたら、もうお腹いっぱいと思ってる人もいるかもしれません。

撮る方としては、まず人の目線が気になります。 カメラで撮るだけでも人目につくのに、妙な装置をつけて撮ってるわけですから、なおさらですね。 次に、マクロ撮影は被写体深度が浅いので、ピント合わせに神経を使います。 当然、目も疲れます。 ファインダーには、普段見慣れない世界が広がっているので、何をどう撮るかで悩んでしまいます。

観る方としては、何といっても、そのコントラストの高さで、目が疲れます。 これは、クッキングシートを貼り付けた改良版で、ある程度は改善されるはずですが、基本的な特性は変わることはないでしょう。 また、非日常的な世界ということ自体が、大きな魅力でもあり、大きな障害でもあります。 普段の常識が通用しない世界なので、知らず知らずのうちに、ストレスが溜まっていきます。

この辺りのバランスを取ることが、今後の課題ですね。

写真のうまさ

一眼レフを手に入れてから、ブログの読者層が微妙に変わったような気がします。

ブログのリンクやブックマークをリセットして以来、ブックマークは「コメント」と「履歴」のふたつのフォルダに分けて整理しています。 「コメント」には、それ以降、一度でもコメントしてくれた人のブログが入っています。 「履歴」には、三度以上、訪問者リストに履歴が残っていたブログが入っています。 この「履歴」には、様々なジャンルのブログがあるわけですが、毎日のように見に来てくれている写真ブログが5つほどあって、そのブログの写真が、実にうまいんですよ。

正直なところ、どのブログの写真も、あまり私好みではなかったんですが、更新があるごとに見続けることで、その良さが少しずつわかってきました。 今でも、それほど熱心に見たいという気にはならないんですが、その技術力の高さと感性の鋭さには驚くばかりです。 中には、一分の隙もないような、鬼気迫るほどの写真を撮る人もいます。 自分の好みではなくても、そのうまさははっきりわかります。 本能的に両手を上げて降参してしまうほどの、レベルの違いを感じます。

これまで、うちのブログに来てくれる人達というのは、写真に関しては素人な人達ばかりでした。 写真に興味があって、写真を撮るのが好きな人は多いんですが、写真そのものよりも、写真に添えられた日記の部分に、より魅力を感じていました。 でも、それらの写真ブログは、文章よりも写真の方に、ずっと存在感があるんですよ。 失礼な話ですが、文章には全く共感しなかったとしても、写真の中にはどこか無視できない部分があるんです。

そういう目で自分の写真を見てみると、これがもう嫌になるくらいに普通の写真なんですよね。 確かに、自分好みの写真ではあるんですが、写真にうまさを感じるかというと、全く感じないんです。 自分のことは自分じゃわからないのかもしれませんが、少なくとも、自分で思ってるほどうまくないんじゃないかなぁ。 まあ、私にとっては、うまい写真を撮ることよりも、自分好みの写真を撮ることの方が重要なんで、関係ないといえば関係ないんですが、ちょっと悔しいなぁ、なんて思ってしまいました。

そんなわけで、履歴を残してくれている人も、そうでない人も、これからもよろしくお願いします。

写真のニュアンス

くぅさんの記事を読んで、私も花を撮り比べてみることにしました。

花マクロって綺麗だけど、誰が撮ってもあんまり違いがないような気がします。 でも、全く違いがないかというと、そんなことはなくて、やっぱり微妙に印象が違ってきます。 とりあえず、公園をずっと歩いてみたんですが、こういう時に限って、なぜか花が見当たらない! あちこち歩き回ってようやく見つけたものの、小学校の真ん前なので、どうにも落ち着きません。 今日はついてないなぁ。

くぅさんの記事のコメントには、どう撮りたいかが大切だ、なんて偉そうに書いたわけですが、実際に撮ってる時というのは、思っていた以上に何も考えてないということに驚きました。 同じ被写体をしつこく撮ってみようという目標がなければ、アッと思った時にパッと撮って、それでおしまいですね。 想像力をかき立てる被写体の場合は、その世界を追求してみようという気持ちになりますが、そんな被写体には滅多に出会わないので、仕方がありません。

とりあえず、あれこれ条件を変えて撮ってみたんですが、やっぱり最初に撮ったものが一番良いようです。 一枚目がいまいち気に入らなくて、不満を解消した二枚目を撮ったとしても、見比べてみると、不思議と一枚目の方が収まりがいいんですよね。 二枚目の方も良い感じに撮れることもありますが、その時は、もはや別の写真になってることが多いように思います。

写真に構図の力学があることは確かですが、写真を撮るという行為全体を通して考えると、そんなに構図にこだわらなくてもいいんじゃないかな、と思います。 アッと思ったものがちゃんと写っていれば、写真としては満足なわけだし、一枚一枚にダラダラ・クドクドと時間をかけていても楽しくありません。 自分の気持ちに素直になって、サラッと撮ったり、ググッと撮ったり、それでいいんじゃないかな。

ちなみに、私の好みとしては、一段目から順に、左、左、左、左、左です。 もう、見事に左ばっかりですね。 左側の写真は、どれも迷いがないので、安心して観ることができます。 ケチをつけようと思えば、いくらでもつけられるわけですが、その結果が右の写真であり、どこか収まりが悪かったり、物足りなかったり。 どうやら、写真を撮影することと、写真を解釈することは、全く異なるもののようです。

撮影というのは、まさに直観の成せる技なんですね。

写真を撮るということ

桜島一周に出発した時のことです。

フェリーに乗り込むと、首に一眼レフを提げたお爺さんがいました。 かなりの高齢のようで、足元はおぼつかなく、カメラを構える様子も頼りない感じでした。 そこからだと、フェリーのデッキが中途半端に写っちゃうのになぁ、なんて思いながら見ていたんですが、なんとか桜島を撮りたいという気持ちは、痛いほど伝わってきました。

写真というと、綺麗な写真とか、感動する写真とか、どうしても芸術写真を撮ろうとしてしまうところがあります。 写真を撮る側としては、写真を観る人に喜んでもらいたいと思うし、写真を観る側としても、楽しめる写真を観たいと思うものです。 もちろん、そういう「撮る=観る」という関係も写真の魅力ではあるんですが、それだけでもないんですよね。

これまでも、写真を撮る意味について、何度も記事にしてきたんですが、どちらかというと理論先行で、どうも言動が一致してないところがありました。 理屈ではわかっていても、ついつい見栄を張ってしまったり、受けの良い似たような写真で誤摩化してしまったりしていたんですよね。 ただ、最近になって、やっと無心で撮れるようになってきたように思います。

このお爺さんは、ただ桜島を撮りたくて、無心で写真を撮ったはずです。 撮影技術には詳しくなくても、ただ撮りたいものが撮れていれば、それで満足することでしょう。 私は、このお爺さんよりは、恐らく撮影技術には詳しいでしょう。 でも、撮影技術に振り回されて、撮りたいものが撮れていなかったとしたら、写真を撮る意味なんてありませんよね。

無心になって、自分に正直になること。それが、写真を撮るということなんじゃないかな。

撮影という行為からの脱却

最近、自分の写真が変わってきているのを感じます。

いや、写真というよりは、ブログの書き方と言った方が良いかもしれませんね。 突き詰めると、興味の持ち方が変わったということでしょうか。 これまでは、なるべく表面をなぞるように撮っていって、気に入ったものだけを繰り返しとるという感じでした。 それが、とにかく目に入るものを片っ端から撮っていって、全体から浮かび上がってくるものを探るようになったんです。

平川動物公園に、空手の試合、そして桜島一周と、どれも800枚以上も撮影しています。 それまでは、撮って200枚、無理しても300枚が限度でした。 例外として、アメフラシやバイクの撮影がありましたが、これが発展して、今の撮影スタイルに繋がっているように思います。 どうやら、特定の被写体を追いかけることの面白さに、ついに目覚めてしまったようです。

といっても、ただ同じ被写体をたくさん撮れば良いものではありません。 まず最初に、その対象に興味を持たなければ話になりません。 興味といっても、被写体としての興味だけじゃなくて、自分との関わり合いの中での興味です。 動物の中に人間性を見たり、逆に人間の中に動物性を見たり。 さらには、自分の中の人間性や動物性に気づいたり。 自然という言葉以上の自然を、現実の自然から感じてみたり。

写真というものを定義するのは簡単ですが、写真なんて定義するもんじゃないんですよね。 誰が何と言おうと、写真は常に写真だし、写真を撮れば撮るほど、写真は写真になっていきます。 半分は、撮影者である自分の意思によって、もう半分は写真自身の意思によって、写真は常に変化していきます。 撮影者やカメラや被写体が、それぞれ主導権を奪い合いながら、ぐるぐると螺旋階段を上っていきます。

α-7 Digitalというデジタル一眼レフを手にして、ドロドロの安レンズ沼から抜け出して、8MBのメモリーカードを手にして、やっと撮影という行為から解放されたような気がします。 今まで以上に写真は撮るけど、もはや撮ることにこだわりはなく、純粋に自分の興味と向かい合えるような、そんな気がしています。 これまで撮影に費やしていたエネルギーを、本来の興味の対象に費やしていきたいですね。

もっともっと、自分の興味の幅を広げていきたいですね。

撮影しないということ

先日のシンドリちゃんの撮影会の時の話です。

花飾りを作っていた親子が、シンドリちゃんに自分達の作った花飾りをかけてくれたんですよ。 でも、シンドリちゃんには大き過ぎたので、わざわざシンドリちゃん用に小さく作ったのを持ってきてくれたんです。 でも、首飾りが小さくなった分、シンドリちゃんの首にかけるのは難しくなります。 お母さんは息子の手を支えながら、飼い主のひろさんの手はシンドリちゃんを支えながら、妙な緊張感の中、その儀式は行われました。

私も、最初はその様子を撮影していたんですが、結構難儀していたので、途中からカメラを置いてお手伝いをしました。 なんとか首飾りの授与は無事に終わって、ほっと安堵の空気が流れます。 私はシンドリちゃんを後ろから操って、お礼のダンスを披露しました。 喜んでもらえたのかどうかはわかりませんが、シンドリちゃんはミーちゃんのように大人しくしてくれたので助かりました。

もちろん、小さな首飾りをかけたシンドリちゃんの写真はありません。 私がシンドリちゃんを操っていた写真もありません。 無事に儀式を終えた親子の写真もありません。 でも、写真は撮れなくても、このささやかな儀式が無事に終了したことが、私には嬉しく思えます。 もしかしたら、微笑ましい決定的瞬間が撮れたかもしれませんが、全く後悔はしていません。 むしろ、あの場面でカメラを置いていなかったら、そのことをずっと後悔していたことでしょう。

それに、小さな首飾りをかけたシンドリちゃんの写真よりも、この写真の方がずっと好きですね。 うさぎに首飾りをかけてあげたいという男の子の手。 それを陰から支えているお母さんの手。 初対面の親子のために、シンドリちゃんを押さえているひろさんの手。 なんだか良くわからないまま、じっと大人しくしているシンドリちゃんの手。 たくさんの手の中に、たくさんの気持ちが詰まっています。

もしかしたら、この写真を見て、小さな子供のエゴによる動物虐待だと言う人がいるかもしれません。 まあ、確かにシンドリちゃんにとってはちょっとした災難だったかもしれませんが、虐待と言うには明らかに言葉が強過ぎます。 大人達の間には、仕方がないなぁ、というちょっと面倒臭そうな空気もありましたが、このおかげで私とシンドリちゃんは急接近して、シンドリちゃんが自分から私の方にやってくるようになったわけですから、結果オーライですね。

シンドリちゃんの撮影会という名目ではありましたが、撮影するだけじゃ駄目ですよね。

気持ちの伝え方

昨日は、後輩の就職活動のお手伝いをしていました。

一社のエントリーシートを書き終えるのに、なんと12時間近くもかかりました。 午後4時に初めて、終わったのは翌日の午前4時前。 かろうじて明るくなる前には帰れましたが、ずいぶん時間がかかったものです。 去年はドラゴンさんのお手伝いをして、見事就職を決めているだけに、今回も無事に決まって欲しいものです。

ところで、彼らの様子をみていると、あまりの作文能力のなさに驚きます。 いや、どちらも大学院まで進学しているだけに、文章能力は十分にあるんです。 でも、理系の性格が災いしてか、理路整然とし過ぎて、さっぱり気持ちが伝わってこないんですよ。 まるで、無味乾燥な技術系の論文を読んでいるかのようです。 これでは、正確な事実は伝わったとしても、熱意は全く伝わらないでしょう。

その旨を伝えると、今度は難解で刺激の強い言葉を使うようになりました。 確かに、熱意は伝わるようになりましたが、これでは読みづらい上に嫌味ったらしくて、かえって悪い印象を与えてしまいます。 書こうとしていることの説明を求めると、実に素直な言葉がぽんぽんと口から出てきます。 じゃあ、それをそのまま書いてごらん、と言うと、また堅苦しくて過激な文章になってしまうんです。

きっと、少しでも印象を良くして確実に就職を決めたい、という気持ちが強過ぎて、それが文章に影響を与えてしまうんでしょうね。 口に出す言葉はすぐに消えてしまうので、気楽に素直に出すことができますが、文章はそのまま紙に残って相手に伝わってしまうため、取り返しがつきません。 失敗が許されない恐怖が、自分を追いつめて、失敗させてしまうんですね。

写真撮影でも、これと同じことだと思います。 ファインダーを覗くだけなら、いくらでも自由に見ることができますが、シャッターボタンを押した瞬間に、その像が固定されてしまいます。 銀塩写真の場合は、一枚ごとにコストがかかるので、まさしく失敗は許されません。 そのため、どうしても失敗の少ない、ありきたりな写真が多くなってしまいます。

一方、デジカメの場合は、撮影コストがかからない上に、撮影枚数も多く、削除もできるので、気軽に撮ることができます。 しかも、RAWで撮れば、パソコン上で思う存分レタッチすることもできます。 でも、その気軽さが、気持ちの緩みになって、写真の甘さに繋がります。 結果として、やたらと見栄えが良いくせに、全く気持ちが伝わってこない、能面のような恐ろしい写真が量産されることになります。

無表情な能面も、舞台の上では、見事な舞によって、命を吹き込まれます。 ところが、舞を忘れて、能面を磨いてばかりいては、観客は誰も満足しないでしょう。 エントリーシートも、豊かなエピソードを探し出して、その時の気持ちに迫ることで、初めて熱意のこもった文章になります。 写真も、自分の心を注意深く観察して、その気持ちに迫ることで、初めて共感する写真になるんでしょうね。

相手に話して聞かせるような、そんな写真が撮れたら良いですね。

写真の効能

大きな木を見上げるのは、とても気持ちが良いですね。

爽やかな青空の下、逞しい枝が折り重なるように伸びて、鮮やかな新緑の葉をいっぱいに広げています。 ただそれだけの光景なんですが、ただそれだけで元気が出てきます。 この日は春らしいポカポカ陽気で、目を閉じていても気持ちの良い日でしたが、写真を見るだけで、その時の気持ち良さが蘇ってきます。 その場にいなかった人でも、この写真を見れば、春の陽気を感じるかもしれません。

写真というのは不思議なもので、構図を頭で考えてしまうと、途端につまらないものになってしまうんですよ。 この写真だって、大きな木を見上げた時に、そのまま撮っただけのものです。 もちろん、露出には気を使いましたが、構図は視点の先にあったものを撮っただけです。 何か特別興味を引いたものに対しては、じっくりと観察しながら撮ることもありますが、時には何も考えずに、気の向くままに撮ってみるのも良いものですね。

写真を撮るようになってから、ずいぶん頭が柔らかくなったような気がします。 もしかしたら、それはただ単に歳を取っただけなのかもしれませんが、頭で考えることよりも、心で感じることの方が多くなったように思います。 カメラはテレビのアンテナみたいなもので、レンズの向きを変えると、心の感度が上がったり下がったりします。 写真を撮る時は、十分な感度が得られた時に、シャッターボタンを押すだけです。

私が写真のレタッチを一切しないのは、面倒臭がりだという他にも、対象が目の前にない状態では、もはやアンテナが反応してくれないからでもあります。 写真をいじっているうちに、何やら面白いものができるかもしれませんが、それは写真としての面白さであって、撮影した時の面白さじゃないんですよね。 もちろん、今のカメラが撮影時の感動を完全に再現してくれるわけではありませんが、後からゴチャゴチャいじくるよりも、撮影時に全てを決めてしまった方が、後腐れがなくてすっきりします。

私のとっての写真撮影というのは、自分の心と向かい合うための儀式みたいなものなんですよね。

プロフィール

K-Hyodo

K-Hyodo

鹿児島の30代男性
ただし、万年16歳
ソフトウェア作家を目指す

コメント・拍手は大歓迎!

K-Hyodo's Soft

どのソフトも、
Mac & Windows 両対応!

iKeyboard 3

本気で覚えるための、
キーボード練習ソフト。

ベクターソフトレビュー


PhotoMaster 2

撮影を楽しむための、
デジカメ写真管理ソフト。

ベクターソフトレビュー

Vector Best Online Soft of 2004


iKeyboard 2

ブログを読み返すための、
バックアップ表示ソフト

窓の杜 今日のお気に入り

カレンダー

06 | 2008/07 | 08
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

ブログ内検索

アクセスカウンター

ブロとも申請フォーム